あなたのとりこじゅる、と液体を啜る音が響く。口付けなどという色めいた言葉では言い表せない音が桜の羞恥を燃え上がらせる。
下品にも思えるそれを鳴らすのは、いつも気品をたたえ優雅に茶を楽しむ男。
ただひたすらに桜の唾液を飲み干す姿は普段とはかけ離れていて、これが夢か幻覚なのかと錯覚してしまう。
「さくらくん」
甘い声だ。
桜の体液は桃の味がするらしい。固形物を口にしない蘇枋が、愛してやまないもの。
それが、桃の味の体液を持つ桜だった。
桃の木から熟した実を摘む。
水で洗い、皮を剥いて食べる。じゅわりと甘い果汁が舌を楽しませ、柔らかい果肉を噛み砕く触感もたまらない。喉に流し込んで腹におさめれば、「あともう一口」と手を伸ばしたくなる。
まるで果実のように、一度喰われる為だけに生まれてくる人間がいる。人とは呼べないのかもしれない。それらは人を愉しませるためだけに生まれてくるモノだからだ。
桃娘。生まれてから桃しか口にしない少女たち。その体液は桃のように甘く、味わうために一夜を過ごせば儚く命を落とす。その希少性と神秘敵な存在に、人は「人生で一度だけでも」「いや、もう一度」と手を伸ばす。
桃娘は、人の欲のためだけに生まれ育てられ、一瞬の悦楽に命を落とす嗜好品の名だ。
「桜君、おいしい?」
膨らませた頬のままこくりと頷けば、整ったかんばせが緩く微笑む。この男が桃娘であったなら自分なんかより高く売れただろうと、桜は蘇枋が育てた桃を喉に流し込みながら思った。
蘇枋は桜を買ったわけではない。桜が施設から逃亡してきたところを匿ってくれた恩人である。桃娘は元々少女だけであったが、少年の需要も出たため桜のような男の桃娘も存在している。ただ桜の見た目の異様さに高値をつける客もおらず、売れ残りの桜はただ罵声を浴びせられながら施設の隅でうずくまっていた。店側も桜の養育費分だけでも回収したいと値段を下げたがそれでも買い手は見つからず、とうとう殺処分となった。「せめて愉しんでから殺そう」と嗤う職員の間をすり抜け、施設から逃げ出したのだった。
走って走って。それでも桃しか食べていない身体は脆く、すぐに息を切らして地面に転がった。きっとこのまま見つかって嬲られて殺されるのだ。嫌だと思った。
最初から人ではなかった。尊厳なんてなかった。しかしこんな脆い命でも、生きたいと願った。同じ施設で育った「商品」たちは売れることを恐れた。買い手の家に行く日が命日になる事がほとんどだったからだ。皆生きたいと願っていた。だから桜も生きたかった。生きたいと願っていいのだと信じていた。殺されたくなかった。
人としても桃娘としても欠陥であった人生のまま終わりたくないとも思った。せめて、生きた証が欲しかった。誇りになる何かが欲しかった。桜遥という人間がいた証明を渇望した。
足音が聞こえる。動かない手足。あぁ、走ったからか意識が朦朧としてきた。軽い身体は思ったより走れたが、酷く負担になったようだ。
あぁ、生きたい。
そう願った時だった。
紅い龍が、桜を救いあげてくれたのだ。
「桜君、昔のこと思い出してる?」
ハッと意識を戻すと、蘇枋は憂いを帯びた表情で膝に乗せた桜を抱き寄せた。
心配させた気まずさに口を尖らせる。
「なんでわかんだよ」
「君のことをよく見ているから、かな?具合が悪いわけじゃないんだね?」
「あぁ」
蘇枋はよく桜の体調を気遣ってくれる。常に栄養失調のなか生きてきたため身体に不調が起こるのも珍しくない。しかし、最近は家の外の桃園を散歩できるくらいには体調が良かった。
蘇枋が手ずから育てる桃には仙気が宿るらしい。それを食べるようになってからは嘘のように身体が楽になった。もしかして蘇枋はすごいやつなのかと問えば、「この桃の木がすごいだけだよ。オレは管理してるだけだから」と近くの木を撫でた。
生きているということは、苦しいことだと思っていた。人はこんなに楽に息ができて話ができるなんて知らなかった。それを教えてくれたのは、目の前の男だ。
蘇枋に、自分は何を返せるのだろう。
「……そんなに体調が気になるなら、確認すればいいだろ」
頬と耳が熱くなるのがわかった。全身熱くてたまらない。自分が何を言っているのか分かっているから恥ずかしい。
蘇枋はよく言うのだ。
「桜君、体調がいいと甘くなるね」
体調が悪そうな日は、体液に少し苦味が混じるらしい。だから。
「……体調が悪いなら無理させたくないと思ったけれど。そうだね。せっかくのお誘いだから」
「誘ってねぇ!」
「あはは。はい、目を閉じて」
自分から言い出した手前、反抗する訳にもいかない。ぎゅ、と目を閉じると吐息が唇にかかる。
合わされたそこから、当たり前のように舌が伸びてくる。口は元々開けていた。口付けることは、桜にとって体液を飲ませるものだからだ。食事や味見のようなもので、閉じていたらおかしいだろう。
蘇枋はいつも嬉しそうに口付ける。普段食事らしい食事をしない彼の舌を少しでも喜ばせられる味であるなら、嬉しいと思う。
「ん、あまいね」
蕩けた隻眼が「美味しい」と伝えてくる。
恥ずかしくも嬉しかった。少しは、恩を返していけているだろうか。
自分ではわからない体液の味。それを飲んで生きる男が目の前にいる。
蘇枋は桃を食べない。桜が食べた桃が桜の身体に染み渡り、そこから溢れた仙気を体液とともに飲み込む。そうして人の身体を維持しているようだった。でなければ、人の身体が維持できなくなり消えてしまうという。
それは、嫌だと思った。
「美味いなら、ちゃんと飲め」
生きて欲しい。
そう思うくらいには、驚いた顔をしている目の前の男を愛していた。
「ありがとう、桜君」
服の裾から手が入り込んで、寒くもないのに身体が震えた。これからきっと全身を舐められて、啜られて、蘇枋の全身に仙気が行き渡るまで身体を暴かれる。
その行為は、桃娘にとって死因となるもののはずだった。しかし、もう桜はそんなことでは死なない。蘇枋の育てた桃が、桜を強くしてくれたから。
だから、愛しい人と繋がる喜びを知ることが出来る。
その喜びを教えてくれたひとに、桜は抵抗することなくその身を預けるのだった。