フライトを終えて戻ったら一番にやりたいこと、それは熱いシャワーをたっぷり浴びることだ。
風信にとってそれは、フライト先でも家でも同じだった。だがやはり長距離のフライトのあとは自分の家のシャワーが一番だ。明日はオフだし映画でも見ようかなどと考えながらタオルで髪を乾かしていると、テーブルに置いたスマホの着信音が鳴った。
南風だ。タオルを肩にかけてタップする。チャットメッセージ画面が現れる。
『今日はすみませんでした。ハンカチは洗って今度お返しします』
備品室の隅で肩を震わせていた姿を思い出す。
『気にしなくていい。大丈夫か?』と返信を返す。少し間があって吹き出しが現れる。
『大丈夫だとおもいます』
しばらく指が逡巡したあと、返信を打つ。
『大丈夫じゃないだろ。話、聞くぞ』
ビデオ通話でもかかってくるだろうか。少しすると、返信を打っているのであろうドットが画面に跳ねた。だが、一向に返信は来ない。ドットだけが、現れては消えてを繰り返している。
濡れたままだった髪を拭き終わったころに、やっと、ぽんと短い返信が現れた。
『はい』
拍子抜けするほど短いその二文字に首を傾げる。これは、どちらの問いへの答えなのだろう。普段はパイロットらしく、はっきりしないような答え方はしない南風だ。なぜか胸が騒ぐ。
少し迷ってから通話をタップしてみたが、しばらくすると切れてしまった。代わりにメッセージが現れる。
『すみません。電話でうまく言える気がしないです』
風信はじっと画面を見つめた。無機質な文字列なのに、見つめれば見つめるほど、その向こうで膝を抱えてぎゅっとスマホを握る南風が見える気がした。
なにがあったのかはわからない。だが、何かの瀬戸際にいるようなそんな気がして、風信は打ち込んだ文を見てしばらく考え込んだあと、小さく息を吐いて送信マークをタップした。
『うちに来るか?』
長い沈黙のあと返ってきた『いいでしょうか』という答えに、風信は立ち上がった。
二人とも空港の近くに住んでいることは知っているが、住所は知らない。部屋着からズボンだけ履き替えてコートを羽織り、指定した近くのコンビニに行くと、駐車場に佇む姿があった。
「南風」声をかけると顔が上がる。
「機長……。あの、すみません。こんな夜に」頭を下げる南風に、店内を指さす。
「すまんが今うちに飲み物も何もなくて。何か飲みたいものあるか?」
「いえ」南風は首を振る。
とりあえずインスタントコーヒーと紅茶を買って店を出る。歩く間は二人とも無言だった。
風信の家に着くと、南風はおずおずと中に入り、そっと部屋を見回した。
「ちょっと散らかってるが……」言いながらソファを指さす。南風は小声で「いえ」と言ったまま俯いて立っている。いつものように元気にまとわりついてくる様子は微塵もない。
「あの……本当に、すみません……。家にまで、来てしまって、すみません……」
風信は振り向いて、南風の顔を覗き込んだ。
「おい。もう謝るのはやめろ」
半ば強引にコートを脱がせてソファに座らせる。
「コーヒーと紅茶どちらがいい?」
逡巡したあと南風がぽつりと言う。「紅茶、で……お願いします」
頷いてキッチンに行き、湯をわかしてポットを用意する。カップとポットを持ってもどってきても南風は俯いたまま固まっていた。
南風は俯いたまま、「すみません……」と呟いた。その顔から完全に生気が失われているのを見て、風信はテーブルの隣に椅子を置いて座った。
「おい、だから謝るのはやめろ——機長の命令だ」
だが、南風の俯いた顔からまだ、すみませんとくり返す声がした。どうもそれは風信に向けられたものでないような気がして風信の眉間に皺が寄る。どう見ても様子がおかしい。風信は静かに尋ねた。
「明日はフライトか?」
南風はちらりと風信を見ると、恥じるように目を伏せて小さい声で答えた。
「フライトだったんですけど……その、休ませてもらうことに——」
「正しい判断だ」風信の断固とした声に、南風の顔が少し上がる。
「明日フライトだったら、休むよう言おうと思ってた。その精神状態で飛ぶのは無理だ」
「すみま……」南風が口をつぐみ、手に顔を埋める。
「南風、しっかり全部吐き出すまでは飛ばせられないぞ」
その途端、しゃくりあげる声とともに南風の肩が跳ねた。抑えようとしても止まらないかのように、一つ、もう一つと小さな嗚咽が追いかける。風信は立ち上がって南風の隣に座ると、その背にそっと手を添えた。その感覚を感じ取ったように、ぴくりと背が震える。
「我慢しなくていい」
風信が静かに言うと、コップの淵で耐えていた水が溢れるかのように、顔を覆っている南風の手と頬の間を涙が流れ落ちた。風信はテーブルのティッシュ箱を引き寄せ、一枚とって南風の手に触れる。南風がそっと少し手を離す。真っ赤に濡れた目と頬が現れる。申し訳なさそうに目を伏せたまま、南風はティッシュを受け取ってそっと目と顔を拭く。
「我慢しなくていい」
もう一度言うと、またみるみるうちに南風の目に涙が湧き上がった。だが、とめどなく涙を流す姿に、風信は心の底で少し安心する。結局のところ、思い切り泣くのが一番手っ取り早いことは、自分がよく知っていた。
パイロットはみな精神的にタフだが、それでも一人の人間なのだ。
南風はもう抑えることなく、何度もしゃくりあげた。風信は横に座ったまま、そっと待つ。
「風信機長……」
しばらくして、少し落ち着いてきた南風の口から小さな声が漏れた。
「僕は、パイロット、やめたほうがいいのかもしれません」
風信は否定する代わりに静かに言った。
「まずは一杯のめ」
紅茶を南風のカップに注いで差し出すと、南風は虚を突かれたような顔で受け取った。
立ち昇るアールグレイの湯気に引き寄せられるようにおずおずと一口飲むのを見て、風信は静かに尋ねた。
「なにがあった?」
しばらく沈黙が流れたあと、俯いたまま南風が小さな声で言った。
「今日のフライトで、行きの操縦を、任されたんですけど……一緒だった機長に、怒られて……」
「お前にしては珍しいな。何した」
南風がポツポツと説明するのに耳を傾ける。
「まあ、確かに手順としては正しくはないな。でもすぐに気づいたんだろ」
「はい」
静かに先を促すと南風は続けた。
「そのあと、ずっと怒られて」
だが、南風なら怒られたくらいでこれほど凹まないだろう——そう思ったところで風信は今日帰る前に見かけた姿を思い出した。最近は乗務の一線を退いて、もっぱら本社業務が多いと聞いているのに珍しい、と思ったから覚えている。
「ひょっとしてその機長って——」名前を言うと、南風は無言で頷いた。風信はああ、と腕組みして天井を仰ぐ。
機長が副操縦士の間違いを正したり、危険なことをすれば怒るのは当然だ。だが、あの機長の場合は、おそらくその程度ではない。
「罵声を浴びせられた、か?」
南風が顔を上げる。その目が頷く。風信はやれやれと髪をかき上げる。「あの機長は有名だからな」
フライトの間中、ずっとねちねちと言われ続けたのだろう。だが南風はまた目を伏せる。
「僕も噂は聞いてましたけど……でもやっぱりあんなに怒るのは、僕ができてないから——」
「俺もボロクソに言われたな」
南風の目が風信を見る。
「おめでとう。たぶんウチで彼より年下で優秀なパイロットはみんなやられてる」
だが、目を泳がせる南風の顔は晴れない。
「でも、そのあともちゃんと冷静になれなくて……」と南風の声が小さくなる。
ああ、と風信は軽く頭を抱える。
フライトの責任と判断を任される者として、ときに強権的な態度に出てしまいそうになるのは、機長になってみてわかった。でもだからといって、副操縦士を萎縮させても何も良いことはないのだ。事故にだって繋がりかねない。
「で、ずっと怒鳴られ続きか……」風信が唸るように言うと隣で南風が頷くのが見えた。行きのフライトからやられたなら相当堪えるはずだ。
「それで、その、帰りの着陸も任せるって、言われたんですけど」南風が途切れ途切れに言う。「もう、ちゃんと出来る気がしなくて、そう言ったら……」
ああ、それは完全に尻尾を踏んだなと風信は眉間を揉んだ。南風が鼻をすする。
「自信のないクズに、パイロットの資格はないと……」
思い出したのか南風の肩が強張る。
「それで、言われたんです」南風の声が震える。
「お前みたいな奴がパイロットになったせいで夢を諦めた何千人もの奴らに恥ずかしくないのかって」
瞬きした南風の目から零れ落ちた大粒の涙が、彼のズボンに染みを作った。
風信も思わず目を瞑る。その言葉にどれだけ心を打ち砕かれるかはよくわかる。
「……俺のときは、何百人、だった気がするけどな」
風信の言葉に、えっと南風が思わず横を見る。
「ずいぶん数が増えたな」と鼻を鳴らす。
「だがな、南風」すっかり色を失っている南風の目を見つめる。
「あの機長はそれなりに優秀じゃないと副操縦士に操縦桿を握らせない。行きと、帰りの着陸も任せたなんて初耳だぞ」
まあ、その分南風のダメージも大きかったわけだが、と心の中で舌打ちする。南風はまた、雨に打たれた花のように頭を垂れた。
「でも、あの機長は正しいのかもしれません。動揺して簡単に崩れるようじゃパイロットとして失格ですから。そうでしょう?」
冷めきったエンジンのように熱をなくした南風の瞳が、なにかを諦めたように膝を見つめていた。
「僕なんかがパイロットになって——」すみません、と消え入りそうな声が言った。
何かが風信の中でカチリと音を立てた。
こんなことで、彼の翼を折られてたまるか。
「よく聞くんだ、南風」
本当はその顔を両手で挟んでこちらに向けさせたかったが、ぐっと堪える。
「その機長が正しいのは、操縦のことだけだ。確かにお前に指摘した内容は正しい。だが、その言い方は正しくない。怒り続けて無駄に萎縮させるのも正しくない。そしてお前をそんな言葉で否定するのも正しくない」
思わず早口になり、息を整える。
「でも理不尽な怒声にも耐えて安全に操縦したお前は正しい。無理だと思ったら正直に操縦桿を預ける判断ができるお前も正しい。そして——」
南風の唇がひくひくと震え、目の淵が潤む。
「——パイロットとして積み上げてきた自分を否定されて、悔しくて悲しいと思えるお前は正しい」
そこで感情が湧いてこないなら、それこそ夢を諦めた者たちへの裏切りだ。
ゆっくりと回りだしたエンジンのように南風の頬に赤みが宿り、みるみるうちに潤む瞳からその頬を涙が流れ落ちる。
「南風」
風信の強い声に、南風が手の甲で顔を拭い、横を見た。潤み切った瞳を風信は視線でがしりと掴む。
「昔、言われたことがある——俺は空に愛されていると。どうしようもなく空に愛されている、空に呼ばれてパイロットになったとしか思えないような奴が、百年に一人くらいいるんだと、彼はそう言ったんだ」
心無い罵倒の言葉なんてもうよく覚えていないが、あの時の言葉と心が震えるほど嬉しかった気持ちは決して忘れない。
「南風、俺は、お前にも同じものを感じる」
目と鼻を拭っていた南風の手が止まる。
「お前も、空に愛されている。俺にはわかる」
自分が愛しているものから愛されるのは、なんと稀有で幸せなことだろう。
「だから、簡単に諦めるな。お前が過ちを犯さない限りは、誰もお前が飛ぶのをやめさせる権利はない」
まあ、空は俺たちを愛しているからってちっとも甘くはないけどな、と風信が笑うと、ほんの一瞬南風の口の端も小さく上がる。
風信はそっと腕を伸ばし、ゆっくりと南風の背へ回す。南風も導かれるようにその腕の中へ身を預け、しゃくりあげながら、その顎を風信の肩にそっとのせる。風信はしっかりとそのすべてを受け止めた。
小さく欠伸をしながらそっと横を見る。
泣き疲れたのだろう。ソファに置いた風信の腕に頭を預けて南風は静かな寝息をたてている。
安堵の気持ちが風信の顔をほころばせる。しっかり泣いて、悲しさも悔しさも全部洗い流しただろうか。頬に残る涙の跡をそっと親指でなぞる。
だが、その姿を見ながら風信は自分の心に問いかけていた。
自分は他人に関心が薄い人間だと思っていた。薄情な素振りを隠そうとしない慕情と違って、風信は誰とでもそつなく付き合えるから周りにはあまりそう思われていないが、実のところ、誰かと心を寄り添わせるのは苦手だった。むしろ、慕情のほうが実は風信より情に厚いかもしれない。
それなのに——さっき突然胸に宿った炎のような感情はなんだったのだろう。
この腕の中の存在が、揚力を失った飛行機のように落ちてきたら、その時は自分が受け止めたい——何度だって。
自分の胸に浮かぶその初めての感情の正体を考えながら、風信も眠りに落ちていった。