朝、窓を開けた扶揺は小さく息をのんだ。
見慣れた窓の外の景色が、どこも真っ白く覆われている。雪が積もるかもしれないという天気予報は当たったらしい。この暖かい地では珍しい雪景色は、いつもなら淡泊な扶揺の心すら躍らせる。だが、今日はそんな景色すら、心の重しを軽くしてはくれなかった。
冷気に肩をすくめ、窓を閉める。もう一度ベッドに潜り込んだところで、枕の脇に置いたスマホにメッセージの通知が表示される。南風だ。
『雪、すごいな。欠航だし午後休みとっちゃった。お前は?』
欠航になったからって休むか? と白目をむく。扶揺は今日は元から休みだ。そう返すとすぐに返信が返ってくる。
『じゃ、午後にお前のとこ遊びにいく。なんか食べたいものとかあるか?』
別に、とそっけなく返す。だいたいなんでウチに来るんだ。だが、何故かはすぐわかった。
要するに、雪の上を歩きたいだけだ。雪にすぐ有頂天になる南風が、そのためなら駅から遠い扶揺の家まで来たがることくらい三秒で想像できる。まあ、何か温かい食べ物でも買ってくれば、一緒に食べてやらないでもない。
昼過ぎに玄関のインターホンが鳴った。
「よお、扶揺。すごいな、雪」
興奮した笑顔で入ってきた南風の鼻は真っ赤だ。
「それは?」
南風の手にはなにやら沢山入ってそうなビニール袋が握られている。南風はニヤッと笑った。
「アイスクリーム」
「はあ??」
思わず扶揺ののどから大きな声が出る。
「お前、この寒いのになんでアイス買ってくるんだよ馬鹿か?」
「なんでって、こんだけ寒かったら、お前の家まではるばる歩いてきても溶けないだろ?」
自分の名案に得意げな南風を睨む。
「だからいっぱい買ってきた。食べ比べしようぜ」
「まさかそれ全部アイス……」「もちろん」
今度こそ思い切り目をむく。それを見て南風がふふんと笑う。
「お前も素人だな。いいか、冬の寒い日に、暖房をガンガンつけた暖かい部屋でアイスを食べる、それこそが真の贅沢というやつだ」
「ここは誰の家で、暖房費は誰が払うと思ってる」
南風は扶揺を無視して、部屋の中に入ってくる。
「暖かいとこ……ベッドの上とかでいいか?」
なぜお前が決める。というかベッドの上でものを食べるのなんて嫌だ、そう言うと南風が口を尖らせる。
「だって窓際にあるし、窓から雪を見ながらベッドの中でぬくぬくアイス食べるなんて最高じゃん」
扶揺はふんと目を逸らす。滅多にない雪の日だ。確かに楽しいかもしれないが、こいつとベッドでアイスクリームなんか食べたら、こぼしたりするに決まっている。綺麗好きの扶揺には我慢ならない。だが今日はそんなことも、もうどうでもいい気分だった。なげやりな溜息をつくと、南風は嬉しそうにベッドに上がり、胡坐をかいて座った。
「お前もはやく」
何度も言うが、これは扶揺のベッドだ。だがこうやって浮ついた様子の南風に、そんなことを言っても無駄なことは承知している。
扶揺が隣に座ると南風は勝手に布団を手繰り寄せて二人の脚にかけ、その上に袋から取り出したアイスクリームを並べだした。各種さまざまに取り揃えてきたらしい。確かに一人でこれだけ買うことはないから、なかなか壮観ではある。
「だけど、これ全部だしておいたら溶けるよな」
南風が悩ましげに言う。扶揺は窓を顎でしゃくった。南風が窓を開ける。窓の外には、植木鉢くらいは置ける程度の張り出しがついている。そこにもこんもりと雪が積もっていた。
「そこに置いておけばいい」と扶揺が言うと、南風も頷き、手をすり合わせた。
「さあ、どれからいく?」
扶揺はぐるりと見回したあと、ソフトクリームを取った。
「なんだ、地味だな」そう言いながら南風も同じのを取る。
「お前こそ素人だな、こういうシンプルなのこそ、わかる者にだけ美味しさがわかるんだ」
そう言ってやると南風は小さく肩をすくめ、他のを袋に戻した。袋を外に置いて窓を閉める。
ソフトクリームのカバーを外し、ペロリとなめる。昼ごはんも食べていなかったからかもしれないが、結構美味しい。だが、ふと視線を感じて横を見た。
「お前、なんかさ」南風が扶揺を見つめていた。
「舌、ちっちゃくてかわいいな」
「はあ?!」思わず手からアイスが滑り落ちそうになり握り直す。「どこ見てるんだよ!」
「別にいいじゃん、褒めてるんだし」「そんな褒め言葉はいらん!」扶揺が吠えるのをよそに、南風は垂れてきたアイスクリームを盛大に舌で舐めとる。たしかに扶揺より太くて大きいかもしれない。だが、こんな犬みたいなやつと舌の大きさを比べて何になる。
「次、これどう?」
一足先に食べ終え、窓の外をごそごそやっていた南風が大きな四角い袋を振る。クッキーでアイスクリームを挟んだやつだ。
「半分にしないか?」扶揺がうなずくと南風はびりっと袋を開け、中から大きなアイスを取り出した。真ん中のあたりにすこし溝が入っている。そこに指をあてた南風に扶揺は訝し気に尋ねた。
「お前、綺麗に割れるのか?」
「任せろって。俺だってパイロットだぞ。手元の微妙な操作はお手のもの——」そう言いながらバキっと割った南風の指の間で、アイスは見事に溝を無視した場所で割れた。
「……お前の飛行機乗るの恐いな」扶揺が言うと、南風は「ま、操縦は全然違うしな」と華麗に前言を翻しながら半分を扶揺に差し出した。少しだけ大きい方だったが、気づかないふりをして受け取る。礼を言うのも気恥ずかしかった。
「しかしこれ、明日のフライトは大丈夫かなあ」
自分がパイロットだったことを思い出したように、窓の外を見ながら南風が言う。
「明日には飛べるように整備するだろ」
「お前は明日フライトか?」南風の質問に扶揺の口が一瞬止まる。「いや」
「明日もオフ? いいなあ。じゃ明後日はどこ?」
もぐもぐ食べながら聞く南風に、扶揺はじっと手の中のアイスを見つめながら呟いた。
「明後日も、明々後日も、その次も、フライトはない」
南風の動きが止まる。
「……どういうことだよ」
扶揺はがぶりと手の中のアイスに齧り付く。南風の視線を感じながらゆっくり飲み込む。
「一週間の謹慎処分」
扶揺はそう言うと、膝をかかえて唇を噛んだ。
「え、なんで……。お前、何し——」
「なにもしてない!」思わず大きな声で返す。
「……なにがあったんだ?」南風が小さな声で質問を変えた。無言で手の中のアイスを全部食べてから扶揺は口を開いた。
「何日か前、乗務する飛行機の搭乗口に行ったら、ラウンジの入口で酔っぱらって職員に絡んでる奴がいて、あんまりしつこくやってるから、ちょっと注意してやろうと」
「ああ、いるよなそういうの」南風も顔を顰める。「で、お前のお得意のねちっとした嫌味でも言ってやったのか?」朗らかな調子で南風が言う。
「まあ、そんなところだけど」
「でもそれくらいで謹慎にはならないだろ?」南風が遠慮なくつっこむ。
「注意したら襟を掴まれて、胸のウィングマークをむしられそうになったから、頭にきて——」
「手をあげたのか?」
「あげ……たけど下ろしてない!」扶揺が吠えると南風は、あげちゃったかぁと上を見る。
「そこで機長が来て、おさえられたんだよ!」
なるほど、機長はそこしか見てなかったのか、と南風が溜息をつく。
「お前もよくよくツイてないよな」
「金持ちってのは、なんだってあんなに傍若無人なんだ?」
もちろん皆がそうではないが、しかし裕福な育ちでもない扶揺にとって、金を持ってるからと横柄な態度に出る者は我慢がならなかった。
だが、そういう奴に立ち向かっても、損をするのは自分なのだ。
「なんでいつもこうなるんだよ」
口から漏れた声が思いのほか湿っていることに気づき、腕に口元を埋める。と、その腕に何か冷たいものが当たった。目を横に動かす。
「食えよ。全部お前一人で食っていいぞ」
南風が大型のカップアイスとスプーンを差し出していた。扶揺が受け取って、やっと握れるほどの大きな容器を見つめていると、南風がふっと笑った。
「お前、海外の映画とか見ないの?」「え?」
「ほら、よくあるじゃん。傷心の主人公が夜中に台所でおっきなカップのアイスにスプーンつっこんで食べるシーン」
なんだよそれ、と思いながらも手の中のアイスの蓋を開ける。中からピンクと白が混じったアイスが顔を出す。言われたとおり、スプーンをぐっと入れて口に運ぶ。苺味のようだ。一口、もう一口とスプーンを入れるが、なかなか減りそうにない。口に広がる甘さ。鼻がジンとするのは冷たさのせいだろうか。
「でもお前が思わず手を出すなんて珍しいな。いつも口だけだと思ってた」
「手を出したのは初めてだ」
「相当やばい奴じゃん。俺だったらぼこぼこにしてたかも」フライト前に客をぼこぼこにしたら下手したらパイロットライセンスの危機かもしれないなと南風が勝手に身を振るわせる。
「まあでも——」さすがに口が冷えてきて手を止める。「慕情機長が口添えしてくれて、表向きは謹慎がつかないように計らってもらえた」
安全を守る要員として、客であっても社員や他の乗客に危害を与えうるような者に断固とした態度をとった扶揺は正しい、そう言って上に抗議してくれたらしい。結局、会社的には有給消化という形に収めてもらえた——そこまで言ったところで、扶揺の視界の端からにゅっと手が伸びてきた。
「一口食べさせろ」南風が扶揺の手の中のアイスクリームのカップにスプーンを突っ込む。
「くれるんじゃなかったのかよ」
「慕情機長に守ってもらえたなんてラッキーじゃん」
同情して損したといわんばかりの南風に、思わず小さな笑いが漏れる。自分もこのくらい単純に物事を考えられればいいのに。そう言ったら喧嘩になるだろうから言わないが。
慕情機長が自分を守ってくれた——確かに他人からそう言われると、くすぐったいような気持ちになる。
一口と言っておきながら何度もスプーンを伸ばしてくる南風に負けじともう一口すくって口に入れると、岩のごとく鎮座していた心の重しが、口の中のアイスクリームのように溶けていくような気がした。口に広がる苺アイスが、これまでのどんな食べ物よりも絶品のように思えてくる。
一週間、一人でこの部屋で腐っていたらどうなっていただろうと身震いする。
「おい、食べすぎたか?」横で南風が笑う。
「違う……お前のほうが食べてるんじゃないか?」そう言ってから、扶揺は「おい、南風」と続けた。
「お前、2月14日までにロンドンへ飛ぶ予定は?」
「えーっと……あ、来週かな。なんでだ?」
「お前にいいこと教えてやるよ」
「ん?」
「この間、慕情機長から、風信機長がいま欲しがってるもの聞いちゃったんだよね。ロンドンでしか買えないらしい」
「え、ほんとか? 教えろよ」
わかりやすく顔を輝かせる南風に、扶揺も、雪に反射する太陽のようにきらりと得意げな笑みを返した。