未定ふと意識が戻ると、自宅のリビングに突っ立っていた。カーテンの隙間から覗く空は白み始めたばかりで、起きるにはまだ早い時間だと分かる。
───思い出せない……
昨日は特にやることもないからと、早めにベッドに入ったはずだ。それから今まで、尚哉にはベッドから出た覚えがない。いくら寝ぼけていたにしたって、水を飲んだ覚えもなければ、トイレに行った記憶もないのは変だろう。
極め付けに、寝巻きとして着ていた紺のスウェットの裾が汚れていた。どこかで怪我でもしたのか、足にはもう乾いた血がついていて、鈍く痛む。
「……あっ!」
狭いワンルームをぐるりと見渡すと、僅かに血と土で汚れた足跡が、玄関から廊下を通ってこのリビングへと続いていた。
足跡を見るに、どうやら自分は外に裸足で出ていた様だった。けれど、どれだけ頭を捻っても昨日眠った後に何があったのか、尚哉には全く記憶がない。
知らぬ間に怪我をする様なことをしていた自分が怖くて、不安でたまらない。けれど、何もせずにこのままリビングで突っ立っている訳にもいかない。とりあえず、この汚れた痛む足をどうにかしなければ、と尚哉は風呂場に足を向けた。
「はぁ、今日が土曜で良かった…」
足の汚れも洗い流し、部屋の掃除も済ませた尚哉はようやく一息ついて、遅めの朝食とコーヒーを胃に流し込んだ。
血のついていた足は、ガラスか何かでも踏んだのかスッパリと切れており、他にも小さな傷が幾つも出来ている。前に中耳炎になった時に反省して買っておいた救急箱が役に立つ時が来るとは思わなかった。消毒を済ませて、ガーゼを当てた足は歩くとジクジクとした痛みを伝えてきて、暫くは歩くのが億劫になりそうだ。
(とりあえず、今日はちゃんと鍵閉めたか確認して寝よう…)
自分で開けているなら意味はないかもしれないが、何もしないよりマシだと思いたい。
幸い、この週末は祝日が重なって三連休だ。高槻のバイトも入っていないし、何の予定も無いから誰かにバレる心配もない。
(それに、偶々かもしれないし……)
大した怪我でもなかったし、そこまで大袈裟に騒ぐほどのことでもないだろうと、尚哉は不安を感じつつも、結局いつも通りの一人の休日を過ごしていった。
◇◇◇
そうして迎えた火曜日の朝だが、尚哉は土曜日の楽観的な自分を恨んでいた。やはり自分はこの四日間、無意識に夜に出歩いているようだ。
今日こそはと思い、ベッドと手首を紐で繋いでいたのだが、かなり無理をして外したらしく、擦れて赤く血が滲んでいた。足は毎回汚れて傷が増えるからと靴下を履いていたのが功を奏して、今回は廊下の掃除だけで済みそうだ。
火曜の講義は午後からなので、まだ十分時間はある。
とりあえずは掃除を済ませて、この袖口から覗く赤くなった手首を隠す方法を考えないといけない。今日は高槻の講義があるのだ。なんとしてもそれっぽい理由を見つけて誤魔化さなくては、確実に面倒なことになる。
「はぁ、上手く誤魔化せるかな……」
うだうだ悩んでいてもしょうがない。途中で買い物もするなら、流石にもう家を出ないと遅刻してしまう。まだ鈍く痛む足に辟易しながら、尚哉はマンションを後にした。
◇◇◇
──大変だった…
帰宅した途端、どっと疲れが襲ってくる。
あの後、結局ドラッグストアで買った手首のサポーターを付けていったのだが、目敏い高槻がそれに気が付かないはずもなく、講義の後に研究室に呼び出されてしまった。
たかが一学生が普段着けていないサポーターをつけて出席していたからといって、呼び出してまで確認するのは正直過保護だと思うが、眉尻を下げながら全く歪まない声で『心配なんだよ』と言われれば、ついその対応を受け入れてしまう自分にも問題があるのかもしれない。
本当はリストバンドにするつもりだったのに、手の甲まで赤く擦れていたので、サポーターくらいしか上手く隠せるものが無かったのは誤算だった。まぁ、リストバンドよりも、これの方が付けている言い訳がしやすかったので、結果的には助かったと言えるが…。それに、足の方は最後まで気づかれなかったので、自分にしては上々だろう。
「はぁ…、今夜はどうしようかな」
もう四日も夜に出歩いてしまっているのだ。きっと今夜もそうなるだろう。おまけに、目が覚めた時にいる場所が、だんだん玄関に近くなっていることも気にかかる。もしかしたら、今夜は家に帰って来れないかもしれないと思うと、不安で仕方がない。
「とりあえず、靴下は履いて……、あっ、一応スマホも持っておくか…」
確か普段は使っていないウェストポーチがある筈だ。少し寝にくいが、これで万が一外で目が覚めたとしても、帰れなくなることは無い筈だ。
徒歩で帰れなくなるようなところまで行くとは思えないけれど、こんなことは初めてでどうしても不安が拭えない。
「もう寝ようかな…」
毎晩勝手に歩き回っているせいか、あまり疲れがとれていない気がする。まだ9時になったばかりだが、眠くて仕方がない。
最後に鍵がかかっていることも確認して、尚哉は沈み込む様に眠りに落ちていった。