Rain drop第一話
しとどに地面はすっかり濡れている。お気に入りの番傘をくるりと揺らしながら少女、九九は雨の日の散歩を楽しんでいた。そんな最中、道の路肩に座り込んでぐったりと項垂れてる男が傘の狭い視界に入り込んだ。白い漢服は肌色に染っている。
(こんなところに? ひと?)
辺りを見渡しても人はおらず、自分しかいないのか、とかぶりをふった。
「もし、大丈夫ですか?」
声をかけて肩を触れば予想に反して身体は酷く熱い。どうやら発熱しているようだ。このまま放置しておけば生命も危ういだろう。九九はろくに返事も出来ないでいる男の肩に手を回すとズルズルと引きづるように近所の自宅に連れ帰った。
九九は自宅につくと火鉢のそばに男を下ろした。火を灯してからぱたぱたと家の中を駆け回る。乾いた布で彼に顔に張り付いた金色の髪の毛を優しく拭ってあげれば男はそこでようやく目に光が滲んだ。
「あり、がとう」
渇いた、けれども息漏れが多くどこか艶やかな声が九九の耳を刺激する。九九はやんわり笑う。
「寒い、ですよね。濡れた服、自分で脱げますか?」
そっと着替えの漢服と掛け布を見せる九九。男は頷くとそれを受け取りゆっくりとした動作で着替えを始めた。九九は何かあたたかいものを、と台所へ向かった。
(顔色、すごく悪かったけど、綺麗な人だったな)
お茶っ葉が蒸すのを待ちながら九九は男のことを考えていた。あの熱では一晩二晩は休ませてあげないとだめだろう。男の人を泊めるのは些か気が引けるが病人なのだから仕方がないと言い聞かせる。
仕上げにと解熱草を急須にいれ煎茶が出来ると九九は湯呑みに入れて男の元へ戻った。男は火鉢の傍で掛け布にくるまって横になっていた。
「あの、お辛いと思いますがお茶飲んでください。解熱作用のある薬草も入れてあるので楽になりますよ」
男はのっそりと起き上がると再びお礼を言って湯呑みを受け取った。ふうふうと冷ましながらゆっくりお茶をすする。
「……あったかい……」
男の頬がゆるくなった。その表情に九九は思わず見惚れてしまう。伏せられた瞼が上がって琥珀のように綺麗な目とかち合うと九九はハッとしたように目を逸らした。
「み、見つめちゃってごめんなさい」
「いや。貴女のように可愛らしい女性に見つめられるなんて嬉しいくらいだ」
「えっ!?」
「ああ……、ごめんね。失言だったかな」
「い、いえ……」
九九は驚いた。軽口に、というよりは軽口の中身だ。
九九は妖と人間の間に生まれた半妖だ。妖や半妖は忌み嫌われているため、ひっそりと暮らしていたり奴隷になるのが大半だ。ちなみに九九は前者だ。今日だって、人気が少なくなる雨の日に態々散歩に出ているくらいだ。
そんな九九があまつさえ容姿を褒められたものだから驚きが勝った。男は様子を察してかそれ以上は口を噤んだ。
「あの……えっと……。私、可愛らしい、なんて、言われたことがなかったので、その、びっくりして……」
「…………」
「こういう時は、なんて言えばいいのでしょう……」
男は目を丸くさせる。九九の顔は少し赤らんでいた。うぶなのは誰が見ても明らかだ。
「ありがとう、と言えばいいと」
「あ、ありがとうございます……?」
「……ははっ」
疑問形って、と男は笑う。残りの茶を飲み干せば彼は名を名乗った。
「ごちそうさま……。私は奉孝という。助けてくれた貴女の名前を伺っても?」
「あ……、九九です」
「九九。名前も、可愛らしいね」
「ありがとうございます、……あっ!」
九九は目を合わせず空になった湯呑みを奉孝から受け取るが一瞬触れた指先に驚いて湯呑みが床に落ちてがちゃんと割れる。
「ご、ごめんなさいっすぐ片付けます!」
「私が悪いんだ、九九が謝ることじゃないよ」
ぱたぱたとほうきとちりとりを取りに行く九九。奉孝は後ろ姿と湯呑みを欠片を交互に見てくすりと笑った。
片付けが終われば、九九は奉孝を安静にしてくださいと寝床に横たわらせた。
「寝床はひとつしかないのに……すまないね」
「病人が何言ってるんですか。私は大丈夫なので」
奉孝に掛布を掛けてあげると九九は隣に椅子を持ってきて編み物をはじめた。外ではまだ雨が軒下でぽたぽたと音を鳴らしていた。奉孝は安心したのか瞼を閉じると間もなく寝息を立て始めた。
(寝顔も綺麗だ、)
九九は奉孝の寝顔を見ながらちゃかちゃかと無心で糸を編んで一夜を過ごした。
第二話
明くる朝、静かに寝息を立てている奉孝の額に手を当てれば、熱はすっかり下がっていた。朝食の用意をしよう。九九は井戸から水をくもうと桶を抱え外へ出る。すると、ふと玄関に置いてある花が枯れていることに気がついた。
(……替えたばかりなのに)
違和感をおぼえつつも九九は後で新しいのを摘みに行こうと考えながら水を汲みに行った。
水を得た九九は台所で調理を始める。九九がぱちりと指を鳴らすと竈に火がつく。九九は妖の血が入っているため、妖術が使えた。五行全て使える訳では無いが、とりわけ火の扱いが得意だった。野菜を切り分け、干し肉と雲呑を沸騰した鍋に入れればあとは待つだけだ。簡単な汁料理の出来上がり。匂いにつられたのか、背後で気配がした。
「おはよう、……いい匂いがするね」
「奉孝さん、おはようございます。体調はどうですか?」
「奉孝でいいよ。私も貴女の事を呼び捨てにしてしまっているし。体調はそうだね、昨日のが嘘みたいに調子がいいよ」
「そうですか、薬が効いたんですねきっと」
会話に気を取られていると、蓋をしていた鍋から汁が吹きこぼれているではないか。九九は慌てて蓋をとったが蒸気が手にもろにかかりその熱さに悲鳴をあげ手を引っ込めて蓋を床に落としてしまう。
「大丈夫かい?!」
「はわ……、だ、だ、大丈夫です」
後ろから包むように立たれ手を握られる。距離の近さに、感じる体温に、耳元で聴こえる声全てに九九は全身が目の前の鍋のように沸騰するのを感じた。
「赤くはなってない……ね。よかった」
「は、はい」
「九九はおっちょこちょいなんだね」
「うう……そんなはずないのに……」
昨日から失態ばかりで恥ずかしいと九九の狐耳は垂れ下がる。人、ましてやこんな美丈夫と接する機会なんてなかった九九が緊張してしまうのは当然のことのようにも思える。
くすくすと笑う奉孝が距離を取り直せば九九はお玉をもってお椀に雲呑汁を装った。
「雲呑汁です。朝ごはんにしましょう」
食卓につき奉孝が汁を匙ですくうのを九九は固唾を呑んで見守った。不味いつもりはないけれど、誰かにご馳走したことがなかったからどんな反応が返ってくるのか緊張の一瞬である。形のいい口が開くと汁は匙を滑り落ち口内に入っていく。ゆっくり咀嚼すると奉孝は目をきらきらとさせた。
「これ、とても美味しいよ。香辛料が食欲をそそるね」
「ほんとにっ」
九九は嬉しさのあまり口に手を当てて喜んだ。
「お、おかわり、たくさんあるので」
「うん、ありがとう」
九九は奉孝が食べる様子をずーっとニコニコしながら眺めた。誰かとご飯を食べることも、作ったものを褒められることも、何もかもが嬉しかった。
朝食を終え、九九は奉孝に断りを入れて外へ出た。自分もついて行く、と言い出したが病み上がりだから留守を頼まれて欲しいといえば大人しくそれに従ってくれた。
九九は確認のため家の周りを一周する。すると生けてある花が全部枯れていた。
(やっぱり、変だ)
疑念が確信に変わる。これは花結界なのだ。半妖である九九は妖魔に好かれやすい。そのため、身を守る手段として退魔の術の扱いにも長けていた。九九は枯れた花を灰にすると新しい花を摘みに走った。
日も暮れてきた頃、九九は他の用事も済ませ家に戻った。花結界の花を生けていると窓から奉孝が顔を出した。
「戻ったんだね、おかえり」
「はい。ただいま帰りました」
「花を摘んできたんだ。花が好きなの?」
「えっと……、はい、そうですね」
「そう」
「柊かな? 花言葉は確か……」
奉孝はうーん、と考えて苦笑いした。まるで、私と九九のことみたいだ、と。
「それって?」
「保護って意味」
「確かに、そうかもしれませんね」
「けど」
奉孝は花を一輪とると九九の髪に差し込んだ。
「もし、貴女に何かあったら、私が貴女を守るから」
ぱちりと片目を瞬きさせて微笑まれる。きらきらと夕陽が彼の金髪を反射させていた。どきどきと胸が高揚するのを感じた。この気持ちはなんなんだろう。
「奉孝が、私を? 私はそんな身分じゃないのに、変なの」
「変じゃないさ。九九は命の恩人だよ」
「大袈裟だなぁ……、そっか、うん。ありがとうございます」
明くる朝、奉孝はすっかり乾いた元の服を着ると家を出ると言った。
「こう見えて職持ちなんだ。そろそろ戻らないと皆が心配してしまうからね」
「それは戻らない訳には行きませんね……」
「……そんな寂しそうな顔をしないで」
そんな顔をしていただろうか? 奉孝は優しく頭を撫でてくれる。柔和な性格の彼に数日ですっかり絆されていた。この優しい手も、柔らかく笑う表情も、声も。もうないのかと思うと急に寂しくなった。
「昨日も言ったけど、貴女は命の恩人だよ? まだ何も返せていない。また、会いに来るから」
「……はい」
「それじゃあね」
奉孝はそう言うと家を出ていった。その背中が小さく見えなくなるまで九九は奉孝を見つめていた。ふと横を見れば、昨日生けたばかりの柊がまた枯れていた。もう一度奉孝が消えた方向を見て九九の心はざわざわと鳴った。
(大丈夫、かな)
第三話
お別れをした日から何日が経ったのだろう。いつもと変わりない日常が戻りそれにも慣れた昼下がり。突然に雨が降った。久しぶりのその雨はあの日の事を思い出すには十分で。元気、かなぁ。なんて、窓際で外を眺めていると、まさにその想い人が歩いてくるのが見えた。傘なんて差してなくて、九九は慌てて玄関へと男を迎え入れる。
「こんにちは」
玄関の軒先で奉孝は手荷物を抱え佇んでいた。急に雨に降られてね、と笑う彼の名前を呼んで手を取ればその体温は冷たくて。またこんなに濡れて、熱でも出たりしたら。九九は心配そうに奉孝の顔色を伺う。
「来るのが遅くなってすまないね」
そんな事なんてもうどうでもよかった。どことなく顔色が赤い奉孝を見て九九は彼にまた着替えを促した。
「ねえ、今日も泊まって行ってもいいかな?」
お礼も兼ねて、お土産もあるんだ。と着替えた奉孝は持参していた風呂敷の荷物を広げ見せる。中にはお酒の瓶に、甘味やら肴が入っていた。
「……特別ですよ」
九九は奉孝のことを二つの意味で気になっていた。
一つは異性として。彼はとても博識で上品なのにおかしみも持っているし、とても優しい。自分を蔑みもしないのがとても好感だった。
二つ目は、花の件だ。彼が家に来ると結界の花が枯れる。現に今日も花は枯れている。これは彼の持つ穢れが強いのか、なんなのか。彼が妖魔とは思えないので原因がまだ不明なところである。
奉孝の服を衣紋掛けに干してから、二人は小机を囲って座り酒を煽りながらお互いのことを語らい始めた。
「九九は、ずっと一人で暮らしているの?」
「はい。両親はずっと前に戦争で……」
「そう、か……寂しくはないのかな」
「寂しいに決まってるじゃないですか……」
遠い昔の記憶を思い出して九九の目には涙が滲んだ。お酒も効果も相まって感情が昂りやすいらしい。
母も父も優しくて大好きだった。父が所謂良心がある妖魔で、母は差別なんてしないとても優しい人だった。それでも、周りの目があるからと人目を避けるように少し街から離れたこの場所で暮らしていた。両親が亡くなってひとり街に出た時にぞんざいな扱いを受けて初めて自分のおかれている身分を知った。そこからは怖くて殆ど人に会うことは無くなった。
久しぶりに感じる人とのふれあいに、九九の冷えてしまっていた心は動かされていた。
奉孝はそんな九九の話を聞いて場所を移動する。肩と肩が触れ合う距離に座り九九の片手を上から重ねた。
ドキリと胸が高鳴った。彼は何も言わないで酒をちびちびと飲んでいる。重ねられた手は温かくて、まるで自分がいると主張しているようで、じんわり心も温まる。
「私の話も聞いてくれるかな」
「もちろん」
奉孝は九九の肩に頭を傾けた。肩に感じる重みに九九の鼓動はさらに速まる。しかしそんなことはお構いなしに彼は話の続きをするのだった。
「実は、私はここのところ調子がずっと悪いんだ。でもね、九九といる時だけは不思議と身体が軽くて。あの日だって本当につらかったんだよ。でも貴女といたら熱も引いて。夜もよく眠れたんだ。それで、この家を出てから、また少しずつ体調が悪くなってね。本当は忙しかったんだけど暇をもらってきたというわけさ」
「そう、なんですか?」
「貴女の傍は、こんなにも、心地がいい」
最後は掠れた声で耳元で囁き、すり、と頬を擦りつけてくる。重ねられた手もひっくり返されて指と指の隙間に絡め合うように握られる。状況に赤面しながら九九は必死に頭を動かす。理由はなんだ。わけも分からずとりあえず何か言わなければ、と口をついて出た言葉はとんでもない一言だった。
「……好き、」
「え……」
奉孝が顔を上げて目をぱちくりと九九を見やる。自分が放った言葉を咀嚼して九九の顔はさらにゆでダコになった。
「ち、ちがくて!!いまのはその!!」
「ごめんね」
「は、」
奉孝は酷く冷静に、言った。それは否定の謝罪だった。九九の頭は一気に冷えた。
振られた。言うつもりの無かったことを言って、あまつさえ振られるなんて。自己嫌悪も甚だしい。感情の制御が上手くいかなくなり、はらはらと涙を零せば奉孝は眉を八の字に曲げた。
「ああ、泣かないで……。期待させて、ごめんね。九九の事は、私も好ましく思っている。けれど、私はきっともう永くないから、そう言った想いには応えられないんだ」
奉孝は杯を置くとその手を九九の後頭部に置いてゆっくりと抱き寄せた。髪の毛を撫でる手はとても優しくて、それが余計に悲しくなった。
第四話
「私の方こそ先走ってごめんなさい。言うつもりは、本当になくて。さっきの事は忘れてください」
ひとしきり泣いたあと、九九は赤くなっためを擦りながらそう告げた。奉孝は悲しそうにうん、と返した。それから二人はまた他愛もない話に戻り、奉孝は本当に寝不足が祟っていたのか話の途中で寝落ちしてしまった。
掛け布をしてやり目の下の隈をなぞる。
(本当に寝れてないんだ)
こんな状態の人に告白して、私は何をやっているんだ、と九九はかぶりを振る。そもそも、自分が恋愛なんて、図々しいにも程があるだろう。九九は改めて気持ちに蓋をした。もう、好きだなんて、言わないから。もう、困らせないから。
(ズキン!)
その時だった。九九のこめかみに痛みが走った。これは頭痛ではない。九九は窓辺に視線を動かすと、そこに人影が一瞬映った。慌てて立ち上がり窓から辺りを見渡したがそこにはもう誰もいない。先程の痛みは、九九の領域に妖の類いのなにかが侵入した報せだったのだ。
九九はふと干された奉孝の上着が目に入る。隠しの部分から何かがはみ出ている。
(勝手に触ってごめんなさい)
心で謝罪を入れてそれを抜き取った。見れば短冊型の紙切れで、中国語を崩したような文字がつらつらと認められている。裏を返せば逆五芒星の模様。九九はぞわぞわとしたものを感じた。ひと目でわかる。これは、呪符だ。しかし御守りなんかじゃない。
「ん…ぅ……」
寝ている奉孝が呻いた。九九はハッとして、呪符と奉孝を交互に見やる。少し考えて、九九はそれを自らの狐火で燃やして灰にした。奉孝の調子が悪い原因はこの呪符のせいだと思った。先程の気配といい、奉孝は何かに巻き込まれている。九九は単純に、奉孝の事が心配になった。彼の元へ戻り、ずれ落ちた布を掛け直す。いからかマシになっている顔色を眺めながら、九九は甘味を口に入れる。
「……ほろ苦いや」
九九の呟きは雨音に消えた。
明くる朝、奉孝は調子が良さそうだった。夢見も悪くない。ぐっすりと眠れたようで、体を反らせて伸びをした。
「おはようございます」
「うん、おはよう」
九九はお玉で朝食の汁をお椀に掬う。奉孝が美味しいと言ってくれた雲呑汁をまた作った。
「いい匂い。あ、これ。私が好きなやつ」
「ふふ、栄養価もあるので、召し上がって元気になってください」
「九九のそういうところ、好きだよ」
「……」
好き。好きなのに、それは交わらない。九九は困ったように笑った。奉孝も失言をしてしまったというように笑うとお椀を受け取りそれ食した。
「ねえ、散歩に出掛けようよ。雨も上がったことだし」
「いいですよ」
朝餉を済ました二人は提案通り外へくり出た。雨上がりで道は水たまりだらけだったが、青空が反射していてとても綺麗だ。
「あ、みて」
「虹ですね」
「なんだか得した気分だね」
「そうですねぇ」
七色の大きくて綺麗な虹。うっとりと見とれていたら手を取られる。指を絡めるように握られたそれは昨日のことを思い出す。振りほどきたいのに、振り解けない。一日二日で無かったことになんてできない。好きなんだ、彼が。ぬくもりを手放したくない。九九はその手をきゅっと握り返した。
「……体が自由だったら、どんなによかっただろう」
「……?」
「ううん。なんでもないよ」
「そうですか」
「……九九には言ってなかったけど、私は軍人なんだ。休暇が終わったら、北方にいくんだ」
「ぐんじん、」
「お土産、また持ってくるよ。北は何が名産なのかな」
「怖くないんですか?」
「全然。私はこう見えて、負け無しなんだよ」
「すごい自信ですね」
「負ける気はしない、しないけど……」
身体はもう持たないかもしれない……。そう呟いた声をこの耳は聞き逃さなかった。
「奉孝」
「?」
「大丈夫です。これは御守りです」
九九は自分が服の中に身につけていた首首飾りとり出すと外して奉孝の首に巻いた。
「それ、母の形見なので、必ず返してくださいね」
「そんな大事なもの」
「だから返してくださいって言ってるじゃないですか。それ、結構強力なんです。体調の事だったら、もう心配ないと思います」
「え?」
「おまじないかけておきました」
かけたというよりは、消した、だけれど。奉孝はそこまで言うなら、と首飾りを大事そうに握りしめた。
第五話
奉孝が家を出てから日数が経った。風の噂で曹操軍が北へ向かい名族と言われた袁家を追い詰めたという話を聞いた。もしかして、それに奉孝は従事していたのだろうか。勝利したのならそれは喜ばしいことだ。
そんな矢先、軒先で客人が訪れた。自分の家に尋ね人だなんて、奉孝を除いて誰もいないというのに。
「こんにちは」
それは長い黒髪の女性で、陶器のように白い肌との対比が少し不気味だった。
「こちらに郭嘉様がいらしてましたよね」
「かくかさま?」
「とぼけないで下さい。郭嘉奉孝をご存知でない?」
郭嘉奉孝。そう言われて九九はハッとした。彼の名前は字名だ。家名を聞いたことは無かった。自身には家名がなかったのでそこまで頭が回らなかったのだ。
「すみません、郭嘉様、ですか。来てました」
「私、婚約者なんです」
「え?」
「でも、彼、女遊びが激しくって」
女は頬に手を当て困ったようにため息をついた。郭嘉といえば、魏軍切っての名軍師と名高い。しかし素行が悪いのも確かに有名だ。
(私は……騙されていた?)
郭嘉とは名乗らず字名だけ言い。思い返せば思わせぶりな言動をたくさんしてこちらが好きといえば応えられないと。遊ばれていたのだろうか。考えれば考えるほど心が萎んでいく。
「もし、また訪れるようなことがあったら、彼にもうここには来ないで欲しいとはっきり断ってくださる?」
「わかり……ました」
「聞き分けがいい子は好きよ。名乗りが遅れましたわね。私は桃華と申します」
「あ……九九です」
「九九さん。ふふふ。それではごきけんよう」
桃華と名乗った女はそろりと帰っていった。ふと飾られた花を見るとそれはいつの日かのように枯れていた。
(あの人も、なにか)
それからまた日が経ち。雨がしとしとと降っていた。そんな日に奉孝はまたずぶ濡れで訪れた。
「また、濡れているんですね」
「私は雨男なのかもしれない」
カラカラと笑う奉孝。久しぶりに会う彼は調子がとてもよさそうだ。それでも、
「風邪をひくといけないので、中にどうぞ」
奉孝を家にあげる。話さなければいけないことはたくさんあった。彼は服を着替え、お土産だとまた風呂敷を広げる。中身は前回と種類が違うだけで構成は同じだった。帰る気はないらしい。最初から隣の席を陣取り酒瓶の蓋を開ける。
「北の町でいただいたんだ。楽しみだね」
「戦、勝てたんですね」
「当然、勝利はいつだって確定だよ」
上機嫌な横顔。長い睫毛がやたらと色っぽくて。頭の中で、女の言葉が反復する。奉孝って、あの郭嘉、なの? それを聞きたいのに、聞けない。
奉孝は首飾りをとると九九の首に手を回して付けてあげた。距離がぐっと近くなって奉孝の白い喉仏が眼前に広がる。お香じゃなくて本人の匂いなんだろう。とてもいい匂いがした。
「これ、ありがとう。九九が言った通り、体調を崩さなかったんだ。今までのが嘘みたいで、病気、治ったのかな?」
「それは、よかった、です」
「九九? ……何かあった?」
「なんにも、」
「なんにもないなんて言わないで」
奉孝は九九の手をとると床に押し倒した。首の横に手をついて退路を塞ぐ。見下ろす顔は何かに耐えているように切ない。
「まだ、私の事、好いてくれてる?」
「……」
「……もう、手遅れ、なのかな」
「……」
「病気は治った、だから、」
「婚約者、」
「え?」
奉孝は目を丸くする。なんの話?と眉を顰める。九九は拙くとも言葉を続ける。
「婚約者が、私の元へ、きて、それで」
「……!?」
「もう、近づくなと……」
「待って、」
「奉孝は、郭嘉、なんですか」
「……っ」
苦虫を噛み潰したような顔。図星のようだ。ああ、何かの間違いであって欲しかったなぁ。魏軍総裁の腹心ともあろう方がこんなところにいてはいけない。婚約者だっている。遊びで女を消費されるのも悲しい。一人の女性すら愛し抜けないなんて幸せになれるはずも無い。父にたくさん愛されていた母が羨ましくなった。
九九の目に涙が溜まる。
「もう、ここにはこないでください」
瞬きと共にぽろりと大きな粒が目尻伝ってこぼれた。