この世の春にて 花の匂いがする。
やわらかな湿度を含んだ空気。入り混じる植物の香り。それらを光雲は思い切り肺に取り込んだ。遠くにはきらめきをたたえた瀬戸内の海がどこまでも広がり、やがて一線となって空の青と混ざり合う。
昨夜の雨で地面はややぬかるんでいたが、光雲は構わず腰を下ろした。括袴の尻のあたりが色濃く滲んでいくのを感じたが、それは些細なことだった。
しばらく、いや、もしかしたら一生見ることがなくなる故郷の海だった。だから光雲は、心に焼き付けてしまうくらいにそれを眺めた。
穏やかに輝く大海に、きょうまでの日々を重ねる。
六年という月日。過ぎれば一瞬、しかし確かに自分の中に息づいている。伸びた背丈、逞しくなった身体、詰め込まれた膨大な知識。現在の西園寺光雲をかたちづくる全てが、その月日のたまものだった。
だからこそ――心身ともに忍びとして鍛えられてきたからこそ、背後から近づいてくる気配に気づかないわけはなかった。振り返らなかったのは、気に留めるほどでもなかったからだ。
そこにいる人物が誰かなんて、この目にとらえなくてもすぐにわかる。
「やっぱり。ここにいると思った」
それは光雲が思った通りの、聞き馴染んだ声だった。
六年間、耳にしなかった日はなかったのだから、顔を確かめなくてもその主を間違えるはずはなかった。自然と頬の筋肉が緩む。
「王子なら来てくれると思ったよ」
近くでふっと笑う気配がした。依然として光雲の視線は遠くのさざなみに揺らぐひかりにあった。その隣に腰を降ろそうとした王子は、地面の湿り気に少したじろいだようで、座ることをやめた。
こいつ、意外に繊細なんだよな。こういうところ。
顔をあげれば、薄青の空を背景に得意げな笑みをたたえた王子がこちらを見下ろしている。
「なんだ。俺を待ってたのか?」
「そういうわけじゃないけど。王子って昔から絶対にぼくの居場所をつきとめるよね」
「当たり前だろ。何年一緒にいると思ってるんだ。光雲が考え事をする時はここだって、相場は決まってる。今回は俺の勝ちだな」
「別に何も対決してないでしょ」
当然のように胸を張る王子に、光雲は苦笑する。
裏々々山の西側の尾根、瀬戸内が望める開けた場所は光雲の気に入りの場所だった。四年生時分、初めての夜間実習の折に見つけて以来よく訪れた。はじめは鍛錬中の休憩場のつもりだったが、そのうち何となく悩み事や考え込みたいことがある時も、自然に足がむくようになった。
そうして一人で膝を抱え込んでいる時に、王子に見つけ出されることが何度あっただろう。
特別教えたわけでもなかったのに、彼は当たり前のようにここへやってきて隣に座り、そうして光雲の話を聞いて背中を押すのだ。
いつだってそうだった。王子は、と光雲は小さく呟く。
「ん? なんだ?」
「王子は変わらないね」
「何だよ、いきなり」
「昔から対決好きなところとかさぁ」
「え、あ、もしかして嫌だったか!?」
光雲が嫌ならもうやらないけど!と慌てた王子は膝を地につける。ほら、こういうところも。光雲は小さく笑う。対ぼくになると、すぐになりふり構わなくなるんだ、こいつは。
「今更嫌だとか言わないでしょ。大体、王子との対決は九割ぼくが勝ってるわけだし」
「そうかぁ? 九割は言い過ぎだろ。せめて七割……」
「どっちにしろ負けは認めるんだね」
「光雲が幸運なのがずるい!」
「運も実力のうちでしょー」
つま先のあたりに咲いていた蒲公英の綿毛を摘み、光雲は王子へと吹きかけた。白く小さな種たちが、王子のまわりを泳ぐように飛んだ。それを軽く払いながら、王子は開き直ったように地に尻をつけあぐらをかく。一度汚れてしまったら、後はもうどうでもよくなるらしかった。
「で、何考え込んでたんだ」
「別にぃ。思い出に浸ってただけ」
「なんだ。感傷的になってるのか」
「そういうわけじゃないよ。だって、王子は不安じゃないわけ?」
そこまで言って、光雲ははっと口を押さえた。その返答に王子が口の端がにやりと笑ったのも見過ごしはしなかった。くそ、負けた。自分の中に蓋をしていた感情をうまく掬い上げられてしまった。
「なぁんだ。光雲は不安なのか」
余裕ぶった口ぶりで笑う王子を、光雲は苦々しく睨みながら膝を抱える。
「……そりゃあ、いくら自分で選んだとはいえ知らない土地に行くんだよ。言葉も、文化も、人も、何もかも違うところに行って、これからは自分たちだけの力で生きていくんだ。王子は不安にならないの?」
「ならないな」
そうきっぱりと言い、王子は立ち上がった。広がる海をすべて抱えるように両手を広げる。そうして息を大きく吸い
「俺は幸運の持ち主だから!」
と空へ叫んだ。あっけにとられた光雲はポカンと口を開ける。なんだそれ。
「ねえ、それぼくの言葉なんだけど」
「だって考えてもみろよ。こんな幸運の持ち主の光雲と出会えて、さらにこの先も共に生きていける。こんな幸運、なかなかないだろ」
「えええ、それ屁理屈ってやつじゃない?」
「いいんだよ、何でも。俺は光雲がいるから全っ然不安じゃない」
振り返った王子は、太陽のようなおおきな笑顔を光雲に向けた。六年間、そばにありつづけた笑顔だった。きっと、これからもそうだ。
その不確定な、それでいて絶対的な事実が――この上のない幸運が、光雲の心をひたひたと満たしていく。
腰をあげ、涙腺に込み上げてくる感情を誤魔化すように一度伸びをした。
「なぁんか考えてるのばからしくなってきちゃった」
「そうだろう、そうだろう」
「本当に、王子は変わらないよ」
「そうかぁ? 背はでかくなっただろ」
「そりゃぼくもそう。たくさん変わったよ。でも王子は変わらない」
だからどこがだよ、とぼやく王子の胸のあたりに白い綿毛が引っ付いているのを見つけ、光雲は笑う。それはね、と言いながらてのひらにのせ、小さく息を吹いた。
「ずーっとぼくと一緒にいてくれるところ」
同時に大きく風が吹いた。木々を揺らし、花を散らし、根を張る植物たちを撫であげていく。
地上から吹き上がった綿毛にまぎれて、光雲が飛ばしたそれも飛んでいく。いずれどこかの地に根付き、訪れる季節に花を咲かせるのだろう。
王子は何も言わなかった。代わりに、小さく背を叩いた。その手のひらの大きさとぬくもりが彼らの六年間を物語っていた。だんだんと落ちていく陽光に、眼前の海はよりいっそう輝きを増していた。
「あす、伊作たちが見送りに来るってよ」
「そっか。だったら笑って別れないとね。ぼくたち先輩だし」
「ああ。後輩の希望にならなきゃな」
「うん。そうだ……」
ね!と言い切ると同時に、光雲は王子の背中を、さきほど自分がされたよりも何倍も強い力で叩いた。パーン!といった小気味良い音と「ってぇ!」と叫ぶ王子の声が空へとこだまする。
甲高く笑い、光雲は走った。負けじと王子も追いかけていく。青臭く、やわらかく、花のほころぶようなに香りとともにどこまでも走った。このまま二人ならきっとどこまでも行ける。
暮れゆく故郷の春の中で、光雲は確かにそう思った。