神は何処に「それ、全部食べるのか?」
隣から投げかけられた玄真将軍の氷のように冷たい視線から護るように、風信はハンバーガーとポテトののったトレーを腕で引き寄せた。
「悪いか? 腹が減ったんだ。あんなに歩いたから」
風信のいつもの服装をみかねた慕情に街へ連れ出されて歩くこと数時間。
店から店へ、あっちの売り場からこっちの売り場へ。
風信も店に服を買いに行ったこともあるが、あまりに多すぎて何がなんだかわからなくなり、何も買わずに疲労だけ持って帰るのが常だった。
物心ついてからこれまでずっと、与えられた服、決まった数着を着ていればよかったのに。
だから慕情が見繕ってくれるとなって風信の心は踊ったが、しかしそれは思った以上にハードだった。
これは品質が悪い、あれは年に不相応、これは色が似合わない……やっと何着か渡されて着てみるも、出てきた風信を一瞥した慕情が首を振る―そんなことを何回、いや何十回繰り返しただろう。
何が駄目かさっぱりわからないので、風信も今回ばかりは言いなりになるほかなかった。
だが、たまに冷静な頭をよぎるのだ。
武神二人が、下界でこんな事をしているなんて―と。
この世に永遠に変わらぬものなどない。
それは、何千年も変わらず続くかに思えた天界も同じだった。
かつては豪華な金殿が競うように並んだ仙京。
人間たちの神への信仰は薄れ、飛翔する者も減っていく。たまに飛翔してきた者も、仙京での豪奢な暮らしを望まない者が増えていった。神官は、次第に地上で暮らすことの方が増えていった。
ある者は自殿の寺で、またある者は住処を町や村に見つけて。
自分の観をこしらえてガラクタ集めをした仙楽太子が、まさか先駆けになろうとは誰が想像しただろう。
「うまいな」
風信の口は休むことなく咀嚼を続ける。
慕情としてはもっと健康的な食べ物のほうが好みだが、しかしたまに風信に付き合って食べるジャンクフードも、旨くないといえば嘘になる。
どんな食べ物でも、誰かが美味しくなるように考えて作っているのだ。
下界で暮らすようになってから、そんな当然のことに想いを馳せることが増えたな、と慕情はたまに思う。一度天界から見下ろしたのちに暮らす人間界は、少しばかり違って見えた。
突然、店の入口の方から怒鳴り声が聞こえ、二人の手が止まった。
目をやると、注文カウンターでなにやら店員に怒鳴っている客がいた。一言一句店内に響きわたるその言葉が、苛立ちに任せた何の意味も持たない言いがかりであることはすぐにわかる。カウンターの中の若い店員は身を固めて俯いている。鬼の邪気のような黒い空気が店の中を覆いつくした頃、客は置き土産とばかりにカウンターを蹴り、踵を返した。どしどしと横柄に出口へ歩いて行く。だが、扉が開いたところで、濡れた床に足を滑らせた。
すぐに体勢を取り戻したが、悲しいかな、店内の視線はすべてその客に注がれていた。
誰かがクスリと笑う声が聞こえた。客は振り返ることなく一瞬で姿を消した。
店内に次第に騒めきが戻る。
「お前か?」今の、と風信が面白そうに笑いながら慕情を見る。
「いや? 私は何もしていない」眉を軽く上げて、慕情は食事を続ける。
「神が手を下さなくたって、そういうものなのさ」
風信も頷き、二つ目のハンバーガーの包みを破る。
「まあ、でも」慕情の黒い目が冷たく光る。「あいつに毎日ちょっと嫌なことに見舞われるようにしてやらんでもない。誰も周りにいないところで、な」
風信も横目で見て笑う。
「毎朝、箪笥の角に足の小指をぶつけるとかか?」
慕情は、じとりと目を細めながら僅かに身を引く。
「お前、数百年も神をやってるくせに発想が貧弱すぎるぞ」
「ふん、では、陰湿な嫌がらせの方は玄真殿に任せるとして、南陽殿からは、あの店員に少しばかり幸運がもたらされるようにしようか」
そう言いながら風信は指で摘まんだポテトを口に放り込んだ。
「南陽殿は、相変わらず男女問わず人気取りには熱心だな」
慕情はフォークをぐさりとサラダのトマトに刺す。
「言ってろ。そういえばこの間小耳に挟んだんだが、玄真殿の寺がお守り作りの臨時の人手を雇ったら、見目麗しい青年がやって来てあれこれ難癖をつけてデザインを変えさせたとか―」
ズズズッと慕情が飲み物を啜る音が風信の言葉を遮った。
「で、そのお守りがバズって売上が一気に上がったらしい、という話か?」
慕情がしれっと続ける。
「バ……なんだって?」眉根を寄せた風信を慕情は無視し、食べ終わったサラダのカップを脇にやって、ホットドッグの包みを手にした。
慕情の白い指が、包みを丁寧に開けていくのを風信は見つめた。現れたホットドッグに、もう片方の手から押し出されたケチャップとマスタードが美しい模様を描いていく。一滴もその指を汚さずに終わるのも見て、風信は少しばかり恨めしく思った。
「なんかこれお前みたいだな」
唐突に慕情が言った。
「は?」「いや、この色、なんか天界にいた頃のお前のいつもの恰好みたいだなって」
慕情が、手に構えたホットドッグを見ながら真面目な顔で言う。
香ばしく焼けたパンの薄茶色、上にかかった赤と黄。確かにそう言われると風信も若干のなつかしさを感じた。そんな風信の目線の先で、パンから突き出たソーセージの太く丸い先が、慕情の赤い唇の中に導かれる。
その光景にあらぬことを想像してしまいそうになった風信は、慌てて顔を背け、冷たい飲み物のストローを口に含んだ。
慕情の用事も済ませて帰りの電車に乗った時には、もう外は暗くなっていた。
街はずれへ向かう各駅停車の電車の座席で風信はうつらうつらと首を揺らしている。
仙京でいつも法力に満ち溢れていた頃には、疲れや眠気とは無縁だったのに。だが、人間だった頃のようなその感覚が、神官としての力溢れる感覚に劣るかと問われればどうだろう。暗い窓に映る自分たちの姿を見ながら慕情は考える。
人間とはなんなのだろう。そして、神とはなんなのだろう。
電車が揺れたはずみで、風信の首がゆらりと揺れ、向こう隣りに座っている女性の肩に落ちる。
「おい」
肘でつつくと風信が目を開け、はっと体を立てた。隣にもたれかかっていたことに気づき、横を見、そしてそれが女性であることに気づくまでに数秒。
「……し、しっ、しっ失礼っ……!」
突然隣の男性が驚愕した表情でぺこぺこ謝りだしたのを見て、女性の方が驚いている。
「それくらいにしとけ」
慕情は風信の服をぎゅっと引く。
「もたれるならこっちにしろ」
「あ、ああ」
わざとなのかどうなのかわからないが、風信はまたすぐに目を閉じると慕情の肩に頭を預けた。
小さな駅に止まり、席を立った女性は、降りるときにちらりと慕情に微笑み、軽く会釈した。
慕情が返す前に、彼女は暗いホームへ消えていた。
暗い夜道を一人で歩いていくのだろうか。
彼女に幸あらんことを―慕情は静かに目を閉じた。
神は、たぶんどこにでもいるのだ。