手を引かれている。
科学が大好きな少年は特別抵抗しようともしなかった。ただ目の前の師匠に連れられるがまま、たなびく白衣を眺めている。
昔からそうだった。ゼノはいつも強引に千空の手を引いて、知らない世界へと導いてくれた。千空が何度その手を振り払っても____実験に失敗しても、ゼノの理想には協力できないと伝えても、変わらずにまた手を握り直してくれた。
だが、なにもかも昔と同じというわけでもない。例えば温度。あの部屋のコンピュータから繋がれた無機質で冷たいキーボードとは違って、今千空の右手には心臓から血管を通して伝わる熱がある。ゼノの長い鉤爪が手首の包帯に触れて、彼が千空と同じ合理的な理由でそれを身につけていることに、妙にくすぐったさを感じた。実は、手を引かれているというのは比喩ではない。とある国で開かれた何やら無意味そうな会議から帰ってきたばかりのゼノは、久々に弟子の顔を見ても一言も発さず、ただ研究所の長い廊下を、千空の一歩先を歩いている。
すれ違う研究者たちが目に見えて減っていくのを数えているうちに、ゼノは突き当たりの部屋に入った。彼のお目当ての場所は千空にも幾度か見覚えがあって、ふ、と無意識に息を吐く。
握られている手はそのままに。ゼノが振り返って、その表情を伺う間もなく視界が覆われた。影のかかった白。千空がどれだけ懇願しようと身に着けてはくれないだろうと思っていた、清潔で無垢で何より合理的で、滑らかな純白をゼノが纏っている。
昔となんら変わりない。どこまでも千空を導いてくれる師匠が、自分と同じ色を身につけているという事実はなにより千空を安心させた。柔らかい布の擦れる音が耳に入る。全身を包む控えめな体温に、やっとゼノに抱きしめられているのだと自覚した。
千空は、師匠であるゼノにできる限りのものを返したいと思っている。
自分の科学が、そして自分と"こういう"ことをすることが彼の純粋さを取り戻せるのなら、いくらでもくれてやりたいなどと非合理極まりないことが想起されて、すぐに弾けていく。
その想いは決して献身なんかではなくて、あの頃の、ただ純粋に笑って科学を教えてくれたゼノに、勝手に焦がれ続けているだけだ。そう千空は自覚している。
だから千空は、精一杯細い身体に腕を回して、硬い胸に顔を押し付ける。ゼノの全身が一瞬こわばるのが分かって、それでもすぐに脱力した。体温と、心拍が少しだけ上がっている。でもゼノは何も言わない。千空も何も言わなかった。言わないから、このままの関係でいられた。
ゼノが自分に向ける気持ちには、ずいぶん前から気づいていた。それに応えることができないくせにこんな行為を受け入れるのは、まるで誠実とはいえない。今までも目的のために政略結婚やら彼女やらこさえたことはあったが、それらとは訳が違うのだ。
色恋なんかとは程遠い、もっと莫大で非合理的で重く、憧憬も感傷も未練も孕んだ、もう3700年も前から千空の中心にしぶとく居座っている願い。それが紆余曲折を経て今やっと叶いそうなのだ。愛だの恋だのに振り回されて、こいつの何より唆る科学を、その輝きが千空と同じ方を向いて進んでゆく未来を、そう簡単に手放してたまるか。
もう一度、千空はゼノを強く抱き締めた。
小学生だった千空が初めてNASAにメールを送ったあの日、ゼノは白衣を着ていたのだろうか。
そんなとうに過ぎ去った過去ばかりを、千空は今も仮想している。