終業後に確認したプライベート用の端末には、元気よく「酔っ払ってるからよろしくね」などと浮かれたメッセージと本人のスタンプが届いていた。差出人は言わずもがな、今日は確か調整で会社都合の休暇になっていると言っていたはずだ。
なぜその貴重な休みを他人の家で過ごしているのかは些か不明だが、酔っているという自己申告から察するに、人の家のワインラックから何かをくすねているのだろう。
「バカめ……」
思わず口を突いて出た悪口は近くにいたカンパニーの社員に聞かれてしまっていたようだが、いつも似たようなことを言っているせいで、苦笑いを向けられただけで終わってしまった。
***
リビングに行こうものなら絡まれると察したレイシオは、自宅の玄関を抜けてすぐ浴室へと足を向けた。まずは絡まれる前に入浴を済ませ、へべれけになっているアベンチュリンをベッドへと放り投げてから、その後ゆったりと読書でもしながら過ごそうという算段だ。
タイマーで張っていたお湯に浸かり、一日の疲労を吐き出すようにふーっと長く息を吐き出す。自然と力を入れていた肩や目がゆっくりと解れていく感覚と共にリラックスして目を伏せていると、何やら浴室の外から不穏な音が聞こえてくる。
「ーーやあレイシオ、帰ってたなら言ってくれれば良かったのに!」
バン、と勢いよく開け放たれたドアと共に、レイシオは予定があっけなく崩れ落ちたのを感じていた。ただでさえ声が響く場所だというのに、この酔っ払いは平常時よりも声を張ってくるのだからタチが悪い。
「うるさい。そんなに声を張らずとも聞こえている」
「テンション低いなぁ。付き合ってくれてもいいだろう?」
「酔っ払いに付き合う義理はないぞ。アルコールがこちらまで届く」
「ええ?そんなに臭いかなあ。そんな飲んでないけど」
飲んでいない、酔っていないという言葉を酔っ払いから聞いたとして、誰が信用するのだろう。目は据わっているし、おまけに顔が赤いのだから何も信用できやしない。
「ま、少しくらい許してくれたって良いじゃないか。気分がいいんだ、少しおしゃべりしよう」
そう言うとアベンチュリンは浴室の椅子へと腰をかけた。それは水気が残っていたはずだが、気にした様子も見せていない。
「まさか居座る気か」
「今日飲んだのは、この間君が買ってきたスパークリングワインとーー」
今度は聞いてもいないのに自分が飲んだアルコールの紹介が始まってしまった。レイシオを揶揄っての振る舞いなのか、本気で酔っているのかの判断がつかないせいで余計に面倒である。
「本当に話すつもりか、君は……」
「ふふん、ちょっとくらい良いだろ? ぼくはね、きみが帰ってくるのをずっと楽しみにしてたんだ。……構ってほしいな」
こてんと首を傾げながらそう言われてしまえば、口から出るはずだった悪態たちが勢いを失って引っ込んでしまった。この表情に弱いことは自覚しているが、酒のせいで潤んだ目を向けながらしおらしくされると勝てそうにない。
「あはっ、ちょっと靡いたでしょ」
「ーー靡いていない。口を閉じるんだ」
「かわいいなぁ」
「うるさい」
その特徴的な目を嬉しそうに歪ませながらアベンチュリンが詰め寄ってきたので、分が悪くなったレイシオは言葉数を減らして応戦する。ただ、舌戦ではやはり彼に勝てそうにない。
「……でもね、待ってたのは本当だよ。お酒も美味しかったけど、どうせなら君がいた方がいいかな」
「……」
「ちょっと、なんか言ってくれよ。恥ずかしくなるだろ」
「押しかけてきたのも、勝手に話し始めたのも君だろう」
普段は本音など語ろうとしない男の、隙だらけの穏やかな表情を見るたびに心を乱されてしまうのは惚れた弱みだろうか。
いつだってこういう時にぶっきらぼうな言葉しか返せないけれど、そこは機微を感じ取ることに長けたアベンチュリンに甘えている。
「ーー上がったら晩酌に付き合う。それで良いか?」
「うん」
「大人しく待っていろ。僕もすぐに行く」
濡れたままの手を伸ばしてアベンチュリンの顎を捉えると、ちゃぷんとお湯が揺れる音と共に彼の唇へとひとつだけキスを落とす。とっさのことに目を丸くしているアベンチュリンは、徐々に状況を飲み込んで照れたように唇を尖らせている。
「わかった。あっちで待ってるね……」
小さい返事と共に立ち上がると、アベンチュリンは最初の勢いとは似ても似つかない様子でふらふらと浴室を去っていった。
そうして静かになった浴室は元々レイシオが望んでいたものだ。邪魔者も去ってこれでゆっくりできるようにはなった。ただ、先程のアベンチュリンとの会話の中で、彼はレイシオの心に引っかかりを残していた。
「……」
茶化しながらも口にしていたアベンチュリンの言葉たちが、静かになった浴室とは相反してレイシオの頭の中を反響する。心を寄せている相手のあんな表情を見てしまっては、のんきに風呂に入っているのも心苦しいのだった。
***
いつもよりも早めに入浴を済ませたレイシオがリビングへと向かえば、あんなに元気だったアベンチュリンは机の上で静かに力尽きていた。
「……やっぱりな」
自分の腕を枕にして器用に寝ている姿に思わず笑いながら、レイシオはその隣の椅子を静かに引いて腰を下ろした。
すっかり寝入って穏やかな寝息を立てるアベンチュリンの横で、レイシオは彼が使っていたらしいワイングラスを手元に移動させる。そして開いているボトルから少しだけそれを注ぐと、ゆっくりと口の中へ流し込んだ。
確かに口当たりが良く、これは彼好みの味かもしれない。そう思いながらボトルの残量を見れば、確かにアベンチュリンが机で寝てしまうくらいには減っていた。
「……飲み過ぎだな」
思わず浮かべてしまった笑みはそのままに、レイシオは彼の目元にかかっている前髪をそっと指で退けてみる。多少の刺激に対しても全く起きる様子はなく、伏せた目から伸びる長いまつ毛が部屋の照明によって長く影を作っていた。
しばらくアベンチュリンの傍らで読書に耽っていたレイシオは、そっと一区切りをつけて本を机の上に置いた。気がつけばそろそろ二時間が経とうとしている。
「おい、そろそろ起きろ」
「……」
最初から期待はしていなかったが、やはり起きる様子はない。
「起きろ」
今度は肩を揺すってみたけれど、んん、と呻き声を上げるだけで瞼を押し上げるには至らなかったようだ。
「……はぁ」
何から何まで面倒がかかる男だけれど、それを面倒と思えない自分がいる。別にこのまま放っておいたところで彼は風邪を引いたりはしないのだろうが、レイシオの良心がそれを許すことはなかった。
アベンチュリンの側で腰を屈めて、彼の膝裏と背中にそれぞれ両手を差し込んで一気に立ち上がる。寝入って力が抜けきっている人間は、ある程度鍛えた成人男性でも抱えるのにそれなりの力を要した。
「んん……? あれ、レイシオ、なにしてるの?」
「君がテーブルで寝こけてたせいだな」
「すごい、だっこされてる」
寝起きの回らない口で寝言のように言葉を発したアベンチュリンは、状況を理解したあとも素直に運ばれていた。
やがてベッドの上へその体を横たえると、アベンチュリンは消え入りそうな声で「ありがとう」と口にしたか思えば、そのまま吸い込まれるように夢の世界へと沈んでいってしまった。
「もう寝てるのか」
レイシオの問いかけに答える者はなく、ベッドの上からはすやすやとおだやかに眠るアベンチュリンがいるだけだ。
「……誘うつもりなら、多少は酒の量を気にすることだな」
散々騒いだ上で安らかに寝こけているその金髪をくしゃりと撫でたあと、レイシオはそっと布団を彼の上へと被せたのだった。