いったいどうすればいいんだ。
ホテルを出たところで風信は深いため息をついた。その肩には、可愛いコーパイの重みがずっしりと乗っている。
完全にもらい事故という状況に巻き込まれた風信をよそに、事故を起こした本人は、酔いがまわって気持ちよく寝落ちた。なんとか完全に寝てしまってはいないらしく、お開きになって会場を後にする時には、風信が肩を貸せば一応自分の足で歩いてはくれたが、一人で電車で帰るのは到底無理だろう。タクシーに突っ込もうかと思ったが、ホテル前のタクシーの列は長く、上司の面々が済むまでにまだ随分かかりそうだった。
まあそれでも待つほかないか、と歩き出したところで、肩から声がした。「きちょう……」
「なんだ」
「……せきらーうんが……ぜんぽうに」
積乱雲のことだと気づいて耳をすますと、確かに遠くでゴロゴロと不穏な音がする。おそらく三十分もたない。この状態で雨は勘弁してほしい。
意識がはっきりしてきたのかと風信は支えている南風の顔を見たが、その目は依然として閉じられている。「ある意味すごいなお前」
静かな寝息が返ってくる。その時、風信の肩を誰かがぽんと叩いた。
「風信君」
振り返るとそこに、重鎮の機長が笑みを浮かべて立っていた。急いで会釈する。
「これは……どうも、先ほどはお見苦しいものを」
「いやいや。君はほんとうに慕われているねえ」
やや引きつった笑顔で返す風信に、機長はすっとカードを差し出した。ホテルのマークが入っている。
「こういうこともあろうかと会社が部屋をおさえているのでね。よかったら使ってやりなさい。君も明日は午前のフライトだろう? ここなら空港もすぐだ」
南風を支えていないほうの手でそのカードキーを受け取る。つまり、一晩、ホテルで南風の様子を見てやれ、とそういう意味だと理解する。
「……ありがとうございます」
おそらくそれが最善の策だろう。この状態の南風を一人にするのは風信も不安だった。去っていく機長を見送ってから、ホテルの入口へと戻る。
ホテルの廊下を歩いている間も、南風の脚は動いているかいないかといった具合だ。片手は肩に回した南風の手をつかみ、もう片方で体を支える。腕には自分と南風のカバン。廊下で客とすれ違わないことに感謝だ。
「……う……」
南風が呻く声が聞こえた。
「おい、大丈夫か?……吐くなよ」
「だい……じょうぶ、です。あんま……たべてない、し」
食べずに飲んでいたのかと頭を抱えたくなるが残念ながら手は空いていない。
なんとか部屋にたどり着く。ベッドが二つ並ぶツインルーム。さすが、不測の事態にも用意がいい会社だと感心する。片方のベッドに南風を寝かせる。あまり食べていないようだが、一応、吐くといけないと思い、横向けに変えてやる。喉から小さな声が漏れるが起きる気配はない。ネクタイを緩め、シャツの一番上のボタンを外してやる。
とりあえず水はのませたほうがいいだろう。一度部屋を出て、自販機で水のボトルを買ってきて、部屋にあったカップにそそぐと、ベッドでマグロのように横たわったままの南風の体を揺すった。
「おい、南風、起きろ。水のめ」
やっと薄っすら目が開いた体を支えて、枕にもたれるように体を起こしてやる。
「口、開けろ」
言われるがままに小さく開いた南風の口に、水を少しずつ流し込む。むせないか心配したが、喉が上下するのを見て安心する。口の端から細くこぼれた水を指で拭ってやる。満足げな笑みを浮かべながらまた目を閉じてしまった南風をもう一度寝かせてやる。
「まったく……なんで俺がお前の面倒をみてやらないといけないんだ?」
そう口にしてみたが、目の前でお気楽に寝息をたてる姿は、やはり憎めない。思えばこんなふうに南風が自分の手を煩わせることなど、普段はない。一緒に乗務する時は、これ以上ない程、信頼がおける存在だ。その彼が、こんなに自分に全てを委ねきって甘えている。それはどこか貴重な機会にすら思え、風信はそっと布団をかけてやると、その上に手を置いた。手のひらから、その体の温もりが伝わってくるような気がした。
まだ時間は早い。風信はカバンから資料を出し、隣のベッドに腰をおろして明日のフライトの確認をすることにした。
長いフライトだが、日中にも確認していたので、一通りさらうだけだ。気がつけば、視線は隣のベッドで身動き一つせず眠る副操縦士を見ていた。
南風にとって、こんなに飲んだのは初めてだったのかもしれない。
飛ぶことが何より好きなのに、明後日までフライトがないとあんなに嬉しそうだったのは、珍しくみんなとアルコールを楽しむ機会だったからだろうか。それならあの滅茶苦茶な飲み合わせも納得がいく。色々試してみたかったのだろうかと思うと、可愛らしくてしょうがない。
ひとたびパイロットになれば、常に節制を求められる。南風には、タガを外す機会はなかっただろう。
彼が副操縦士になったのは早かった。
この世界の狭き門をいくつもジェット機のようなスピードで抜けていって、いま同期の、いや同年代の他の航空会社のパイロットをも追随を許さないところを飛んでいる。
いや、唯一対抗できる若手がいるとすれば、あの玄真航空の副操縦士だろうか。良きライバルとして、仲良く火花を散らしあっているらしい。
思えば、風信と慕情も同じだった。二人で競うように異例の速さで副操縦士となり、機長となって飛行時間は同年代のトップクラスだ。
だが、若くして昇りつめる者には、少なからず妬みが向けられるものだ。南風は同年代の仲間との付き合いも自分より良好なようだが、それでも影でひそひそとやっかみの言葉を囁かれているのを聞かないわけではない。今日だって、皆酔っぱらっていたとはいえ、挑まれたら引かない南風の性格を利用してやろうという気持ちが本当に彼らになかっただろうか。
パイロットは一人では飛ばない。それなのに、たまにひどく孤独を感じる。
風信は書類をしまうと、南風のベッドに行き、そっと端に腰を下ろしてその顔を見下ろした。
赤みがひいてきた顔を見つめ、その黒い髪に触れる。乱れた髪を指先でそっと撫でる。
どの若手パイロットとも分け隔てなく接しなければとわかっているのに、なぜ彼にだけこんな感情を抱いてしまうのだろう。
彼が、まるで自分の分身のようだからだろうか。空を愛し、空に愛され、ひたすら高みを目指す者の孤独と苦労が自分たちを近づけるのだろうか。
「……ぅ……」
南風の苦しげな呻き声が聞こえ、我に返る。
「大丈夫か?」
ベッドから降り、かがみ込んで南風の顔を覗き込む。眉間に皺を寄せて何かに耐えるような顔をしている。
「らんきりゅう……きつい」
目を開ける気配はなく、どうやら寝言だ。安堵のため息をつく。
「それはな、お前が酔ってるからだ」
どうやら彼は夢の中でも操縦しているらしい。随分荒れたフライトだろう。
喘ぐように南風の口がゆっくり動く。
「……ふぉんしん、さん……」
その呼び方に、不意に、目の前のその唇の温もりと柔らかさが蘇った。
わかっている。
屈託なく自分のことを好きだと言うその言葉が尊敬からくるものだと。
あれは単なる酔いに拐かされた結果だと。
それでも──
地球何周分も飛んできたが、この広い世界の何処にも、高い空の何処にも、二つとないものがあるのだ。それは今この瞬間、ここに存在している。
気がつくと、半開きのその口の端に、そっと唇で触れていた。
起こさないように限りなくそっと。それでも、そこに確かな温もりを感じるのには十分だった。
静かに時が流れる。
「……お返しだ」
かすれた声は、自分に言っているのか彼に言っているのかどちらだろう。
わずかに弧を描いた南風の唇が動く。
「おれ、なりたい……きちょうの……」
「……俺の、何だ?」
続きの言葉を待つ。だが、その口から漏れるのはまた規則的な寝息に戻った。
「……おい」
なんだ、気になるだろうが、と床に座り込んでため息をつく。穴埋め問題は嫌いだ。出題者はそこに入るたった一つの答えを知ってるのに隠しているのが癪に触る。
自分のなんだろう。
相棒? 右腕? だが彼が仕事で一緒に組む相手は風信とは限らない。
最高の副操縦士? 自慢の後輩?
うむ、そのあたりが妥当だ。そう言い聞かせながら立ち上がり、自分のベッドに戻った。
* * *
明るい光に南風はゆっくり目を開けた。
窓のカーテン、白い壁、パリッとしたシーツ。そのどれもが見知らぬものであることに気づき、がばっと体を起こす。
「いっ……」
頭を殴られたような鈍い痛みに顔をしかめる。だが今はそれより──「どこだ、ここ」
恐る恐るまわりを見回す。ベッドの脇のサイドボードに置かれているものに目が止まった。
コップと水のボトル、そしてホテルのマークの入ったメモ。そこには見慣れた字が書かれていた。心臓が早く打つのを感じながら目を走らせる。
『起きたらすぐ水を飲め。今日も体調が回復しなかったら、無理せずスタンバイへの交代を会社に頼むこと。
次会ったら、事故の反省を聞かせてもらうからな笑』
事故……? 南風は顔を上げて壁を睨んだ。記憶を辿る。昨日の夜は忘年会で、なんか色々飲んでいるうちに頭がぼんやりして……そうだ、風信機長がいた。そのあと眠くなって……そうか、それで機長がこのホテルの部屋に……?
南風の顔が青ざめる。酔っぱらって、あろうことか機長に尻拭いをさせたのか……?
揺れる頭を支えながら、ベッドから立ち上がる。隣のベッドは空だ。部屋に南風以外の気配はない。そうか、機長は今日は朝からフライトだったと思い出し、自分の失態を責める。
だが、まだ何か、大事なことを忘れている気がする。
椅子に置かれている自分の鞄に気づき、スマホを取り出す。
メッセージの通知が山ほど。なぜかその多くが祝福めいた言葉だ。何個目かのメッセージに書かれたことを見たとたん、南風はよろめいた。
ベッドの端に尻をぶつけ、そのままずるりと床に落ちる。声にならない叫びを上げながら天井を仰ぎみる。
いったいなんてことをしてしまったんだ。あろうことか風信機長に――。
機長に連絡しなければ。今すぐ謝らなければ。だが時刻をみて、今頃機長は空の彼方だと気づき、頭を抱える。
どれくらいそうしていただろう。視線にさっきのメモが目に入った。
もう一度目を走らせる。メモは下の方が折れていた。親指でそっと開く。そこには躊躇うように少し小さめな字が書かれていた。
『あと心配しなくても、お前はもう俺の__だと思うぞ』
──自分はいったい何を言った?
もう一度、必死で泥のような記憶をかきわける。
遠くの雷の音。自分を支える機長のがっしりと暖かな肩の感触。乱気流に揉まれ、おもちゃのように揺れる機体。もう駄目かもしれないと思ったそのとき──。
いやいや、と首を振る。操縦なんてするわけない。あれは夢だ。
あれは、夢だ。そうだろう?
無意識に、指は確かめるように唇に触れていた。