雪原のような白。ぼんやりとした境界線の上に広がる薄青の空。
毎日のように見ているその光景だが、今日はコックピットの窓の外に広がるパノラマではなく、小さな窓に切り取られている。南風が今日座っているのは飛行機の操縦席ではなく、客席だ。
客として搭乗することは珍しくはない。移動であったりプライベートであったり。
だが今日は少し違う。
雲を抜けて少し揺れたが、今は止まっているのかと思うほど安定している。だがたとえ悲鳴が聞こえるほど揺れたとしたって、不安は微塵もないだろう。なぜなら──
アナウンスが聞こえ、南風は顔を上げる。
『……本日の機長は風信──』
南風の顔に笑みが広がる。
久々にちょっと旅行に行きたかった。だがこれといって行きたい所がない──そのとき、ふと思いついたのだ。
そうだ、風信機長の便に乗ろう。
機長のフライトスケジュールを確認し、その行き先の中から自分の行き先を選んだというわけだ。
通りかかったフライトアテンダントにこっそり確認すると、このフライトの操縦は風信機長だという。こんな時に限って副操縦士に任せていたらちょっと残念だと思ったが、大丈夫らしい。
そろそろ左旋回の通過ポイントらしく、窓の外の白と青の境界線がゆっくり上下する。その機体の傾きにすら優しさを感じる。別に特別な操縦技術ではないのだが。
今自分たちは一緒に空を飛んでいる。操縦席と南風の席は何メートルも離れているが、見えないからこそ、先頭で操縦桿を握っている姿を想像してしまうのだ。
風信機長が客として自分を乗せて飛んでくれている。そんなことを考えて心を踊らせずにはいられない。
気流の乱れもないらしく安定した機内で、ゆったりと背もたれに背を預ける。
気象状況の良い日でよかった。もしも荒れる日だったら、操縦席の機長と副操縦士のことを思うと、こんなにゆったりなどできなかっただろう。
少しエンジンの出力を上げたらしい。腰に伝わる振動の一つ一つが、風信機長の手から生み出されたものかと思うと、抑えようもなく胸が高鳴ってしまう。
だがそんな一つ一つを愉しんでいるうちに、早くも機体は徐々に高度を下げ始めた。
近距離の国内線。すぐにフライトが終わってしまうのを、これほど残念に思ったことはなかった。
夜、ホテルで体を伸ばしていると風信機長から電話がかかってきた。
「こんばんは」いささか緊張した声で答える。自分が乗っていることに機長は気づいただろうか。
『今日、乗ってただろ』
やっぱり気づかれてしまったらしい。
『快適なフライトだったか?』
「はい、もちろん!」即答する。お世辞でもなく、まるでクリームがたっぷり入ったシュークリームの上に乗っているように心地よかった。操縦席の隣にいても感じるそれは、客席でも全く同じだった。そう言うと、それはよかったと電話の向こうで安堵している声が聞こえる。風信機長なら心配する必要などないのに。
『ここだけの話だが』
南風は首をかしげる。なんだろう。
『お前が後ろに乗っていると思うと、いつものフライトと違う気がした』
その言葉に南風の胸が跳ねる。自分も同じだと言うと風信機長が、そうか、と微笑む声が聞こえた。
『俺の便だと知ってて取ったのか?』
「……い、いえ!」
風信機長が電話の向こうでクスリと笑う。
『南風、お前は嘘が下手だな』
「そ、そうですか? まあ、よく言われますけど」
『いいんじゃないか? パイロットには全く必要ない能力だし』
風信機長の笑う声に南風も苦笑いする。
『もう一つ、もっとここだけの話なんだが……』
躊躇うような無言に、南風が「どうしました?」と促すと、一つ咳払いをする音がして、風信機長が声を落として続けた。
『今日は気象条件も良好だし副操縦士に任せてみようかとも思ったんだが、その……なんか予感がして調べたらお前が乗っていたから……』
電話の向こうで目を落として言い淀んでいるのが見えるようだった。
『彼から操縦桿をとってしまったな』
小さな声が言う。
パイロットとしての業務中は私情を挟むことなど決してしない機長が。
風信機長も、自分を乗せて飛びたかったんだ。
仲間の副操縦士に悪いと思いながらも、それを知って胸に込み上げるものが抑えられなかった。
「ここだけの話ですけど——すごく、嬉しいです」
電話の向こうでほっとしたように息をつくのが微かに聞こえた。
『ここだけの秘密だぞ』「はい、もちろん」
『まあ、帰りの便を任せるか』「それでいいんじゃないでしょうか」
ホテルの別の部屋で、彼は今頃クシャミをしているかもしれない。
『明日は観光か?』
「そうですね……でもどこに行くか考えてなくて」
そう言ってから、これでは機長の便に乗ることが目的だったということがバレバレだと気づくが、今更だと開き直る。
「一日ぶらぶらして夕方の便で帰ろうかと」
『そうか……そういえば前に見つけた美味しい店があったな。よかったら後で送っておくが』
「ほんとですか? ありがとうございます!」
『一緒に行けたらよかったんだがな』
さらっと返ってきたそんなセリフに南風の顔が赤くなる。電話でよかった。
「また今度……一緒に」と返すのがやっとだった。
今日は明日のフライトの確認もしなくて良いから、ゆっくり風呂に入って早く寝ようかと思っていたが、いつの間にか時計はそろそろ日付が変わるころになっていた。
同じ街の違うホテルにいる風信機長に思いを馳せる。知らない街でのこの距離感は、考えてみれば稀だ——ちょうど操縦席と客席のように。そんなことを思うと、どっちにしても今晩はなかなか寝付けそうになかった。