まばゆい四角い円卓「死ぬかと思った……」
「よかったじゃねえか、万事うまく行って」
「お前なあ……」
無茶しやがって、とナンバは呆れた顔でぶつくさ言う。その様子に一番はくつくつと笑った。パールハーバーでのバイトを終えた帰り道のことだった。今日だけでこの命の恩人の印象はずいぶん変わったと思う。スナックで酔う姿を見て、気がつけば呼び方から敬称は消え、ナンバと呼び捨てるようになっていた。そしてやっぱり土壇場で一緒に戦う姿を見て、全く印象が変わらないとも思った。まだ出会ってからほんの少ししか経たないが、もうずいぶん相手のことを知っているような気がしている。相手の本名も事情も知らない。だからおかしな情だとは思うが、直感が告げているのだから仕方がない。
一番の心の内などまったく知らないような素振りで、ナンバはずんずん先へ歩いていく。戦い終えた安堵感からか酔いからか足取りが軽い。どこか危なっかしく見える。少し後ろから見守っていると、アスファルトのひび割れに足を引っかけてよろめいた。幸い転びはしなかった。大きさの合っていない長靴が小石をいくつか蹴り上げる。
「平気かよ、さっき飲み過ぎてたよな」
「もう酒なんかとっくに抜けたよ、驚きすぎてな」
文句を言いながらナンバが歩き出す。
「ボウガンなんて生まれて初めて見たぜ……」
「まあそれは俺もだよ。銃で撃たれたことはあってもボウガンは初だな」
「そういう話じゃねえんだよ」
またナンバが呆れたように言った。口調に反して、心なしか言葉の棘はどこにもないように思えた。向こうも今、同じように気を許していたらいいのにと思いながら、一番は今度は隣に並んで歩いた。
「……腹減ったな」
ナンバが立ち止まって言った。腹が小さく鳴る音が吞気に響く。どうやら願っていたよりもずっと気を許されているらしい。気がつくと一番は声をかけていた。
「なあ、帰る前に、ちょっと寄ってかねえか」
「寄るってどこに」
軽く目を眇めながら答えられる。別に怒っているわけではなさそうだ。ほぼ文無しの二人が、揃ってどこに行こうというのかと問われているのだろう。一番は渡されたばかりの五千円札をひらひらとさせた。
「命がけの報酬ももらったことだし、豪遊でもしようぜ」
「なるほど、豪遊ね」
店内を見回しながらナンバが満足げに言った。すっかり軽口が言い合えるようになったことを嬉しく思いつつ、一番も椅子を引いた。LEDの白い灯りが満ちた明るい店内で、二人はカウンターに並んで座っている。食欲をそそる香りが鼻をくすぐった。商店街の牛丼チェーンは深夜だというのに賑わっていて、汚れた格好の二人が座っていても誰も何も気にしなかった。
雑談をする暇もなく、頼んだものがすぐにテーブルに出される。遠い記憶と変わらない早さに一番はじんわりと嬉しくなった。箸を手に取り手を合わせる。
「いただきます、」
「いただきます」
習慣でいただきますを言うとナンバも後に続いてくれた。律儀に二度ほど軽いお辞儀をする姿を見て、癖なのだろうかと思う。知らないことが一つ減ったことが無性に嬉しく思えた。
トレーの上には大盛の牛丼と卵とみそ汁が置かれている。今の身の上を考えるととんでもない大豪遊だ。隣のナンバのトレーも同じ中身で、丼だけ並盛にしていた。
「懐かしいな……」
「ああ、出所ぶりか? もしかして」
「まあな。涙が出そうだよ」
口を付ける前に感極まっている一番を見て、ナンバが声をかけてきた。からかわれるかと思ったが、ナンバも同じように神妙な顔をした。
「俺も、店のもんなんて久しぶりだしな……」
「ほお。どのくらいだ?」
「……覚えてねえくらいだな。うん。もうずっと前だよ」
そんなにホームレス暮らしが長いのか、それともカレンダーを見ないうちに本当に忘れてしまったのかは分からない。でもなんとなくこれ以上聞いてほしくないのだという気がして、一番はそれ以上聞かなかった。
ナンバが卵を落とし、一口かき込むのを見届ける。てっきりがつがつと食べるかと思っていたら、一口食べたきり固まってしまった。不思議に思って声をかける。感極まっているわけではなさそうだ。
「どうした? どっか悪いか?」
ナンバはぶんぶんと首を振る。よく見ると頬のあたりを押えている。
「噛んだのか……? 虫歯とか?」
「——ちがう、お前、一番、お前も食ってみろ」
なんとか飲み込んだナンバが何やら必死に言う。一番の丼を指さしている。不思議に思いながら一番も大きく箸で取り、口に放り込んだ。
「……あ」
一口食べて舌が味を認識したとたん、頬の、顎の関節の辺りがぎりぎりと痛んだ。痛いというと語弊があるかもしれない。びりびりと痺れるような感覚になって、そのあと唾液が口中に溢れた。
「な、そうだろ じーんとするよな」
頬を抑えながら興奮したようにナンバが言う。ナンバが言うには、きっと長いこと食べてこなかった味の濃いもの、調味料をふんだんに使ったものを食べたせいで唾液腺がびっくりしたに違いないとのことだった。自論を述べながら嬉しそうにしている。そんなことがあるのかと一番は思ったが、元看護師が言うとそれらしく聞こえた。本当かどうかはどうでもよくて、店で今頬を痛めているのが二人だけだということが愉快に思えて仕方がなかった。
「いやあ、大豪遊だったな」
店を出ながらナンバが満足げに言った。まだ顎のつけ根の辺りを擦っている。あまり遅くに歩いていると変な輩に絡まれそうだから、二人で段ボールハウスへ家路を急ぐ。暗い道を歩く途中、ナンバがまたつまづいて一番の肩にぶつかった。
「アンタ、やっぱまだ酒残ってんだろ……」
「へへ、寒いな、早く帰ろうぜ」
ちょっとだけおどけた顔をして見せてから、すたすたと歩き出してしまった。今の顔も初めて見たかもしれない。知らないことがまた一つ減った。そのことがやけに愉快に思えて一番は一瞬だけ歩みを止める。まだ肩に残る感触をひと撫でし、大きく踏み出して後を追った。