Helianthus 近く、遠く。蝉の声を聴く。
聴き慣れたミーンミーンとでも聴こえるようなあの音ではない。形容しがたい、聴き慣れない声。
造詣のある人間であれば、鳴き声から種類を特定できるかもしれないが、生憎と興味も知識もない。
暑い。
歩きながら、村雨は流れる動作でスマートフォンを取り出した。手に触れた端末は心なしか熱を持っているように感じ、一瞬、躊躇う。
これを、耳に当てる?顔に近づける?
ハンズフリー……と思うが、イヤフォンは手元にない。人通りの少ない田舎道とは言え、恋人の声を道行く者どもに無料視聴させてやるつもりもない。
暑い。
メッセージアプリを起動し、相手を選択して通話ボタンを押す。繋がるのには、おそらく5秒も要しなかった。
「おー村雨。どうし……」
「ここは何処だ」
「……いや、知らねーよ」
困惑気味の返答に、舌打ちしたくなる衝動を堪える。いや、相手には伝わっているかもしれない。
更に困惑した声が「迷子か?」と訊ねてくるのが煩わしい。
暑い。
「ここは何処だ」
「xx県だろ」
「マヌケ」
誰もそんなことを訊いていない。何県かぐらいはわかっている。もう少し縮尺をなんとかしろ。
暑い。
「獅子神」
「ん?どーした?」
「私は何故ここにいる」
「………….学会」
「マヌケ」
自然、声が単調になる。そんなことはわかっている、と反論する思考すら、熱に溶けて蒸発する。
暑い。
そう、これは仕事だ。
泊まりで。この夏に。
遠く離れた地で。
住み慣れた恋人との家を出て……それはつまり、自分の為に整えられた、快適な居住空間から離れるということで。
ほんの数日でも耐え難い……そう、辟易しているところにこの暑さだ。そして、現在地が曖昧なこの今だ。
隠すつもりのない苛立ちを募らせていれば「ちょっと待ってろ」と、声。
耳元で通知音を鳴らすスマホの画面を見てみれば、位置情報の共有を求める通知。
許可を押し、再度、端末を耳元に。心なしか、先ほどより熱を帯びているようにも感じる。
暑い。
「んー……オメーの現在地ががココだろ。ホテルに戻れたらいいのか?」
「……ああ」
「住所わかるか?」
「……」
「ホテルの名前は?」
「ゴールデンサマーホテル」
「………春秋冬は何色なんだ」
「知らん」
ホテル名を見た時、自分も同じ発想をしたけれど。
今はそれよりも、ホテルに戻ることが先決だ。更に言えば、この暑さがなんとかなることが最重要だ。
「あー、ここか。右に交差点あるか?」
「ああ」
信号機は無いが、横断歩道は確かにある。
「それ渡って真っ直ぐ」
「わかった」
言われた通りに歩く。
流れ出た汗が、頬を伝う感触。空いてる片手でハンカチを出して拭うが、この温度ではキリがない。
暑い。
「さっきから聴こえてるの、蝉の声か?」
「そうだな」
「あんま聞いたことない声だな。種類が違うのかね」
「おそらく」
指示に従って歩いている間も、人の姿は無かった。元々の人口の少なさに加え、この暑さだ。風もなく、太陽が容赦なく全身を直撃してくる。
とにかく、暑い。
「暑い」
「8回目」
「暑いものは暑い」
「だろうな」
声の具合からして、獅子神はおそらく自宅だろう。村雨も共に暮らしている、一軒家。主に獅子神の手により、住みやすく整えられた快適な場所。
もちろん、エアコンによる温度管理もばっちり。つまり、涼しい。
なぜ人類はワープがてきないのだろうと、危うく真剣に考えそうにすらなる。
「蝉って、35度超えたら鳴かないらしいぜ」
「暑い」
「……ああ、うん。そうだな」
何故か投げやりに感じる相槌を聞きながら、「500m先を右」の言葉に視線を前方へと投げる。
熱せられたアスファルトの上で、陽炎が揺れる。
「に、しても、珍しいな」
「何がだ」
「村雨センセイが迷子」
迷子、という表現には反論したい。けれど……敢えて、それを口にする気は湧いてこない。
「…………」
口かさがない同僚が居る。その言動から、患者からも病院関係者からも評判が悪い………らしい。
ほんの、数分の立ち話だった。
なるほど確かに、口が良くない。無神経、とでも表されるだろう。周りの人間から疎まれることが理解できた……理解できるようになってしまっていた。
ああ、他人を「慮る」ことをしなければ、こうなり得るのかと……そう思いながら聴いていた「世間話」が、『最近稀に病院の駐車場に現れる金髪のイケメン』の話になった時点で、咄嗟に背を向けていた。
おそらく「失礼」くらいは言ったとは思う。ただ、聴いている気になれなかなった。だから離れたくて、ホテルを出た。
それだけ、なのだ。
「村雨」
「……なんだ」
返す言葉は、やや、尖った響きを帯びていたかもしれない。
「あ、いや……そろそろ、聴こえねーか?」
「何がだ」
「波の音」
波の音。
それなら、聴こえている。
但し、獅子神が訊ねる3分ほど前から、だが。
規則正しく繰り返す、拍手にも雨垂れにも似た、連なる音。
「聴こえている」
「そか。さっき言った道を曲がったらすぐ海が見える筈だぜ。あと……」
「?」
「なんだ、ここ?なんか空き地か……?」
ナビは正確にしろ、と言いかけた足が、タイミング良く曲がり角へと差し掛かる。
右……と無意識に判断し、角を曲がる。
海が、見える。
足が、止まった。
「村雨?」
不思議そうに訊ねてくる電話の向こうの声が、何故か、少し遠い。
黄色が。
目に……刺さる。
***
「村雨?」
沈黙した端末に向かって、獅子神は呼びかけた。
自宅のリビング。膝に置いてあったノートパソコンをテーブルに置き、ソファの上で姿勢を正す。
端末の向こうから届くのは、微かに響く、あまり聴き慣れない蝉の声。
聴くともなしに聴きながら、沈黙の間にあれ?と思い至り考えて。
「蝉の声って、電話じゃ聴こえねぇとか何とか……」
子どもの頃に、聴いた気がするような知識に過ぎないが。通信機器の進歩なのか、それとも蝉が突然変異でも起こしたか……
調べてみるか?と画面に触れようとすれば、タイミング良くボタンが現れる。
「お?」
動画通話。
不思議に思いながら、オンにする。映像が映る。
「……!」
黄色が。
弾ける。
「……」
海を背にした、満開の、ひまわり。
いくつもいくつも……数えきれないくらい、揃って咲く太陽の花。
「獅子神」
見入っていれば、聴き慣れた声が響いた。
画面の中の世界が動き、恋人の顔が映る。どこか、得意げに見える表情。
腕を伸ばし、スマホを翳す姿勢。何してんだ?と思うけど、2秒後には意味がわかる。自分とひまわりを、同じ画面で同時に見せるため。
「どうだ?」
「すげぇな」
問いに素直に答えれば、だろう?とでも言いたげな顔になる。
その様に笑いそうになるのを堪えながら、画面を見つめる。
花と……5日ぶりに見る、恋人の顔を。
ちょっと隈が濃くなってねーか?ちゃんと寝て食ってんのか。俺が居ないと意外と生活力がな……
「獅子神」
「あ?」
「ひまわりの花言葉を知っているか」
「花言葉……?」
知っている。
と、言うよりも、知ってる事実を知られている。筈だ。
数年前、洪水のような黄色に囲まれて……そう、確かこんなひまわり畑だった……獅子神にそれを教えてくれたのは恋人自身だった筈だ。
まさか、忘れたワケ無ぇだろ?と。そんな想いを込めて暗赤色の目を見つめながら、口にする。
「“憧れ”だろ」
そう。だから……まるで、自分のようだと、想ったのだ。
「……そうだな」
画面の中の恋人が、満足げに頷く。まるで、よく覚えていたなとでも言いたげで。
「だが」
恋人が……村雨礼二が、笑う。
ひまわりを背に。鮮やかな黄色を背景に。この世で獅子神敬一だけが知る、唯一無二の笑い方。
「他にも、ある」
「他?」
黄色が、弾ける。風に揺れる。
グラスコードが、煌めく。
そうやって笑うオマエが、本当に綺麗だ。
「“私はあなただけ見つめる”」
「………」
言葉は、出なかった。
ただただ、画面を……笑う恋人を、見つめるだけで。
呼吸することさえ忘れた数秒が、まるで永遠のようで。
ブツっ!と。
何も情緒を感じさせぬほど唐突に、映像が消える。
「は?」
通信は、まだ繋がっている。音声はまだ互いに届くようだ。
「村雨?」
呼びかけるも、返事がない。
何かトラブルか?と思うも……もしかして、と、過ぎる推測。何年か恋人として暮らしてきた自分だからこそ、思い至るソレ。
「………照れてんのか?」
「!!」
返事はなかった。けれど、伝わる気配だけで充分だった。
だから……ハハっ!と。笑ってから、端末に向けて呼びかける。
「礼二」
「……なんだ」
「あと何日だっけ?」
「4日だ」
簡潔な言葉に、じゃあさ……と囁く。
「オレ、明日行っていい?」
今、すごく、会いたい。
画面越しではない、直接見て、触れて、抱きしめられる恋人に。
「……午後ならば時間は空いている」
「ん、サンキュー」
あのひまわりを2人で。とは、言わなかったけれど。きっと、考えていることは同じだから。
電話を切り、獅子神は天井を見詰める。
黄色と……あの笑顔が、瞬いた瞼の裏で弾けたような気がした。
***
Helianthus(ひまわり)。花言葉は『憧れ』『私はあなただけ見つめる』