君を思へり(Geranium) 家を買った。
畳と板の間の多い、平屋の家。
今まで住んできたのは、二階建てや洋間が殆どだったので、かなり珍しいと言える。
伴侶が、その家が良いと言った。
畳の間が、幼少の頃……もう80年近く昔であろうその頃を、思い起こさせると言って。
自分と、出逢う前のこと。
そこに拘りを見せることには、嫉妬などは特段ない。友人として、恋人として、伴侶として、60年は連れ添ってきた身だ。今更、でしかない。
その、家の片隅にも。
花壇があった。
今までの家にも必ずあったので、誰かが気を利かせた結果だろうか。
初めて、家を買った時。その家にも、花壇があった。
2人で花の種や球根を買い込んで、並んで植えた。
春が来て、赤と青にほぼ占められた花々に、顔を見合わせて笑ったものだ。
「………そうか。もう、50年前か」
無意識に。囁きが、こぼれて夏の初めの空気に溶ける。
家を買い、共に暮らし、揃わぬ歩調を2人並べて、歩いてきた50年。
懐かしむにも。振り返るにも。長過ぎて、眩しすぎて………絶え間なさすぎた、時間。
あと、何年? などとは、考えない。
賭場になど身を置いてきた自分たちが、この歳まで共に在れただけ充分過ぎる、と。獅子神は誰より理解していた。
「あ」
ぽつん、と。
雨垂れが一つ、帽子越しに頭を叩いた。
ほんの些細な……けれど確かな感触に、眉を寄せる。
「急がねーと……」
足を早める。
手に提げていた荷物を、慎重に抱え直す。
ぽつり。
今度は、風に揺れた和服の袂に、また一滴。
本格的に降り出す様子は、まだ無い。けれど本降りにならない保証は無い。
抱えた荷物は、或いは雨に強いかもしれない。けれど80を遠に超えた獅子神自身は……
「アイツに、また『マヌケ』て、怒られるな……」
げんなり、と言う調子で呟いて。
けれど同時、いくらでも怒ってくれと、そんな、どこか祈りに似たような想いも確かにあって。
怒っていても。呆れていても。笑っていても。オレが理由なら、いくら見せてくれても構わないから。
「………」
らしくないこと、を考えてしまったのは、この分厚い雲のせいか。
ため息を吐き、真っ直ぐに歩く。家の屋根は、もう容易く見える距離に存在していた。
「よし……と」
ギリギリセーフ。
そんなことを考えながら、ドアを開ける。
玄関に身を滑り込ませれば……ざぁっと。外からは一気に雨足の強まる音がした。
しん……と、静まり返った屋内に、声はかけない。
もしかしたら伴侶は寝ているかもしれない。そうでなくても、用事があるなら起きてくるだろう。
だから、今は。
手に提げていた荷物を、三和土に置く。
小さなプランターがいくつかと、苗が植った黒いポット。既に、赤い花を咲かせている。
馴染みの店員に、手伝いましょうか? と、心配された程度には重かった。けれどこれは、自分の手で運びたかったから。
「さてと……」
気合いを入れて。
玄関の収納から、園芸用の土など必要な物を取り出す。
小さなシャベルを握り締め。
本当は、花壇いっぱいに、花を植えたいけれど。
2人、青い花とチューリップで埋め尽くしたあの頃と同じだけの体力は、さすがにもう無かったから。
けれど。
いつか住む場所を「終の住処」と決める時が来たら……この花で、満たしてやろうと決めていた。
『あなたは、マヌケの中でもまだマシに見える』
花をポットから取り出す。
土で満たしたプランターに穴を開け、植え付ける。
一つ、花に触れる度に思い出す。
賭博に負けた相手に呼び出され出向いた賭場で、出会った日のこと。
それから想い想われ、恋に落ちて。共に、生きてきたこと。
『それは愚策だな。あなたには向いていない』
一つ、花を植える度に想い描く。
他人を真っ直ぐに射抜く、赤玉の瞳。いくら眠っても濃い、その下の隈。下がり気味にも程がある細い眉。
真っ直ぐ伸びた背。肉付きの薄い身体。艶のある、真っ黒で硬い髪。
『残念でならない。あなたが相手だとはな』
一つ、花を見つめる度に思い知る。
ただの一度も勝てたことのない、ギャンブルの強さ。いつも何もかも見透かされた、観察力の鋭さ。全てを見通す、視点の多さ。オレの心を捉えて離さない、オレだけに向けられた愛情深さと笑い方。
『王冠など捨ててしまえ。あなたにはもう必要ない』
一つ、花に口付けるようにすれば、溢れ出す。
好きだ。
好きだ。
好きだ。
愛してる。
愛してる。
愛してる。
だから。
「よし」
全てを植え替え終え、獅子神は一息を吐いた。
屈めていた姿勢から立ち上がり腰を伸ばせば……あまり、愉快ではない音が響く。
すっかり凝り固まった肩を解しながら、外を伺えば、雨は止んでいるようだった。
やれやれ、もう一働き……と、想い。一つ一つ、プランターを外へと運び出す。
最初から外で植えればよかったか? と思い。いや雨だったから仕方ない、と言い訳しつつ。
運んだプランターを、花壇の周囲に並べる。玄関から家に入る時。或いは窓を開ければ部屋の中からも、よく見える場所。
雨上がりの湿った風に、揺れる、赤い花弁。
ふぅ……と、もう一度息を吐き。
獅子神は、家へと近づいた。
コンコン、と。窓を叩く。伴侶が最近よく休んでいる、部屋の窓。
ここにいる、と、予想は当たったようで。軽い音を立て、窓が開いた。
ひょこっと覗く、ロマンスグレーの頭。
「……何か?」
「何か、じゃねーよ」
そっと、硬い髪に手を置いて。
「ほら、見ろよ。礼二」
手で、指し示す。
風が、吹く。
手で指し示したその先で、赤い花が、揺れる。
「………ああ」
薄い唇から、溢れ落ちた声。
伴侶の白い頬が……ほんの少し。花弁と、同じ色に染まる。
「な?」
「……マヌケが」
小さな、笑い。
細い腕が持ち上げられ……獅子神の、頬に触れる。そのままぎゅっ、と、何かを拭うような仕草。
「あ……汚れてたか?」
「土がついていた」
「そーかよ」
ワザとぶっきらぼうに返せば、彼の赤い目が、面白がるように細められる。
ああ、本当に。綺麗な赤だ、と。今更、口になんてしなかったけれど。
「夕飯、何食べる」
「……久しぶりに、肉を所望しようか」
「ん、了解」
任せろ。
応えて、笑って。
目尻に刻まれる伴侶の皺を、指先でなぞる。
この家で、積み重ねられる日々を……少しでも長く、などとは考えない。
肉を焼き、言葉を交わし、共に歩き続けたその先に……
いつまでも。きっと、花は咲く。
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赤いゼラニウムの花言葉……「君ありて幸福」