机を挟んで「……と、こうなる訳だが……理解できたか?」
しまった、つい見惚れてしまっていた。
授業中に黒板へチョークを打ち付ける指先も、ノートを差す指先も眩く映るから。
「……すみません、もう一回」
「全く……もう呆けるなよ」
片手に持つ化学の教科書に向ける艶やかな眼差しが思い起こされ、放課後の教室で溜息を吐きながらも柔らかな眼差しに射抜かれてしまう。
「……先生が、悪い」
「何……?」
小さな呟きは聞こえること無く、再びノートを見つめ返す。
実を言うと幼い頃から姉代わりだった朱和の勧めで、嫌々入学した高校だった。勉強は苦手だ、体を動かすより儘なら無い。大道芸でもして、気ままに暮らしたい。姉に世話になっている以上、一応行くだけ行く場所だろうと思っていたのに。
「まぁ、とにかく……ここさえ抑えておけば期末は大丈夫だ……期待しているぞ、『 』」
名前を呼ばれると、胸が激しく高鳴った。
一年生の授業が始まった途端、教壇に立つ姿に魅入られてしまう。ハーフアップとか言う銀鼠の長髪からは花を纏ったかの如く芳しい匂い、柔らかく包み込む様な笑み。自分より大分、年上なのに。煌めく琥珀の瞳は、誰よりも眩くて。
「……張角先生、俺の名前……呼んでくれるんだ」
主に運動部の助っ人をする度に活躍してしまったからか、練習試合の相手を応援に来ていたらしい鳳凰学院の曹操に『紫鸞』という渾名を付けられたのだ。そういう伝説の鳥が居るらしい。以来皆に気に入られ校内外に定着し、同級生の元化を始め他の先生にまで呼ばれる。自分すら元からある本名を忘れかける程に。まぁ気に入ってはいる、悪い気もしないけれど。それでも少しだけ、期待してしまう。どうか、覚えていて欲しいと。
「……名前以外に、何と呼ぶんだ……?」
やはり、この先生は違う。頬杖付きながら、何の疑問も無く優しく微笑みかけて。一番求めていた、先生だからこそ欲しくて堪らなかった言葉を返してくれる。面倒だと思っていたけど、通うことに意味はあったんだ。
実験の薬品に混じっても残る、惹きつけて止まない香りに身体の芯から熱く滾ってしまう。前から何処かで知っていた様な、遥か昔から待ち侘びていた様な気さえしてくる。白衣に纏う艶やかな紫煙まで、視界に煌めいて。
「先生は……本当に綺麗だ」
思わず面食らった表情で、口に出してしまったと解る。先生は呆れた様に小さく口角を上げ、傍らの教科書を閉じて囁く。
「……言う奴だな……俺などよりずっと、お前の方がずっと良い瞳をしているぞ……校内でも人気者だろう?」
やはり、自覚が無い。それ程色香を振り撒いて何故そう言えるのかと言葉にしかけたが、流石に呑み込んだ。
「……ん、もう最終下校時間だ……早く帰って復習しておきなさい」
「先生」
教室の扉に手を掛けた背へ呼びかけると、直ぐに振り向いて。
「……俺の生徒なら、今は勉強しなさい」
閉まっていく扉を眺めながら、先程の柔らかな笑みが何時までも脳裏に焼き付き体温が頬まで昂る。
「……っ」
気付かれているのか、胸に燻る感情を。
包み込む淡い月の光の様な眼差しに、早く映りたい。多分三十代後半らしいけど、年上だとか立場とかはどうだって構わない。ただ絶対に、離したくなかった。
周りと違って色素の薄い、余計なものまで視えるこの瞳も悪くないと思えたのは初めてだから。
期末の順位が上がったら、今度こそコンビニの肉まんを買い食いするのに誘ってみせる。
拳を小さく握りしめ、益々学校生活への期待を膨らませながら教室を後にした。