星が瞬く澄んだ空を吹き抜ける風が、風信のコートの襟を揺らす。だが風信は手すりに腕を置いてもたれかかったまま、風が弄ぶのに任せていた。
空港にはいくつか展望デッキがあるが、もっぱら人気なのはやはり滑走路が見えるところだ。反対側の街が見えるだけのこのデッキは、特にこの時間だともう誰もいない。
外の空気を吸いたかったが、滑走路を見る気分には到底ならない。
大きく溜息をついて腕に顔を埋める。
故障した前輪が滑走路の摩擦に耐えかね、機体の鼻先がガクンと落ちた時の衝撃を思い出し、体が不意に縮こまる。
そうか、俺は怖かったのか。
今やっと、そのことに気づく。
安全に止めるためにやるべきことで頭は一杯で、その時は本当に恐怖など感じなかった。体に伝わる全ては、心に行くのではなく、頭で処理されていた。それに、怯えているだろう副操縦士の横で、動揺など顔に出すわけにはいかない。
なんとか大事にはならず、乗客も乗員も無事に降機した。だが、胸を撫でおろす暇もなく、山のような報告やら記録の提出やらに追われ、なんとか解放された時にはもう夜だ。
今になって、疲労感が大波のように押し寄せて、このままここで飲み込まれそうな気分になる。
その時、後ろから声がした。
「おつかれ」
極力ねぎらいを抑えためんどくさそうな声に風信は、ふっと息を漏らした。振り向く必要はない。そして向こうも風信が振り向かないことなど知っている。しばらくするとすっと横に人影が並ぶ。
「ん」
頬にふいに熱いものを感じて風信は思わず顔をよけた。「あつ……!」
「そんなに熱くないだろ」不機嫌そうな声が言う。風信は、顔の前に突きつけられている蓋つきの紙カップを受け取った。
「慕情、お前いたのか」
慕情は口を歪め、ふんと笑う。「南陽航空は、礼の言い方も教育しないのか?」
風信は、どうもと言って一口飲んだ。砂糖がたっぷり入った風信好みの甘く温かいコーヒーが、強張った体をほぐしていく。コーヒーを飲みたいと思いながら、まわりから注がれる視線の中でカップを優雅に傾けるほどの神経は持ち合わせておらず、まだありつけずにいたことに気づく。
風信の口元が緩むのを見て、慕情も自分のカップに口をつけた。
「驚いたぞ」慕情がぽつりと言う。「フライトが終わって帰ろうかと思ったら、南陽航空が胴体着陸するかもなんて聞いて。しかも、よく聞いてみればお前の便だと」
「それで高みの見物に戻ったのか?」風信が鼻を鳴らす。
「お前……! いくらなんでも失礼だろ」慕情が声を荒げる。風信は目を伏せた。
「……すまん」パイロットなら、冗談でも言ってはいけないことだとはわかっている。
二人の間に沈黙が流れる。遠くに聞こえる離着陸の音はいつもより少ない。滑走路の一本は、明日まで使えないだろう。
「まあ、お前にしては上出来だったんじゃないか」慕情が前を見たまま言う。
「機首はもう少し早く下げても良かったかもしれないがな」
「わかってる」風信が忌々し気に言う。
不安な状態の前輪をぎりぎりまで接地したくなくて日和ったことは否めない。減速が足りない状態でつければ、負荷がかかりすぎる。だが遅すぎれば機体は止まらずオーバーランするかもしれない。滑走路の長さも考えて計算し尽していたとはいえ、風信もやってみないことにはわからなかった。
自分の判断を信じるという恐怖に打ち勝つのは、いかに難しいことか。
だが、隣のこの男はそんな苦悩とは無縁なのだろうか。常に氷のように冷静で、情など挟まずに自分の判断した最善に自信を持つ、この有能な玄真航空のパイロットには。どうせ、また何かあげつらうのだろうと風信は目を瞑る。
「まあ、あの状態で、機体の顎を擦りむく程度でおさえたのは凄いんじゃないか?」
風信は薄っすら目を開ける。「確認だが、それは褒めてくれているのか?」
「そういうことにしても構わない」慕情がさらりと返す。
風信はカップに口をつけ、もう一口甘い味を味わう。
「だが、俺だけの力じゃない。優秀な副操縦士がいたからだ」
「ああ、南風だったのか? 今日」「ああ」
「優秀らしいな。うちの扶揺といい勝負だとか」
「ああ。優秀すぎるくらい優秀だ。今日だって、俺が指図しなかったところまで」
よかったな、と慕情は小さく笑ったあと真顔になった。「大丈夫そうか?」
「ああ。見てた感じだと大丈夫そうだが……」
「フォローしてやれよ。トラブルの次のフライトは怖い」
慕情の言葉に、風信も頷く。「わかってる」
「お前もちゃんと休め」
慕情の声に風信は頭を抱えて深いため息をついた。「明日からまた、聞き取りやら事故報告やらが控えてると思うと休まらん」
慕情が呆れ顔でため息をつく。
「機体のトラブルはお前のせいじゃない。むしろお前は、困難な状況を乗り切ったんだぞ。胸を張れ」
それはそうだがと顔を上げた風信に慕情が言った。
「誰もお前以上にうまくは出来なかったさ」
皮肉屋でドライな彼の口から出た最大級の賛辞に思わず風信の目が丸くなる。
「まぁ、私を除いて、だが」
ぶっきらぼうに付け加えられたセリフに重なるように、風信が鼻を啜った。
「寒いな」そう言いながら顔を背けた風信を見ると、慕情は手すりから体を離し、袖を軽く払った。
「さっさと中に戻れよ? ここで風邪を引いたら、立役者が単なる馬鹿に格落ちだぞ」
立役者、か。
去って行く声に、風信は背を向けたまま片手を上げた。