自分はだいぶ疲れているのだろうか。
オフィスの部屋に入ったところで、風信の脚が止まった。気配に気づいたかのように、視線の先に立っている背中が振り返る。
「あ、やっぱり、風信機長。足音が聞こえた気がしたんです」
風信は眉を寄せた。
「南風、いったい何をふざけてる」
嬉しそうな南風の顔が、風信の厳しい表情を見て曇る。
「えっ……と、フライト用のデータを待っているんですけど」
風信は南風の頭、厳密に言えばその頭の上を凝視していた。
いつもの南風の黒髪は、少しばかり跳ねていて、そしてその上に──
立派なウサギの耳がついていた。
仮装用か何かだろうか。だが、パイロットの制服に身を包み、このオフィスに入ったら、ふざけた真似は許されない。
「いや。お前のその頭の……」
思わず風信は言い淀む。片方の耳がわずかに外にくるりと動いたのが見えたのだ。見た目も仮装グッズにしてはリアルだ。
「頭、何か変ですか?」
風信は首を少しかがめ、小声で言った。
「頭の上に、その……ウサギの耳が」
「う、ウサギの耳?!」
南風の声に、数人がこちらを見る。だが彼らも何も気づいた様子はない。
「そうだ。……ひょっとしてお前、気づいてないのか?」
南風が頭に手をやる。だが、ぴょんと立った立派な耳の根本を触れているのに、なにも感じないらしい。
「な、なにも……ないですけど」
どういうことだ。
風信は目を瞑って眉間を揉んだ。だが目を開けると、やはり目の前の南風の頭の上では長い耳が揺れている。
「あのぅ、えっと、つまり、風信機長には、僕の頭の上にウサギの耳が見えている、と、そういうことで合ってますか」
南風が困惑気味に尋ねる。
「……そうだ」渋々認めるほかない。
だが南風の顔は、困惑から次第に面白そうな顔に変わっていった。さすが、少々のことでは動じないパイロットらしい──もっともこれが「少々」かどうかは疑わしいが。
「なるほど、それで聞こえたのか」と南風が言う。
「機長、一時間くらい前に『最近、長時間のフライトは腰にくる』って言っておられませんでした?」
「それは、そんなことを言ったような……」
駐車場で同僚とそんな話をした記憶はある。
「その時、僕、休憩室にいたんですよね」
「えっ……」風信は思わず絶句した。休憩室と駐車場は大きな社屋の端と端くらい離れている。
「でも……僕もちょっと見てみたいかも」
南風の頭上で踊るように長い耳がひくひくと動く。
風信はスマホをポケットから出し、写真を撮って南風に見せた。だが南風は残念そうに首を傾げた。
「見えないですね」
風信の目にはウサギの耳をつけた南風が画面に映っている。いったいどうなっているのだ。
「あのぅ、僕、似合ってます?」
南風がおずおずと聞く。
「ああ」迷いなく答える。なぜかその耳はあまりにも自然に南風に馴染んでいたからだ。
ぬいぐるみのような茶色の耳が、風信の言葉に反応するようにぴくぴくと動く様はあまりにも──可愛い。
ふわふわとしたそれを見ているうちに、風信の中に抑えようのない欲求が迫り上がってくる。
──触りたい。あの耳に。
咳払いすると風信は声を落として言った。
「その……触ってもいいか?」
南風の丸い目がくりっと風信の方に向くのと同時に耳も動く。
「ええ、触ってください機長」
そっと南風の頭の上に手を伸ばす。
風信の指が、その耳が確かにそこにあることを感じとった。ちょっと硬めの毛の、滑らかな毛並み。本物のラビットファーだ。
「どうですか?」南風の声が聞く。
「気持ちいいな」
「僕も、見えないのになんか気持ちいいです」
「そうか? お前にずっとこうしていたいくらいだ」
風信が笑みを浮かべると、目が合ったとたん、南風の頬がわずかに色を帯びたのと同時に、手の中の耳がぴくりと震えた。
──面白い。
どうやらこの耳は随分正直なようだ。
風信は、そのウサギの耳の薄っすら桃色をした内側に口を寄せて囁いた。
「かわいいぞ、南風」
大きなウサギの耳が、びくんと跳ねた。風信はなだめるようにそれを優しく撫でた。
だが数日後、南風を見たときにはもう、いつも通りの姿に戻っていた。あの時撮った写真にも、はにかんだ顔の南風が写っているだけだ。
疲れによる幻だったのだろうか。だが、指はあの毛並みの感触を覚えている。
会社の屋上デッキでぼんやりしていると、突然声が聞こえた。
「今日の空は最高でしたね、キャプテン」
南風の声だ。だが振り返っても南風の姿はない。それに、聞こえる声はどことなくくぐもっていて、電話ごしに聞こえる背後の音のようだ。
もたれた柵越しに下を見る。だが下に見えるのは駐機した南陽航空の機体だけ。
──待て。風信は身を乗り出してそちらを見た。
機体のコックピットの窓の向こうで、降りる準備をしている人影が見える。その片方が、南風に見えたような気がした。
だが、機体は何十メートルも離れている。第一、向こうは機内だ。大声で叫んだって聞こえない。
──普通なら。人間の耳なら。
風信は愕然としながら体を起こした。
まさか、そんな訳は──。
だが気がつくと、手は頭の上をさぐりながら、脚は無意識に南風が戻ってくるであろうオフィスのほうへ向かっていた。