飛行機の自分の座席に腰をおろした南風は、早々にアイマスクをしてシートに身を埋めた。
残念ながら今日の便のパイロットは風信機長ではない。機長は今日の午前のフライトで戻っている。
一日、街をぶらぶらして、風信機長のオススメの店で美味しいジェラートを堪能し、久々に気分転換が出来たが、明日はまた朝から操縦席だ。今のうちに出来るだけ体を休めたかった。
誰かが隣のシートに座る気配がした。昨日確認した時はまだ空席だったはずだ。平日のすいている機内、わざわざ隣に人がいる席に直前で滑り込んでくるなど、面倒な客に違いないと寝たふりを決め込む。
安全のビデオが始まったのが聞こえ、そしてゆっくり飛行機が動き出すのを感じる。
「安全のビデオは見ないのですか?」
突然耳元で声がした。やれやれ、放っておいてくれと思いながらも、相手はお客様だ。無視もできない。だがこの声の響き──。南風は左隣に首を向けてゆっくりアイマスクを持ち上げた。
「………………!?」
驚きすぎると声も出ないものだ。
目の前に突然現れた顔に心臓が止まりそうになる。いや、少し止まったかもしれない。
「ふ…ぉ……風信機長⁈」
ぱくぱくしていた口からやっとかすれ声が出る。
「午前便で戻られたんじゃ……⁈」
南風が囁くと、南風の方に身を乗り出したまま風信機長はニマっと笑った。
「それが急にスケジュールが変わってな。明日朝から別便で向こうから飛ぶことになったから、今日は一日こっちで休養して、この便で戻ることになったんだ」
「……そうなんですか」
周りに遠慮して大声で話せないからだろう。さっきからずっと、くっつきそうなほどの距離にいかにも楽しそうな笑顔がある。
それなら言ってくれれば、と一瞬よぎったのを見透かしたように風信機長が髪をかきあげながら言う。
「せっかくのオフに急に邪魔するのも悪いかと思って言わなかった。まあ、俺もホテルのジムでちょっと体動かしてあとは寝てたし」
いつのまにかビデオは終わり、飛行機がエンジンをかけ始めた。風信機長も南風の方にずらしていた体を自分のシートに戻す。振動とともに加速した機体は、ふわりと浮き上がる。
ちらりと隣の横顔を盗み見る。
隣の客席シートに風信機長がいる。なんとも不思議な感じがした。
右側の窓の外を見る。
安定飛行に入った飛行機の窓からは、青い上空とオレンジ色の夕日の見事なグラデーションが見える。いつもは操縦席の窓いっぱいに広がるその光景が、今日は翼に邪魔されている。その代わり、今日はサングラス越しじゃない。そうやって見る夕空は、やっぱり綺麗だった。
「綺麗ですね」
南風がそう言うと風信機長が肘掛けを上げ、ぐっと南風の方に身を乗り出した。
南風の肩と腕に、優しく押し付けられる風信機長の温もり。それは南風を押しやるほど強引ではなく、それでいて、軽く触れただけというほど遠慮がちでもない。南風の頬が夕日色に染まる。
「こうやって見る空も綺麗だな」
耳元で風信機長の声が聞こえる。
隣を見たい。でも首を回す勇気が出ず、ひたすら小窓の外を見つめる。
空は綺麗だが、気流は少し乱れているらしく、機体がたまに左右に揺れる。翼の装置が忙しく動いている。
機体の揺れに身を任せてそっと首を左に傾けると、頬が、硬い風信機長の肩にあたる。
飛行機の揺れのせいだといえば許されるだろか。
目は窓の外に向けたまま、頬をそっとその肩に預ける。
すると、トンと頭に重みがもたれかかるのを感じた。自分にもたれ返すその顔がどんな表情をしているのか見たくてしょうがなかったが、首を回したら離してしまうかもしれない。その重みの持ち主は、こと、こういう時には魚のようにすっと身を引いてしまうのだ。でも、見なくてもその顔はきっと暖かい表情を湛えているのだとわかっていた。
ベルトサインは消える気配がない。
──ずっと消えないでいて欲しかった。
誰も席から立ち上がらなければ、こうやって二人だけの空間に身を浸していられるのだから。
初めて、乱気流が続いてほしいと願っている自分がいた。