アンタレス ナイトウォーク 序 夜の繁華街を歩くことに慣れた足取りだった。
それが切島鋭児郎に対し、ファットガムが最初に感心した点だった。
死穢八斎會の一件を経て中断し、冬に再開されたインターン。夜間パトロールに彼を伴う機会が増えると、その印象は確信に変わる。見知らぬ路地裏に踏み込む度胸があり、くだを巻く酔っぱらいのいなし方も上手かった。客引きの声に動揺することも無ければ、チンピラのいざこざにも物怖じせず割って入れる。煌びやかな水商売の女性たちから声をかけられても、緊張せず、やに下がりもせず自然体で接していた。
――珍しいんちゃうか。雄英っちゅうと、マジメなええとこの子が多いし。
先に採用した天喰がとにかくあがり症の小心者だったので、余計にその印象が強かったのかもしれない。彼の場合は繁華街に慣れるだけで半年を要した。とはいえ切島は見た目にそぐわぬ真面目な体育会系で、やんちゃをしていた様子もない。
どういう背景の子なんやろか、という疑問が解けたのは、やはり夜のパトロールのために歩いていた時だ。
「子供の頃じいちゃんに連れられて、よく飲み屋に行ってたんすよ」
どんな話の流れだったか、切島はそんなふうに言ったのだ。
「母さんは仕事で深夜まで忙しくて、うちは他はじいちゃんしかいねえから。でも昔の人だし子守りに慣れてねえってんで、飲み屋に連れてかれてそこでメシ食って、女の人に遊んでもらって」
女の子おる店に孫連れていくなんて破天荒なじいさんやな、と思ったが、よくよく聞けば年配のママのいるカラオケスナックといった業態だった。その店の界隈に出入りするうちに、夜の街の雰囲気に慣れたということらしい。それでも保護者に対し厳重注意ものの行動ではあるが。
「は~そんで切島くんの歌のレパートリー妙に昔のラインナップなんか。今時ヤザワ歌う子おるんやなって歓迎会の時に思っとったわ。俺の親とかの世代やろ」
「じいちゃん仕込みっす!」
ドヤ顔で胸を張る少年のまだあどけない顔と、十八番の歌のギャップが凄まじい。音楽の趣味もだが、漢気一本を貫く価値観もどうやら祖父の薫陶あってのものだろうと思われた。
「紅頼雄斗が好きだって言ったら、じいちゃん喜んで、昔のポスターとか集めてくれて」
「せやろなァ」
紅頼雄斗の最盛期は五、六十年前だから、ちょうど切島の祖父の世代が若い頃のヒーローだろう。オールマイトのデビュー以前、混沌の時代におけるヒーローに思い入れのあるお年寄りは多い。現在のタレントじみたヒーロー飽和社会に苦言を呈する世代も、だいたいそのあたりから上である。
面白い子やな、と思えばもっと切島のことが知りたくなった。パトロールの合間に子供の頃の話を聞けば、気を使ったのか純粋な興味からか、切島の方もファットガムのことを聞きたがった。
「乳歯の頃はフツーの歯だったんすけど、生え変わったら尖ってて。まあでも母さんもそうだったらしくて」
「切島くんお母さん似なん?」
なんの気なしの思い出話も、小さな切島を想像すると頬が緩んだ。
「高校の文化祭ではたこ焼き屋やってん。作るの自信あったんやけど、お前はデカいから広告やって言われて試食分持って校内うろついとったわ。そのうち鉄板そのまま持ち出したらウケてな」
「ははは、今のスタイルそっから来てんスか」
こちらの話に笑う顔を見るのも気分を明るくさせた。
小競り合いが絶えない夜の街を歩く中の、つかの間の穏やかな時間がファットガムには楽しかった。雇い主とインターン、プロと学生、師匠と弟子、という関係性でありながら、仲のいい友人かあるいは兄弟のような心地良さがあった、と思う。
超常解放戦線との戦い。AFOを打ち倒すための大戦。一つずつ死線を越えるたびに傷だらけになって、それでもなおヒーローとして成長していく切島を見ていた。積み上げていく経験値に反して、ファットガムに向けられる無邪気な笑い方はずっと変わらない。心地良さが離れ難さになっていることにファットガムが気付いたのは、復興作業が落ち着きインターンが再び始まった冬の頃だった。
「面倒やなあとは思っとったよ」
飾らず内情を吐露したファットガムに、切島は神妙な顔で頷いた。
「親兄弟みんなデカいし、実家は天井高い造りで鴨居に頭ぶつけるようなことは無かったんやけど、一歩外に出たら全部のドアを気にせんとあかんかったからなあ」
「ファットの身長くらいになるとそうっすよね……」
想像してくれたのだろう、自分がぶつけたように額を撫でている。切島からの「やっぱ身長デカくて困ることもあるんスか?」という質問は唐突だったが、思春期の男子的には気になる話題のひとつだったのだろうか。
「まあでも成長しきったら慣れるもんで、子供の頃の方が嫌なこと多かった気もするわ。子供料金でどっか入ろうとすると絶対止められるし」
おかげで首からずっと身分証明書下げとったから、迷子札つけられた幼児みたいで嫌やったな。
「ファットの子供時代見てみたいっすけど、もしかして小学生とかで俺と身長変わんないんすか?」
「切島くん一七〇いくつかやったか? 俺たぶん十歳の頃には一八〇やってん」
すげえ、と瞠目する切島に、ファットガムはからからと笑った。
「まあでもデカいのも小さいのも学校に一人二人おったやろ。それが俺ってことで」
個性社会においては体格も様々だ。困り事はそりゃああるが、排斥される程では無い。見た目から異形型の者にはまだ苦労の多い社会だけれど、ファットガムは痩せていればただのデカいだけの男なので。
「怖がられることもあってんけど、期待されることも多かったしな。俺なんかはお調子もんやから、それでヒーロー目指したとこあるし」
「え、その話詳しく聞かせてください!」
「大した理由やあらへんよ。デカいとほら、ガキ大将みたいになるやん。そんでお前ならヒーローになれるって持ち上げられたら得意になるっちゅうか」
言っているうちにちょっと悲しくなってきた。せっかくヒーロー志望の若者が聞いてくれたのに浅すぎる。恥ずかしさに頬をかくファットガムを、切島はいつものキラキラした目で見上げてくれる。
「そんだけ期待されてたってのがスゲーっすよ! 子供の時から頼りになったんすね」
「おおきに。期待に応えるヒーローやれとるかな」
「ファットは最高のヒーローっす!」
真っ直ぐな言葉。笑顔は連なるネオン看板よりも輝いて見えた。環がおったら、太陽を直視できないとばかりにフードで顔を隠しとったやろな。
ええ子やなあ。そんで可愛い。悪い大人に捕まったらどうするんやろ。切島とて優秀なヒーローだという事実は差し引いて、ずっと手元に置いておけたら……なんて思ってしまう自分にぞっとした。これは、あまり直視していい感情では無さそうだ。
ぐ、と奥歯をかみ締めたところで、タイミングがいいのか悪いのか爆発音が聞こえた。反射的に二人で振り返れば、路地裏からもうもうと煙が上がっている。阿吽の呼吸で駆け出した瞬間には、気の迷いのようなその感情はどこかに霧散してしまっていた。
□ □ □
冬のインターンの日程は大きな怪我もなく進み、気付けばもう年の瀬である。本職のヒーローに年末年始の休みなどは無いが、学生をこの時分まで働かせるのは酷だろうと休みを取らせることにした。
「切島くん、体に気ィつけてな。良いお年を!」
「ッス! お世話になりました。ファットも良いお年を!」
事務所の前で深々と頭を下げた切島は、白い息を吐いている。なんとなく名残惜しくて外まで見送りに出てきたが、十日もすれば次のインターンの予定だ。
仕事上がりでシャワーを浴びているから、いつもはつんと立ち上がった髪の毛が下りていた。スタンドカラーのコートに半分顔をうずめた姿はどこか幼く、先程まで肌を晒したヒーローコスチュームで街を闊歩していたとは到底思えない。
「わぷ! なんスか!?」
「お、スマンスマン、なんや頭が丸っこかったからつい」
思わずわしゃわしゃ頭を撫でたところで、切島から抗議の声が上がった。すぐに大きな掌をどかすと、赤くなった切島の顔がのぞく。
「子供扱いはやめてくださいよ」
「堪忍なァ」
拗ねたようにとがる唇のせいで余計に幼く見えることは秘密にしてやろうと思う。苦笑したファットガムを、切島がぐんと見上げた。いつもに増してきりりとした表情だ。本気で怒らせてしまったかと内心焦った瞬間、切島は宙にあったファットガムの手をぎゅっと掴む。
「ファット」
真剣な声に思わず表情を正した。赤い瞳が一瞬だけさまよって、意を決したようにこちらを見据える。
「俺、ファットのことが好きです」
掴んだ手を引いて顔の前に持って行ったかと思うと、グローブの指先に、触れるだけのキスをされた。
「な……っ!?」
「そんだけっす! 返事はいらないんで!」
パッと身を翻して、切島は駅の方に駆けていく。その背中を、ファットガムは呆然と見送った。
好き。
それが何を示すのか、分からないほど野暮では無い。切島がダメ押しとばかりに残していった指先へのキスも、思考の逃げ道を断っていた。
寒空の下で除夜の鐘の音を聴きながら、ファットガムはもう何百回目かになる記憶の反芻をしていた。好きです、と告げてきた真っ直ぐな赤い瞳。指先への口付け。三日も前の出来事を、脳は未だに鮮明に再生する。二年参りの参拝客でごった返す境内の中では見回りに歩くことも出来ず、突っ立ったまま警備を行っているから思考のリソースが余っているのだ。ごぉん、と響く除夜の鐘も、この悩ましさを頭から追い出してくれはしなかった。
――気の迷いとしか思えへんのやけど。
懐かれている自覚はあったが、恋愛感情を伴うものだとは気付かなかった。こんな巨体のおっさんの、何が良かったのか分からない。
分からない、が、このままでいいはずが無い。
――返事はいらんって言うとったな。
多分切島だって、告白が受け入れられるとは思っていないのだろう。返事をせず、告白を無かったことにする。それが彼の望みなのだろうか。
――そないに男らしゅうないこと、切島くんがするかぁ?
告白するからには玉砕覚悟、みたいなことを言う方かと思っていた。きっぱり振られて諦めをつけたかったと言われる方がまだ分かる。そうだ、こちらから振ってやった方がいい。大人として当然だ。
――でも、あの切島くんが、返事を聞きたくないっちゅうなら……こっちから言うのもおかしいんか?
もう正解が何も分からない。眉間に皺を寄せて考え込んでいたファットガムの耳に、大きなざわめきが飛び込んできた。何か事件かとはっとするが、見渡す群衆はスマホを覗き込んで笑顔だ。
「やば、あと一分切っとる」
「みんなでジャンプせえへん?」
「人混みで迷惑やろ」
参拝客たちの会話を耳で拾う。年越しまでのカウントダウンが始まっているようだ。どこからともなく声を張り上げる若者がいて、残り十五秒のあたりで大合唱になる。
『……七、六、五、四、三、二、一、ゼロ! あけましておめでとう!!』
一定のリズムで鳴り続ける除夜の鐘を背景にそれぞれが新年を寿ぐ。ファットガムも声をかけられるまま、周りに「おめでとさん」と返し続けた。平和そのもの。スリを捕まえ酔っ払いの喧嘩を仲裁したくらいで、例年より平和な年越しだ。
ニコニコと群衆を眺めていると、ブルル、とスマホの振動。取り出して通知を見れば、新年祝いのメッセージがいくつか届いているようだ。馴染みの商店街の店主、地元の友人、それからインターンの――
――鉄哲くんやん。あの子も律儀もんやな。
勤務中だから返事は後で返そうと、通知だけを見てふっと笑う。それから、少し待った。……切島からのメッセージは無い。
――って、何を期待しとんのや俺は!
ふん、と勢いをつけてスマホは脂肪の中へ。たまに振動するが仕事中だからと一切を無視した。緊急の案件ならインカムから届く。
そうして未明までの警備を終え、眠い目を擦りながら帰路についた。夜明け前のまだ暗い空をぼんやり見ると、澄んだ冬の空には星がちらちらと瞬いていた。初日の出が見えるやろか、と東の空に目を向けると、ひときわ明るく輝く星が見える。その星は、やがてゆっくりと白んでいく空の明るさに覆われて、見えなくなった。
ようやっとたどり着いた玄関先で、鍵を開けながら再びスマホを起動させる。メッセージアプリをスクロールするが、やはり切島の名前は無かった。
――寝てもうた、とか。
もしくは、告白した手前気まずくて自分からはメッセージを送れないとか。切島くんのキャラとちゃう気がするけど。
そこまで考えて、深々と息を吐いて座り込んだ。冷えきった玄関でぼんやりと明るいスマホを見つめる。この問題を解決しなければ新しい年を迎えられない、という気がする。
溜まった通知に対して『あけましておめでとう』のスタンプと決まり文句のメッセージを返し終えた後、切島とのトーク画面を開く。最後のメッセージはインターン中の「今から事務所帰ります」「気ぃつけてな」のやり取りだけ。つまり、あの告白以降何も送っていないのだ。
考えて、考えて。
『あけましておめでとう! 今年もよろしく! 雄英今年は新年会やるんかな? 』
必ず返事をしなければいけないような文面を作って、送信した。我ながら何をしたいのか分からない。業務用電気鍋にストック食材を放り込んで、待つ間に風呂に入って。出来上がった鍋を食べる間もずっと傍らに置いていたスマホの通知に切島の名前は無かった。既読にすらならない。
「あ~今日はもうあかんわ、寝よ寝よ!」
煩悶を振り払うように声に出す。まあ、寝て起きたら、きっと何でもないような返信が来てるやろ。
まさかこの時は、三が日を過ぎてもメッセージが既読にならないなんて、思ってもいなかった。