今日の佳き日に 9月末、先駆けてモミジバフウの並木が赤く色付いてくる季節になると、切島の誕生日が近いな、と思う。
落下傘みたいにすうっと落ちてきた赤い葉を、ファットガムは見た目にそぐわない反射神経でぱしんと掴んだ。カエデに似たつんつんした形も、深みのある赤い色も切島を思い出させるものだから、余計に連想してしまうのだろう。
――前は秋と言えば食欲の秋一択やったのになァ。
季節を彩る花や木に詳しい訳でもなし、せいぜいキンモクセイの甘い匂いは腹が減るなあ、なんて思っていたくらいだったのに。
今年の誕生日の食事やプレゼントも、喜んでくれたらええな、なんて年下の恋人を思い浮かべる。身に余るような高級品はお返しが出来ないから禁止で、と義理堅い彼には言われてしまっているのだけれど。
――一昨年は18の成人祝いやったし、去年は恋人同士になって初めての誕生日やってんから、奮発するしかないやん。
金額の大きさが想いの大きさではないけれど、こっちはベテラン人気プロヒーローなのだから少し格好つけさせてほしい。まあ確かに高級バイクはちょっとやり過ぎだったかもしれないが。
そんな風にわくわく半月後に思いを馳せて事務所に戻ったファットガムを待っていたのは、申し訳なさそうに眉を下げてシフト希望表を持った切島だった。
「え、例の同窓会、誕生日当日になったん?」
「みんなの都合を合わせたらそうなって……」
雄英出身の切島の同級生たちは、もちろん皆忙しい新人ヒーローである。そんな彼らが出来るだけ集まれる日を絞り込むのは至難の業だったろう。
「毎年恒例やし、当日に集まれるなら奇跡的やん! こっちは気にせず行っておいでや」
内心少し残念に思いながらも年長者の余裕を見せて笑って言えば、そこでようやく切島も安心したように表情を緩めた。
「鉄哲くんにもよろしく言うといてな」
「了解っす!」
フォースカインド事務所に取られた元インターンの鉄哲は――フォースカインドの方は切島を取られたと思っているだろうから痛み分けである――切島と同じ誕生日だ。学生時代にその事に気付いた同級生たちがA組B組合同誕生日会を開いたのが、この同窓会の発端らしい。
ファットガムが最初にその話を聞いたのは去年だ。その時も理解のある年上の恋人の顔をしながら、『鉄哲くん確かカノジョおったやん。一緒に誕生日過ごしたいとか言われへんかったんかな?』とさりげなく水を向ければ、『鉄哲の彼女も同期ッスよ。B組の委員長で去年のミスコングランプリの。ヒーローネームはバトルフィストっす!』と返ってきたので観念した。聞くからに才色兼備で文武両道、漫画みたいなカノジョやな。
「学生時代は全員集合だったんスけど、去年は来れるやつだけでって感じで。今年も何人か来れないやつはいるし」
「ヒーローやっとると休みが合うっちゅうことが基本なくなってくるもんなァ」
大戦を経た切島の世代は、ヒーロー科の中でも絆が強い。会える時に会っておくに越したことはないだろう、とファットガムは心の底から思っている。
ただまあ、それはそれとして。
「16日の当日出るん?」
「そっすね、静岡なんで昼過ぎの新幹線に乗れば丁度いいかなって」
「せやったら」
前の日はウチ泊まる? 駅まで送ったるよ。
事務所の中だから、切島だけに聞こえるようにこっそりと。言外の意図を汲んだ切島は、照れたように唇をきゅっと結んで頷いた。
◇ ◇ ◇
名前を呼ばれた気配とともに軽く体を揺さぶられて、切島はぼんやりと覚醒した。
「起こして堪忍な」
優しい声のトーンはまだ夜の色を残している。うっそりと見上げれば、なにか飲み物の缶を持ったファットガムが部屋着でベッドに腰かけていた。もう一度シャワーを浴びてきたのか、濡れた髪が柔らかそうにくるりと跳ねている。
「まだ、夜」
「ん。15日の、11時58分やな」
いつものファットガムらしくない、細かく刻んだ時間の数え方。半分眠った頭で受け取って、ああ、もうすぐ俺の誕生日だって意味か、と遅れて理解する。
「おっと、59分になってもうた」
「フフ」
ベッドサイドの時計を確認しておどけたように眉を上げるファットガムの仕草に、切島は思わず笑いを漏らした。笑って体が震えると、肚の奥の方がまだじんとする。恋人とベッドの上で迎える誕生日、とか、めちゃくちゃ大人って感じだ。いや、そりゃ就職2年目の立派な社会人だし、何度もやることやってるわけだけど。
「いま30秒過ぎたとこやで。案外長いなァ」
そう言いながら、ファットガムは缶から飲み物をぐびりとあおる。俺も喉乾いたな、と思ってその仕草を目で追うと、にやん、と悪戯な笑みと共にぐっと顔が近付いてきた。
あ、キスされる。
そう思って瞼を伏せると同時に、唇が触れて。
「ん……ッ!? ――んん?」
僅かに流し込まれた液体を、反射で飲み込んだ。しゅわっとした炭酸が喉を通って、妙な苦味と風味がある。それから、鼻腔を抜けるレモンの香り。
「ぷは、え? なんスか?」
「ははっ、誕生日おめでとうなァ」
大きい手が頬を撫で、指が濡れた唇を拭っていく。
「レモンサワーやで。美味しい?」
「よく分かんなかったっす。え、酒?」
「せやね。もう1口飲む?」
酒。そうか、ハタチになったから飲めるのか。半分しか理解していない頭で思わず頷くと、もう一度唇が塞がれる。炭酸の刺激の奥につんとした風味。これがアルコールの味なのか。
「美味しい、っちゅうわけでは無さそうやなァ」
「だって初めてッスよ。やっぱまだよく分かんねえ」
結論はそれだ。眉根を寄せた切島に、ファットガムが愉快そうに笑った。今度は持っていた缶ごと差し出してくるので、よいせ、と身体を起こして受け取った。
「飲んだ方がいいやつですか」
「無理はせえへんようにな。水もあるし」
じゃあ余計に、なんでこのタイミングでアルコールを。疑問符を浮かべた切島に気付いたのかファットガムはくつくつ笑って頬をつついてくる。
「ハタチの鋭児郎と酒飲むの楽しみにしとったんやけど、同窓会に先越されそうやったから」
「あー……すいァせん」
「謝らんといて。おっさんの独占欲っちゅうことや」
「太志郎さんはおっさんじゃないっスよ」
お決まりのやり取りにようやく調子が戻ってくる。缶に口をつけてレモンサワーを飲んでみると、思ったよりも強い炭酸がしゅわしゅわと喉を通っていった。レモンの匂いや酸味は好きだけど、味は甘くないし苦いし、アルコールの風味は消毒液っぽいし、慣れるまで時間がかかりそうだ。
「も、いいっす」
「ん。ほい水」
「あざす」
差し出されたミネラルウォーターのボトルと缶を交換して、ごくごくと半分ほど飲む間に、ファットガムの方も缶を傾けてレモンサワーを飲み干してしまったらしい。いつか自分もそんな風に酒が飲めるようになるんだろうか。
「今度はもっと飲みやすいの教えたろうな。ほんまはオシャレなバーとかで酒の味教えるつもりやってん」
「楽しみにしてます! ってことは、さっきの飲みにくいやつだったんすか?」
「どうしても苦味があるよってなあ。でもレモン味のがええなと思って」
ほら、ファーストキスの時はソース味になってもうたから、ハタチのキスはリベンジってことで。
なんて続いた言葉に、切島はぱちくりと目を瞬いた。思い出したのは、思いを告げた2年前の誕生日で。――レモン味じゃなくてごめんなァ、なんて困ったように笑ったファットガムの顔を、切島は確かに覚えている。
いつから計画していたんだろうか。案外ロマンチストなんだよな、この人。
「呆れとる?」
「嬉しいんスよ」
ずいぶん年上で経験値の違う恋人が、切島の初めてをひとつひとつ大切にしてくれることが嬉しい。独占欲、なんて言ったけれど、束縛もせず大人の顔で切島を送り出してくれるのも愛情だろう。
胸がきゅうっとなった衝動のまま、ぽすんとファットガムの膝の上に倒れ込むように頭を載せる。すぐに大きな手が降りてきて、切島の髪の毛を優しく撫でてくれた。何だかふわふわした感覚は、アルコールのせいなのか、甘やかされているせいなのか。
「……ん、なら良かった。こっち帰ってきてから、改めてお祝いさせてな」
美味いもん食べに行こうなァ、なんて魅力的なお誘いを聴きながら、切島は再び目を閉じる。誕生日がひとつ過ぎたって、何かが劇的に変わるわけじゃない。それでも積み重ねたものが増えていくことを幸福と呼ぶのだろうと、眠りに落ちる間際に思った。