Gazania ある日、医者に鉢植えを押し付けられた。
枯らさないように、とだけ厳命されて、窓辺に置かれた素焼きの鉢。
覗き込めば、そこにあるのは艶やかな緑の葉。花は無い。あまり見たことのない植物だ、と思った。
「置く場所は屋内で構わない。日の当たる風通しの良い場所、とのことだからここが相応しいだろう」
「……なんで?」
続いた説明を遮り、やっと絞り出せたのはそんな問い。
こちらの当然の疑問に、さらり、と医者は涼しい目のままで。
「霜に当てないことが肝心だ。これからの季節は、その危険も考えられるだろう。家の中が安全と判断すべきだな」
「そうじゃねーよ。なんでオレん家に置くんだよ!」
欲しいのは『屋内に置く理由』ではなくて、「何故、獅子神敬一の自宅に置くか」の回答だ。これは別に、なにも不自然な疑問でもなく、この家の持ち主である自分には、当然、得る権利のあるはすのもので。
けれど、当たり前だが、目の前の村雨礼二というこの医者は、そんな気持ちを汲んでくれる(分かってない、ではないのが余計に始末に悪い……)相手でなかった。
「水は、土が乾いたらたっぷりと。但し、やり過ぎるなよ。乾燥には強いが多湿に弱い」
「……へーへー」
もはや回答を得ることは諦め、頷く。その獅子神の適当さに気が付いたのか、一歩、医者がこちらに近づいた。
自分より六センチ低い位置にある、艶やかな黒髪。その下の、金縁眼鏡の奥の隈に縁取られた榛色の目が、少し細められる。
「獅子神」
「あ?」
「私だと思って、丁重に扱うように」
「…………は、あっ!?!」
思わぬ言葉に反論が遅れた。
は? と、あ? を繰り返し、マトモに意味のある言葉を告げない様を、満足そうにしばらく観測して、医者は踵を返した。
「花が咲いたら教えろ」
ただ一言だけを、背中越しに残して。
***
それから獅子神は、村雨から押し付けられた鉢植えを甲斐甲斐しく世話をした。
水をやり、部屋の温度と風通しに気を配り、土が乾けば水をやる。
但し、やりすぎない。
無理やり押し付けられたとは言え、元より、アイツから預けられた物を雑に扱う気はなかった。
あんな……殺し文句のようなことを口にしなくても……
『私だと思って』と耳の奥であの声が蘇り、硬直する。ドクドクと鼓動が音を立てて速くなる。
私だと思えって、お前、それがどういう意味かわかって……いやアイツのことだ、そんなこと承知で………マジかー……
「村雨の野郎………お?」
誰に見られるわけでも無いが、頬の火照りを誤魔化すように、鉢植えを覗き込み……昨日までは無かった変化に気付く。
まだ硬い、けれど確実にこれから咲く予感を見せる、小さな蕾。
フ、と、無自覚に唇が綻ぶのを感じた。
スマホを手に取り、写真を撮る。LINEを開いて村雨を呼び出しかけ……手を止めた。
「咲いたら教えろ、つってたな……」
なら、まだいいのだろう。
どうせ、また叶や真経津に巻き込まれるように顔を合わせることになるだろうし。
「花、楽しみだな」
呟いた獅子神の手元に鳴る、小さな通知音。銀行からの、次の勝負を知らせる着信だった。
***
「………あー………………帰った」
慣れた部屋にようやく辿り着き、半ばソファに倒れ込むように腰掛ける。
汗に濡れた前髪を掻き上げたら、いつもと変わらぬ眼差しでこちらを見ている医者がいた。
「よう、お前も座れよ」
声をかければ、村雨礼二は素直に獅子神の隣に腰掛けた。
ボタンを緩めることもなく、きっちり着込まれたスリーピースには少しの乱れも見られない。
背筋を伸ばし、何も変わりません、と言う風に静かに座っている。
ああ、綺麗だな、と。伸びた背筋を見てぼんやり思った。
「………勝ったな」
漏れたのは、囁き。初めてのタッグマッチ。あまりに遠く感じたコイツの背中。何がなんでも生き残るため、夢中で手にした強さ。友人の、恐らく初めて見たあの笑顔。
誰のためでもない。ただ俺自身のために。並び立てるように、死ぬ思いで掴んだ強さ。
全てが、静かな馴染んだ自宅に帰った今は、遠い遠い世界のようで。
隣に座る村雨は、こちらの話を聞いているのかいないのか。背筋を伸ばして座ったまま、窓辺をじっと見ていた。
「なぁ、村雨。オレは、お前に………その」
「咲いたのか」
ただ、一言。
静かに耳を打つ、村雨の声。
釣られて窓辺を見れば、朝日に照らされて、鮮やかに咲く花の色。
「あ」
凛とした。今日初めて咲いた、一輪花。
「……咲いた」
村雨と共に、窓辺に寄る。細い花びらが縁取る、鮮やかなオレンジ。
「なぁ」
「なんだ?」
「これ、何の花だ?」
「………調べなかったのか」
意外そうな声に、あー……と頬を掻く。正直、何度か特徴で調べようとしたことはある。
けれど……
「お前が言ってこないから、なんかズルな気がして」
それに、どうせ聞くなら、お前の口からお前の声でが良かったし。
「マヌケが」
もう何度言われたか分からない、今となっては全く悪口に聞こえない言葉に笑う。
で、何だよ? ともう一度聞けば、やれやれと医者は口を開いた。
「ガザニア」
「……ガザニア」
聞いたことはある、かもしれない。けれど馴染みのある花でも無い。
元より、そこまで植物に詳しいわけでもない。
ただ気になるのは、何故それを俺に育てさせたのか、だ。
訊ねれば、珍しく、何も含みの無いような顔で、医者は笑った。
そう、或いは、何かが嬉しくて誇らしくて堪らない、と言う表情で。
「これが………私の、あなたへの気持ちだ」
朝日に照らされて、笑う村雨礼二は、あの頃欲しかった何よりも、美しく見えた。
「ようこそ、1/2ライフへ。獅子神」
***
ガザニア
花言葉は「貴方を誇りに思う」