きみは運命の人じゃない 十七話ここが学校であるとか、近くに誰かがいるとか、そんなことは頭から抜けていた。オベロンの骨張った大きな手が、立香の体の線をなぞるように腹部から胸下までをゆっくりとブラウス越しに愛撫する。それだけで立香は肌を粟立たせ、快感に震えて背をのけぞらせた。
「……ぁ。お、べろん」
甘い声は吐息ごとオベロンに口に含まれる。立香の体をなぞる彼の指先に巻き込まれて、ブラウスがそっとたくし上げられていく。
棚からテープを手りだした男の子たちは、「帰りにコンビニ寄りたい」などと談笑していて、奥にいる立香たちには気づいていないようだ。そうして彼らは賑やかに笑い声をたてて倉庫から出ていこうとしたが、その時、三人のうち真ん中にいる生徒が首を傾げた。
「なあ。さっきからさ、甘い匂いがしない?」
彼は足を止めようとしたけれども、隣にいる友人に「甘い匂いって?」「ってかそろそろ戻らないと先輩に怒られるんじゃね?」と先を促された。そしてそのまま、奥を振り返らず出て行く。笑い声と共に、遠ざかっていく足音。
倉庫の中は再び衣擦れの音しか聞こえなくなった。その静かな空間で、立香は身を震わせた。なぜなら彼らがいなくなったのと同時に、オベロンの手が素肌を直に撫でたからだ。「あっ…!」と声をあげそうになって、立香はまたオベロンに口付けられた。
オベロンとのキスは、気持ちがいい。心臓が早鐘を打ち、羞恥と期待に頭の中がバラバラになりそうなのに、同時に口と口を合わせ、舌を絡ませ合うと心が満たされる心地がするのた。もっと欲しい。もっともっと、深くまで繋がりたい……。
立香の白い腹を撫でていたオベロンの指先が少しずつ登っていき、下着に覆われた胸の膨らみにとうとう触れた、その時だった。
ピンポンパンポーン、と軽快な校内放送が空気を震わせた。
『……えーっと。これ声入ってます、よね。えーっ、あの!東校舎三階のテラスで作業をしていた人、今すぐ戻ってきて、荷物を撤収させてください。仮止めをしている弾幕が今にも外れそうで危ないです。あ、あと、ハケとかバケツとかが手すりにあるのもすっごく危ない。ので、急いでください!』
ギクーッと肩を跳ねさせて、立香とオベロンは思わず天上にあるスピーカーを見つめた。
彼らは行為を止めざるえなかった。なぜなら聞こえてきたその声は、アルトリアのものだったからだ。
アルトリアはその後も放送に慣れていない様子で、ボソボソと緊張気味に何かを喋っていたけれど、途中で「代わりなさい!」という苛立たしげなノクナレアの声に代わった。
『東校舎三階テラスで作業をしていた生徒、至急戻りなさい。また、一階で作業をしている生徒、上から落下物がある危険性があるので、作業の手を止めて今すぐ退避していなさい。文化祭実行委員に連絡します。総務、広報班はテラスの片付けの手伝いを、機材管理班、装飾班は一階へ行って、下にいる学生の誘導をお願いします』
ぶつり。とそこでマイクの音がかき消えた。
再び倉庫内に静けさが戻る。だけど、先程までの甘やかな空気は完全に掻き消えていた。
「……」
アルトリアの声が乱入してきたことは、沸騰しかけた二人の頭を冷やすには十分だった。先程までは全く気にならなかったはずの、遠くから聞こえてくる学生たちの声もまた、ここが学び舎であることを知らしめてくる。
……はぁー、と深いため息をついてオベロンが立香の上から退いた。そして立香に手を差しのべる。立香はどんな表情をするべき戸惑いつつも恐る恐るその手を取り、身を起こした。
見れば、光に照らされた埃がキラキラと辺りを舞っている。……よく考えなくても体育館の倉庫は汚いし、埃臭い。今度はいつ、誰がやってくるかも分かったものでもない。それなのになんて場所で我を失いかけていたんだ、自分は!
赤くなった顔を隠しながら、立香は乱れた服を整えて立ち上がった。
もし!もしもアルトリアの校内放送がかからなかったら、立香たちはどうなっていたんだろう?
まさか……、まさか、あのまま……っ。
それ以上を考えると火を吹きそうになったので、立香は慌ててその思考を押しやると、頭を振って口を開いた。
「え、えっと!東校舎の一階、だったよね。急いで行かなきゃ!」
いまだ座っていたオベロンは、半眼になって立香を見上げた。
「あのさ。きみが行く場所は、保健室でしょ」
「え?」
「実行委員の仕事は俺がするし、鞄も持っていくから、俺が迎えにいくまできみは保健室から出てくるなよ。分かった?」
「え、でもっ」
オベロンが立ち上がって手を伸ばしてきて、立香の首裏を撫でた。うなじを保護するチョーカーにカリッ、と爪をたてられた立香の体が、ゾワリと総毛立つ。
「きみさ、フェロモンが出かけているの、分かってる?……そこら辺の有象無象を惹き寄せたい?万が一でもモーションをかけられている様子を見せつけられるのはたまらないな」
ともすれば彼のそれは冷たい言い方だった。それなのに立香は、指先で首筋を撫でられたとたんに先程の行為を思い出して、顔を赤くした。……それにオベロンのその台詞は、まるで独占欲の表れみたいじゃないか。
立香は逃げるように視線を下へ逃して小さく頷いた。
「……わ、分かった」
その後オベロンは、「これでも身に纏っていて」と言って制服のベストを脱いで立香に被せた。そしてかなりピリピリした空気を放ちながら、立香と連れ立って体育館の倉庫を出る。
立香はオベロンの香りに包まれたことと、いつにない彼の様子に場違いにもドキドキしてしまったけれど、同時に「私のフェロモン、そんなに漏れてるのかな」と心配になった。
保健室につき、オベロンが実行委員の仕事をするために去って、改めて保険医の話を聞く頃になると不安は増大した。
「二年生のときも体調を崩していたし、きっと藤丸さんもそろそろヒートを迎えるでしょうね」
と教員は言った。そして立香と付き合い、改めてΩの発情期について説明を始めた。
「貴女もよく知っているとは思うけど、ヒートの期間は7~14日が一般的です。ただ、藤丸さんはヒートを短縮する抑制剤を処方して貰っているということだから、ヒートの期間は2、3日で済むかもしれないわね。もし今後、朝起きて熱っぽかったり、体調が変だと思ったら無理せず学校を休むように。そのときは公欠扱いになります」
「はい」
「学校でヒートが始まったら保健室に来なさい。通学途中で始まったら保護シェルターに行くようにしなさいね。通学路途中にある保護シェルターの位置は、ちゃんと把握してる?」
「把握してます」
こうして一つ一つ確認されると、自分が「変わってしまう」瞬間がヒタと近づいていることが分かって、立香はぶるりと身を震わせた。
□
一時間ほど経って、オベロンが立香の荷物を持って保健室まで迎えに来た。その頃には薬も効いて立香のフェロモンも安定していたので、一緒に下校することにする。
校門を出ながら「テラスで作業していたのは一年A組だった」と彼は言った。
「風にあおられてペンキ缶が倒れていたんだ。お陰で床が赤のペンキまみれだったよ。掃除をするのが大変だった」
「実行委員が掃除をしたの?」
「一年A組の担任が、掃除の前に生徒を説教し始めたせいでね。その間俺たちが何故か片付けをしてたってワケ」
「あはは、それは大変だったね」
「俺たちのことを便利屋かなんかだと勘違いしているんだろうな」
オベロンは立香の不調をノクナレアたちに伝えてくれたという。
隣を歩きながら、彼は立香の顔色を伺った。
「……また体調でも崩してる?」
「どうして?」
「顔色が良くない。どうかした?」
一瞬立香は口籠もった。けれどオベロンを見返して、彼を誤魔化そうとしても無駄なことを悟った。だから視線だけ逸らす。
「保健室の先生に改めてヒートについて説明してもらったの。そしたら、とうとう本当に発情期が来ちゃうのかもしれないな、って自覚したんだ。当然初めてのことだし、なんか」
「……」
「ちょっと、怖い……」
例えば外出先で発情期が始まってしまったら、保護シェルターに駆け込むにしても、それまでに何かあったらどうしよう、だとか。本当に短縮用の抑制剤が効くんだろうかとか。知識では知っているけど、実際のヒートはどんなものなんだろう。これから一生、自分の発情期と付き合って行かなければならないのかな、だとか。考え出すと未知への恐怖はキリがなかった。
「……あっ。でもお兄ちゃんが、何かあったら電話したら良いって言ってくれてるから、大丈夫。お兄ちゃんが絶対に、どんな時でも迎えに来てくれるって言ってくれるから安心してる」
後ろ向きな言葉で終わりたくなくて、わざと明るい声を出して立香が言う。するとしばらく黙っていたオベロンが「藤丸だけ?」と言った。
「立香が不安に思ったとき、俺には連絡しないつもり?」
バス停まで来た。立ち止まって、立香とオベロンは見つめあった。
「……連絡しても、いいの?」
「あぁ。」
「私、フェロモンで不安定になってるかもしれないんだよ。いつもよりネガティブになって、変なことを口走っちゃうかもしれないんだよ」
「もちろん、いいさ」
「……。そっか……」
ふいに、涙が出そうになった。立香は思わずぎゅっと胸元にあるオベロンの制服のベストを抱きかかえて、……そういえばまだそれをオベロンに返せていなかったことを思い出す。
「あっ、……オベロン。これ、貸してくれてありがとう」
「ん」
立香がベストを差し出すと、オベロンも手を広げた。けれど。
……やだ。
ベストがオベロンの手に渡る前に、立香はそれを引き寄せてしまった。目を丸くして瞬く彼に、頬を赤くして立香は慌てた。
「ご、ごめんっ……」
「いいけど。どうかした?」
「オベロンの香りが安心する、から」
「……」
「あのね。明日ちゃんと返すから。だから今日は持って帰っちゃ、だめ……?」
「……いいよ」
ベストを受け取ろうとしたオベロンの手の平が返されて、そのまま立香の頬を撫でた。彼の指先に触れられたところから、ざわざわと頸がざわつくような、それでいて安心するような、ドキドキする熱が広がっていく。
いつもより深みを増したオベロンの青い瞳を見つめ返して、「ねえ、オベロン」と立香は夢心地で尋ねた。
「……私のフェロモンのせいじゃ、ないよね?」
「何が?」
「私の傍にいてくれるのは。こうして優しくしてくれるのは、オベロンのちゃんとした意志、なんだよね……?」
「……当たり前だろ」
オベロンは緩く微笑むと身をかがめて、立香の唇にそっとキスを落とした。
□■□
家に帰って、ご飯を食べ、お風呂に入り、寝る支度をしている間も、立香はずっとオベロンのことを考えていた。彼は立香に、電話をかけてきていい、と言った。
本当に、いいのかな?
……あのテノールの声が聞きたい。「立香」と呼んで欲しい。
立香は自分の部屋のベッドに横になり、携帯を見つめたけれど、今は特別フェロモンが乱れているわけではないし、勇気も出なかった。だから結局は携帯から視線をそらして、代わりにオベロンの制服のベストをぎゅう、と胸に抱きしめた。鼻を近づけると、オベロンの木々と果実の甘い香りがする。
自然と、今日彼から与えられたキスと抱擁を思い出してしまった。オベロンの手つきは優しかった。それでいて立香の心臓をドキドキさせて、たまらない気分にさせるのだ。
「……ぁ」
オベロンがそうしたように、お腹周りから胸元までを自分でも撫でてみる。ぞわぞわと頸のあたりから甘く痺れて、立香は思わず熱い吐息を口からこぼした。
あれは、……あの行為は、学校の体育館の倉庫でするにはきっとイケナイことだった。……だけど、オベロンには触れて欲しい。それ以上のことを、彼にはして欲しい。
「からだ、熱い……」
よりぎゅう、と立香はオベロンのセーターを抱きしめる。
胸が苦しい。
早く会いたい。
あの声が聞きたい。
抱きしめて欲しい。
はやく。
オベロン。
「学校に、行きたいなあ……」
学校に行けばオベロンに会えるから。だから雲雀が鳴いて、早く夜の帳が上がらないかな。そうすればいの一番にベッドを飛び出して、彼に会いに行くのに。
□
立香の頭の中は「オベロンに会いに学校へ行きたい」ということでいっぱいであったから、翌日、少しふらつく状態であってもテキパキと学校へ行く準備をしていた。
それでも家族ならば、立香の顔色を見て、彼女が本調子でないことは分かったから、歯磨きをしながらリビングに入ってきた藤丸は「今日は学校を休んだら?」と言った。
しかし鞄を肩にかけた立香がコテン、と首を傾げる。
「休む?どうして?」
だって学校に行けばオベロンに会えるのに。
立香に「心底理解できない」という様子でキョトンと尋ね返されて、藤丸はちょっとポカンとした。だって。普段の立香なら、休む選択も視野に入れていただろうに。
立香はぼんやりと、熱のありそうな顔で言った。
「じゃあ学校にいってきます、お兄ちゃん」
「うん……、気をつけてね。何かあったら電話するんだよ、絶対」
「?分かった」
藤丸に見送られて、家を出る。やっとオベロンに会える!と、立香は浮き足立っていた。
そんな様子であったから、学校の下足室で鉢合わせたオベロンに「立香」と呼び止められた時、彼女の心は舞い上がって、オベロンに抱きつきたいくらいに嬉しかった。
「オベロン!おはよう」
と、立香は満面の笑みで言った。
するとオベロンは一瞬虚をつかれた顔になり、それから顔をしかめて立香の手を掴むと、人通りの少ない廊下まで彼女を引きずっていった。柱の影になったところへ立香を押しやり、彼自身も身を寄せて声を小さく尋ねた。
「……きみさ、平気?」
「なにが?」
「フェロモンは漏れてない。だけど何か、変だ」
「変?」
立香は頬に手を当てた。
「自分では分からないけど、どこが変かな?」
「どこがっていうのは、指摘しづらいけど」
「そうなの?」
立香は今度は両手で頬を覆った。
「……顔とかが、変なのかな?」
「いや。……雰囲気。柔らかいというか。ぼーっとして、いつもに増してマヌケっぽい」
「そうなんだ……。どうしよう」
「どうしようって?」
「オベロンに少しでも良く思われたいのに。オベロンに嫌われたら、悲しい」
「はあ?」
生徒が来たので、よりオベロンは立香を人目から隠すように奥へ押しやった。彼の碧眼が鋭く細められる。
「学校を早退する気は、ないよね?」
「うん。だって登校したばっかりだよ?」
「……なら今日は特に、単独行動は避けろよ。常にアルトリアと一緒にいるんだ。分かった?」
「?分かった」
「今は平気でも、具合が悪くなったらすぐに早退しろ」
「うん。でもどうしたの?オベロンこそ今日は変だよ」
チャイムが鳴った。オベロンは舌打ちをして歩き出そうとする。立香は「あ。」お丸っこい声をあげてオベロンの制服の裾をちょん、と掴んだ。
「あのね、オベロン」
「なに」
「制服のセーター、まだ借りてて、いい?」
「いいよ」
「……えへっ。嬉しい」
はにかんで笑う立香を見下ろして、オベロンは何か言いたげだった。しかし結局グッと黙って、立香の手を引いて教室へ向かう。
オベロンとはクラスが違うので、自クラスに入ってしまえば当然のことながら一緒にいられなかった。それがこんなに寂しいことだなんて、立香は今日改めて知ったのだ。
オベロンと会える昼休みの時間までが酷く長く感じたけれど、四時間目が終わって、すぐにオベロンが立香たちを教室まで迎えに来てくれたのを見て、その物思いなど吹き飛んでしまった。
アルトリアと一緒に、三人で中庭に向かう。
お弁当を広げて、唐揚げを頬張りながらアルトリアは言った。
「確かにオベロンが言う通り、今日はずっとぼんやりしてるよね、立香」
立香は箸を置いて首を傾げる。
「自分では変わらないつもりなんだけど。……フェロモンが漏れてたりする?」
「ううん。漏れてないよ。それに私はいいと思う。今日の立香はなんだか可愛い」
ニコニコ笑うアルトリアに対して、オベロンはムッツリしていた。
アルトリアはオベロンを見てニヤついていたけれど、意外にも手早く昼食を食べていく。
「アルトリア、なんだか急いでる?」
「そう。実は今からに文化祭の入場チケットの印刷作業があるんだよね」
「手伝おうか?」
「ガレスちゃんとホープちゃんがいるから、大丈夫だよ」
アルトリアは人見知りをして他人と距離をとる傾向にあるけれど、二人の後輩にはすっかり心を許しているようだ。しっかり先輩風を吹かせてきます!と笑って、アルトリアは裏庭を去っていった。
二人きりになったけれど、相変わらずオベロンの表情は険しい。立香はおずおずと尋ねた。
「今日の私って、そんなに変かな」
「まあね」
「そっか。……もう少し強い抑制剤をもらって服用した方が良い?」
「どうして」
「だって」
と、立香は視線を下に落とした。
「オベロンに会えるから頑張って学校に来たのに。……今日のオベロン、ずっと機嫌が悪いんだもん」
そうして彼女はいじいじと卵焼きを箸でつついた。
「オベロンは私と一緒にいるの、イヤ?」
「……、〜〜〜〜っ!」
オベロンは突然唸り声をあげると両手でガシガシと頭を掻いた。
「きみのそういうところ、本当にさあ!」
額に手を当てて項垂れていたけれど、彼はやがてはあ、と大きくため息をついた。「俺は別に機嫌が悪いわけじゃない」と否定して、それから恨めしげに立香を見つめる。
「きみを思うと気が気じゃないんだよ」
「私?」
「危なっかしいんだ。だから正直、立香には今すぐ保健室にでも引っ込んでいてほしいし、例えば明日になって、朝から何か変だと思ったら、ヒートがまだ始まっていなくても学校を休んでほしい」
「……」
「明日は土曜日だし、午前で授業が終わるから、休むにしても罪悪感は少ないだろ?」
「……うん。でも」
と、立香は未だ卵焼きを見つめたままだ。
「そうしたら、月曜日までオベロンには会えないね」
「……授業が終わったら家に行くよ」
オベロンは降参するように肩から力を抜いて、立香のすぐ傍に畳まれて置かれた、自分のベストを見つめた。
「立香が俺の香りに包まれた方が安心するっていうのなら、きみが俺の家に来てもいい」
オベロンの家で。オベロンの物に囲まれて、木々と果実の香りに包まれる。それはとても心惹かれる提案だ。
……でも。
でも、もし。そのままオベロンの家で立香がヒートを迎えてしまったら……?
立香はオベロンを見た。オベロンも立香を見つめていた。重なり合った視線の中にぱちん、と熱が生まれたことが分かる。
立香のΩ性が発情期を迎えて変質してしまうのと同様に、立香とオベロンの関係もまた、変わってしまう予感がそこにはあった。もしかしたらより深く、濃密に。他の誰にも見せたことのない最深部まで相手に明け渡すことになるかもしれない。
立香は顔を赤くした。
オベロンの前に全てを曝け出すのは、怖いことだろうか?恥ずかしい?イケナイ事?……そうやって戸惑う一方で、本当は少しだけ、期待している自分がいる。オベロンに受け入れられたいと本心では願っている。
熱を孕む青い瞳から立香は目を逸らさなかった。
「……分かった。また連絡するね。ありがとう、オベロン」
その日はなんとか一日を終えたが、次の日の土曜日、立香は学校を休むことにした。オベロンに言われたからではない。朝から熱っぽかったのだ。抑制剤を飲んだけれど、いつもと違って体の中の熱が引かなかった。
両親と藤丸は立香を心配しつつも、それぞれ仕事や学校に向かった。特に藤丸は家を出る時には「何かあったら電話してきてよ!絶対。絶対だから!」と立香に念押しした。
両親や藤丸を見送った立香は自室に戻るとベッドに横になって、オベロンとアルトリアに学校を休む連絡をした。まもなく二人からも立香を心配する連絡がくる。
立香はまずアルトリアに返信し、そしてオベロンのメッセージを開いた。
『学校が終わったら電話する。だけどそれまでに何かあったら、連絡をくれ』
オベロンは学校を会えたら電話をくれるらしい。それだけで立香は嬉しくなって、時計の時刻を見つめた。けれどまだ一時間目の授業さえ始まっていない。
とたんに胸がキュウと哀しくなる。今でさえこんな気持ちなのに、学校が終わる時まで待てるのだろうか。
「……寂しい」
自分以外に誰もいない家の、特有の静けさ。シンとした空気が寒くて、立香は布団に包まって丸くなった。
「おべろん……」
手足は冷えているのに体の中が熱い。オベロンが傍にいてくれたら、この辛さはきっとなくなるだろうに。立香は襲いかかってくる倦怠感に耐えていた。そしてそのうちウトウトして、眠ってしまったようだ、携帯電話が鳴る音で彼女は目を覚ました。
オベロンからの着信だった。
立香はハッと飛び起きて、携帯を耳に当てた。
「もしもし」
『今、学校が終わった』
立香は窓の外を見る。確かに照り返しが強くなり、太陽が一番天高い場所にいるようだった。
『立香、体調はどうなんだ?』
耳元でオベロンの声がする。優しいテノールの声。今日一日ずっと、待ち侘びていた声だ。
「……会いたい」
と、立香は小さく言った。
「いますぐ、オベロンに会いたいの」
立香の震える声を聞いて、オベロンが電話の向こうで息を呑んだことが分かる。
『分かった。……すぐに会いに行く』
「バスに乗るから」と通話は切れてしまったけれど、オベロンの声を聞いてしまっては、立香はもう居ても立ってもいられなかった。彼女は服を着替えて昼の分の抑制剤を飲み、必要最低限のものを手に持つと家を飛び出していた。
オベロンは「バスに乗る」と言った。きっと、いつも立香が登下校で使っているバスに乗って、会いに来てくれているのだ。
立香が歩道の信号が青になるまで待っていると、携帯がオベロンからのメッセージを受信した。
今、バスに乗っている。そっちに着くまでに二十分はかかると思う。体調は大丈夫かい?
うん。今のところは大丈夫だよ。私も、家を出たの。最寄りのバス停まで迎えに行くね。
どうか嘘だと言ってくれ。大丈夫なの、きみ?フェロモンは?
抑制剤は飲んだよ。だから平気。
頼むから、大人しくしてくれよ。俺の気が狂いそうになる。
ごめんね。……でも、家でジッと待っていられなかったから。
きみらしいといえば、らしいけどさ。……バスが赤信号に捕まるたびに、車道にある信号を全部叩き割ってやりたくなる。本当に勘弁してくれ。
立香は思わず声に出して笑った。
オベロンとのやり取りから顔を上げると、立香の前にある歩道の信号は青になっていた。雲の上を歩いているような足取りで、彼女は足を踏み出す。
ヒートが始まりかけて、フェロモンが乱れているせいで、きっと頭が馬鹿になっちゃてるんだ、と立香は思った。
オベロンに今から会える。それだけで、今まで経験したはずの辛い記憶を思い出せない。オベロンと出会ってから、ドキドキしたことばかりが思い返されている。
初めてオベロンに会ったとき、全く穏やかではない出会いだったのに、立香は本当は、オベロンがあまりにも綺麗な青年だったから、彼に見惚れていた。
オベロンと隣の席になって、本当は毎日、ずっとドキドキと胸が高鳴っていた。
耐寒登山で一緒の班になれたときはびっくりしたけれど、本当はすごく嬉しかった。
耐寒登山が終わり、もうオベロンとの接点はなくなるだろうと落胆し、それなのに共にテスト勉強をすることになった日々は、幸せだった。
少しずつオベロンとの距離が近づいて、彼の孤独や狡さを知っても、やっぱりずっとずっと、変わらず立香は彼が好きだった。
この感情は、オベロンがαだから?
立香がΩだから、Ω性のフェロモンに心が錯覚させられているだけ?
運命とか運命じゃないとか、それだけのことで変わってしまう感情なのかな。
立香の家から最寄りのバス停までは徒歩で十分の距離だ。はやる気持ちを抑えられずに早足で向かったから、まだバスは着いていなかった。
抑制剤を飲んだけれど、今日はやっぱりよく効いてくれない。少し気持ち悪くなった立香は、バス停にあるベンチに座り込んだ。
その時だった、バスがターミナルに入ってきた。ゆっくりロータリーを巡回して、降車場所でエンジンを切る。
ややあってから、料金を支払い、バスから降りてくる人影があった。
今この瞬間が、立香の人生の中で頂点ではないかと思われた。薄墨色の髪をした青年の姿を見た瞬間、心が幸福に満たされたのだ。
「オベロン!」
声を上げて、立香は走り出していた。
バスを降りたオベロンが振り返り、その青い瞳に駆けてくる少女を映す。その時にはもう、立香はオベロンを抱きしめていた。
……いや。正確なことをいえば、両腕の内側へすっぽりと抱きしめられているのは、立香の方だった。
オベロンは言った。
「きみは、いつだって俺の予想外のことをするね」
空を写したような青い瞳は、吸い込まれそうなほど優しい。
「だから俺は、きみに目を向けずにはいられないんだ」
引き寄せられるように二人は一つになり、同じ影を踏んだ。ここがバス停のターミナルであるとか、他の誰かがいるとか、そんなものは関係なかった。惹かれあった彼らは互いに見つめ合い、そうしてまた強く抱きしめ合った。
【続く】