天井からぶら下がっている枯れた花はドライフラワーというらしい。店に一歩入った瞬間に、風信は一人で来なくてよかったとひっそり安堵した。
キャビンクルーたちが、ケーキが絶品だと話しているのを聞いてから気になっていた店。だが、こじゃれたカフェは一人だと気後れするような雰囲気なこともある。そうして頼ったのは結局――
『付き合ってやらんでもないが』
肩を竦める絵文字付きで返ってきた返信からいくらかの応酬を経て、いまこうしてテーブルに向き合っているというわけだ。
「まったく、南風でも誘えばいいのに」
まんざらでもない表情をしておきながら、呆れたような声音で言う慕情が眉を上げる。
「南風もあんまり付き合わされるのは嫌だろ」
「私なら気にしないのか」
「お前だって興味あったんだろ」
風信が言うと慕情は腕を組んでそっぽを向く。温かみのある板壁に灯る薄暗めの照明でもはっきりとわかるほど長い睫毛。
「お前に誘われたら尻尾ふってついてくるだろ」
慕情が言う。確かに風信が声をかけると嬉しそうな顔をするし、それを見るのが好きだ。だがだからこそ、しつこく誘い過ぎて嫌がられてしまうのが恐いのかもしれない。そう言うと慕情が笑う。
「お前はほんとにあの副操縦士が気に入ってるな」
「まあな。あいつは本当にすごい。パイロットとして見てるだけでも惚れ惚れする」
慕情が何か言いたげな視線を投げるが、何も言わずにフンと笑う。
「この間なんか、横風が規定ぎりぎりで、俺が代わろうかかなり迷ったんだが、うまいこと風を逃がしながら綺麗に着けて思わず舌を巻いたね」
へぇと慕情が気のない返事を返す。
「うちの扶揺ほどじゃないがな。あいつは横風着陸くらいもう何度もこなしてるから、こっちが不安になることもない」
「そこは不安になるのが機長の務めだろ。どんなに優秀な副操縦士でも」
風信が言うと慕情の眉間がぴくりと震える。
「おいおい、南陽航空の奴に安全を説かれたくないんだが。この間も南陽航空機が燃料不足で着陸の優先権を要請したせいで、こっちの着陸が遅れた。まったくお前のとこは計算すらできんのか」
「あれは、天気が予想外に荒れて急遽到着地を変えないといけなかったからだろ」
二人の目が挑むように見つめ合う。
「ま、そんなことはどうでもいい。俺が言いたいのは、南風はどこの航空会社の副操縦士にも負けないくらい優秀だってことだ」
「扶揺は例外にしてもらうぞ。あいつは『負けないくらい』じゃなくって、負けないからな」
二人とも一歩も譲らず、しばらく互いの副操縦士自慢が続く。いつの間にか、彼らがどんなに可愛いかに話が逸れていったところで、風信のケーキが運ばれていた。
焦げ茶のスポンジの上に白いムース、そしてその上にはオレンジのゼリー。大きさも申し分ない。
皿に置かれた小さな入れ物を指先でつまみ、濃いオレンジ色のどろりとしたソースをたっぷり上にかける。
「なんか、なにかを思い出すな……」
肘をついてみつめながら呟く慕情を無視して風信がフォークをケーキに置いたところで「ああ、わかった」と慕情が言った。
「ウチで昔飼ってた猫がテーブルで吐きまくったことがあったんだが、あのときの光景だな」
フォークを持った風信の手が止まる。
「おまえ……ひとが今から食べようってときに……!」
フォークを慕情に突きつける。「クソッ、ほんとに腹が立つ奴だな!」
慕情の顔が面白そうに笑う。
「本当にお前はひとの言うことに影響されやすい奴だな。いらんのなら私がもらうぞ」
慕情がさっとフォークを持った手を伸ばし、次の瞬間にはケーキの端が大きく抉り取られていた。
「あっ……!」「おお、美味しいな」
抗議しようと風信が口を開けたタイミングで、店員が慕情のケーキを持ってきた。こちらは大きなチェリーパイだ。慕情がフォークを入れると、どろりとダークレッドの汁が流れ出る。
「ふん、そっちは血みだいだな」
風信が口をゆがめて笑うと慕情はパクリと口にいれながら澄ました顔で言った。
「最近、鉄分不足気味だからちょうどいい」
「……」
「どうした。私は人の言葉になんか左右されない」
やり場のない敗北感と苛立ちに、風信はぐっとフォークを握り――
「そっちのも食わせろ」
ぐさりと慕情のパイから大きなチェリーの塊とパイを奪い取る。慕情は一瞬凝視したあと、呆れたように肩をすくめ、そして言った。
「そういえばこの間扶揺が言ってたが、お前と南風、もうやったんだってな」
突然投げ込まれたその言葉に、風信はあやうくチェリーを喉に詰まらせそうになった。
「は?!」
「南風が言ったらしいが? 心当たりないのか?」
「いいや、何も…ない、と……思うが……」
慕情はふぅんと口の中で舌を回す。
「お前たち、もう付き合ってるんじゃないのか」
「いや、別にそんなんじゃ……」
風信は水をごくりと飲むと言った。
「そういうお前たちこそ、相思相愛じゃないか」
「まあな。でも付き合ってるってわけじゃない」
ケーキを口に運びながら風信は考えた。
「付き合ってる、ってどういうのを言うんだ?」
確かに南風のことはつい気にしてしまうが――
「……俺たち、付き合ってるのか……?」
風信が言うと、慕情はぎょっとしたように顔を上げた。
「は? 何を言ってるんだ?」
「いや、お前が言い出したんだろ」
だがここで慕情を言い合っても不毛だ。風信は目の前の甘味に全神経を傾けることにした。
その夜ベッドに横になりながら、はたと気づいた。
慕情はひょっとして――俺と慕情が付き合ってる、という意味に思ったのか?
ガバッと体を起こす。だが携帯を手に取ってから思い直した。何を言っても逆に誤解されそうで面倒だ。それに、眠れないのはそのせいじゃない。
確かに自分は他人の言葉に影響されやすいのかもしれない。しばし考えたあと、耳に携帯をあてる。
『風信機長、こんばんは、どうかしましたか?』
数コールで繋がったその声に、他の事などどうでも良くなる。抑えきれない笑みが浮かぶ。
「いや。なんか声が聞きたくなっただけだ」