偽文 拝啓 親愛なる霊幻さんへ
お手紙ありがとうございます。麗かな緑溢れる季節が過ぎ去り、肌にまとわりつくような黒南風が吹き始めた今日この頃ですが、貴殿におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
さて、密に手紙を取り交わそうと約束してから、一週間が経ちました。しかし、何たることでしょう。この間受け取った貴方からの手紙にはトイレットペーパー、ケツが痛くないやつの二言だけ。僕はここから何を読み取れば宜しいのでしょうか? 霊幻さんの並々ならぬ発想力にはいつも驚かされます。しかし、大事なことを一つお忘れではないでしょうか。そもそもこの文通が何のために行われているのか。貴方は本当に僕のことを愛してくださっているのでしょうか?
今度直接貴方のもとへ伺い、真意をお尋ねしたいと考えています。首を洗って待っていてください。また会える日を楽しみにしています。
敬具
霊幻邸に柔らかなトイレットペーパーが置かれることを心から祈っている影山律より
律は手紙を最後まで書いてから、差出人の署名の前に「貴方の」と書き加えた。ここまでくると嫌がらせのような気持ちだ。
先日こんな依頼があった。律がたまたま兄の代わりで霊とか相談所へ顔を出していた時、女学校に通う生徒がただならぬ様子で駆け込んできたのだ。
依頼人がいうことには、彼女の通う学園には、下級生が上級生をお姉様、上級生は後輩を妹と呼んで可愛がる文化があり、この人という相手を選んで、友情や深い敬愛を育み特有な関係を築き上げるという。
「所謂エスだな」と霊幻は相槌を打った。しかし、最近校内に恐ろしい噂が広まっていて、それというのもお互いに心に決めた相手と文通を取り交わすと悪霊に取り憑かれてしまうと。悪霊を呼び込む条件は、特定の郵便ポストに手紙を投函すること。女子校の生徒の間で縁結び効果があると噂されている眉唾のポストだ。
幸い、相談所の近くにあったので、三人で様子を見に行った。依頼人に導かれてコンビニに入るとレジの近くに足のついた縦長の真っ赤な郵便箱が置かれてある。律の見立てでは取り立てて何ら異質なところはない。幸も不幸も招かなさそうな凡庸なポストであった。
「お、ローポスくんじゃねーか」と霊幻は何故か嬉しそうに声を上げた。何か買った方がいいんだろうかと律が陳列棚を物色していると、レジ袋を手にした霊幻に声をかけられる。唐揚げのいい匂いがした。
「特に問題はなさそうですけどね、あの郵便ポスト」と霊とか相談所へ戻って、律は簡潔に霊幻へ述べた。
「そんなはずありません……」と椅子に座り、頭を抱え、消え入りそうに呟く依頼主。唐揚げにも手をつけず、応接テーブルをじっと見つめて、「じゃあ、これは? この症状は……?」
女学生の目の下には濃い隈ができている。ろくに眠れていないのだ。彼女の深刻そうな様子を観察して、この案件は当相談所では解決できないかもしれないと霊幻は静かに言った。
「弟子はこう言っていますが、恐らくあのポストに取り憑いているのは高位の悪霊。苦しみを取り除きたいなら、もう二度と例のポストを利用しないことです。文通も暫く控えた方がいいでしょう。貴方が本当に望むなら」
女子学生は苦悩が晴れるかもしれないと霊幻の言葉に幾らかほっとした表情を見せたが、それに異を唱えたのが律である。律は己の力量を侮られたと思い違いをした。
「待ってください。百歩譲って、僕の力が及ばないとしましょう。でも、それなら尚のこと真相を究明すべきだ」
「何か考えがあるのか?」とやや呆れた様子の霊幻に苛立って律は名案とばかりにこう言い放った。
「僕とアナタが文通をする! そして、悪霊をここに呼び出し退治する」
「マジかよ……」
かくして、霊幻と律の奇妙な文書の交換が始まった。言い出しっぺの律は、早速辞典を繰って、手紙の書き方を調べた。また舞台は女子校、親密な二人が取り交わす手紙ということも鑑みて、手紙の内容から偽の文と悟られないように、なるべくロマンチックに書くように努めた。対する霊幻は、やりとりに付き合ってはくれるがビジネスメール調の時もあれば、近所のスーパーの安売り情報が書かれていたりと想定された差出人の人格すら安定しない。強いて言うなら、霊幻からの手紙はどれも淡々とした内容で熱に浮かされたような美辞麗句は一つも書かれていなかった。
「いいぞ、適当で」
律が相談所へ足を向けて苦言を呈すと霊幻はあっさりとこのように言った。
「仮にも引き受けた依頼でしょう。なぜ真面目にやらない?」
「断っておくが、そもそも俺は引き受けた覚えはない。お前が勝手に暴走してるだけだ。それにな、律、言っちゃ悪いがお前の方が余程……」
と言いかけた霊幻を制して、律は吠える。
「言うに事欠いて責任転嫁ですか! いいです、僕一人でもやりますよ」
律はむっとして相談所を出て行った。一人でどう手紙を交換するというのか。律が賢い頭を燻らせていると、意外にも霊幻から手紙が届く。詫びの一つでも書かれているのだろうか、と律が封を開けるとそこには薄っぺらな紙が一枚。他には何も入っていない。肝心の文面は「トイレットペーパー、ケツが痛くないやつ」。
霊幻は間違えて買い物のメモを封筒へ入れてしまったのだろう。そうであってほしいと律は拳を握りしめた。そして、律は冒頭のまるでラブレターのような文章をしたため、そこに恨みつらみの思いの丈を込めた。
手紙が届いた頃を見計らって、宣言通り律は霊幻が暇を持て余しているだろう、相談所の扉を叩いた。道すがら、律はもしかして霊幻からの手紙に記されたあの二言には深い意味が込められていて、僕の送った手紙って……とあらぬ用途を考えていた。
事務所の中には律の思っていた通り客の姿が見えず、ブラインドが半分ほど引かれた窓を背にして、霊幻は作業をしているようだった。没頭しているのか、律が来たのにも気づかないほどだ。彼には珍しい真剣な顔で紙に何事かを書きつけている。
「来たな」と霊幻は律の訪問に気がつくと急ににやつきだして、何か企みごとをしているような調子で言った。「ありゃ傑作だった」
傑作とは律の出した手紙のことだ。普段なら反感を覚えるところだったが、律は一瞬垣間見た霊幻の静かな表情に僅かばかり緊張を覚え、用意した文句も忘れ、かろうじて一つ懸念事項を口にした。
「まさかとは思うんですが、霊幻さんって手紙をお尻拭きに使ってるんですか?」
「いや、詰まるだろ。修理の手間の方が高くつくぞ」
「そうですか……」
思いの外勢いのない律の口調に少し訝しむ様子を見せた霊幻だったが、何かに思い当たったらしい。「ああ、これな。帰ったら読め。そして、読んだら捨てろ」
律の察した通り、霊幻が真摯に意識を注いでいたのはこの手紙。この間の律への返事。「俺も考えを改めた。真面目な弟子に付き合うのも師匠の役目ってな。あと、メモはマジで入れ間違えたわ。悪かったな」
「誰が弟子ですか」依頼主のいる手前、先日は訂正できなかったが、今部屋にいるのは二人だけだった。「分かったならいいです」
律が真白い便箋を受け取って、鞄に入れようとすると、
「おい、何持ち帰ろうとしてんだ? ポストに投函しなきゃ悪霊が現れないだろ」
ひょいと愉快気に封筒を摘み上げた霊幻を律は睨みつける。
「精々取り憑かれないことですね」
「お前もな。ま、大丈夫か、お前は」
後日、律の自宅へ霊幻からの手紙が届いた。律は慎重に封を切る。霊幻が生真面目に書いていたのだから、どれほどの美文を書き連ねたのか。それに何か企んでそうなあの様子と律は身構えていたが何のことはない。便箋には宛名も差出人の名もなく、そこに書かれていたのはただ一言だけ。貴方のことを愛しています。