本人に言え幕末の人斬りの刀として顕現した肥前忠広への情愛を意識したきっかけはなんだったかと彼女は思い出そうとするが、思い出せなかった。ただ、この刀は息をするように彼女のそばにいた。特に何をするわけでもない。会話もこれといって無い。勿論近侍に指定した際には文句を言いつここなす。或いは時折食べ物をねだりに顔を出しては目敏く書類のチェックをして去っていく。そして、彼女が他の刀たちと交流している時には姿を見せない。けれど、いつも気配を感じていた。
そんな肥前の存在は彼女にとってありがたくもあり、少し困惑していた部分もある。それは。
「君を庇護の対象だと認識しているからだと思うよ」
そんな肥前に先生、と呼ばれる南海太郎朝尊は穏やかに笑みを浮かべて答える。眉を潜め、欲しい答えではないという表情をする彼女を見て肩を竦めた。
「これは君が求める正しい答えではなかったようだね」
彼女は罰が悪そうに視線を逸らす。意味深に瞳を細めた南海が手にしていた書をぱたりと閉じた。
「肥前くんは敏い刀だよ。僕よりずっとね」
それはどういう意味なのか。聞き返す前に当の肥前が書庫に顔を出した。
「おれがなんだって」
不機嫌そうな顔だ。いや、いつもと変わらない仏頂面といえばそうだ。にこりともしない切れ長の瞳と影がかかる涙袋がそう感じさせるのかもしれない。
「おや、噂をすればなんとやらだ。主が君を遠征の部隊長に指名したいと探していたよ」
彼女の背筋がぎくりと伸びた。南海先生に部隊長指名のこと言ったかな?と思いつつも話を逸らしてくれたことに感謝をした。先程の会話を聞かれなかったことを信じたい。
「次の遠征の隊長を肥前にお願いしたくて。やってくれるかな。編成メンバーは…」
「敵を斬ってくればいいんだろ」
「相手の出方をちゃんと見極めてから斬ってね。この前来た福島と稲葉連れてく予定だから」
「へえへえ」
彼女の言葉を遮り、後ろ手で手を振りながら去っていった。後ろ姿を眺めながら、何の用事で書庫まで来たのかとぼんやり思っていると背後で朝尊が小さく笑う気配がした。
今回の遠征は一週間程。来たばかりで連度に不安のある福島と稲葉を挟み、彼女の本丸で連度の高い極前田と肥前、極不動と石切丸の六振での遠征だったが皆無事に帰ってきた。揉まれて成長が見える中傷の福島と稲葉を手入れ部屋に入れ、彼女は隊長の肥前に「後で報告書お願いします」と伝えて執務室に戻る。
執務室にいた近侍の大倶利伽羅が顔をあげた。
「おい、提出期限過ぎてるやつがあるぞ」
「うそっ」
「嘘じゃない。確認しろ」
大倶利伽羅の忠告に慌ててディスプレイを確認する彼女。視線を滑らせていく彼女の指が止まる。表示された提出期限は一週間前だ。次いで別のタブを開くと、提出要請通知が複数届いていた。サッと彼女の顔が青くなる。大倶利伽羅は特段表情を変えずにため息をつく。
「え~っ本当だ…何で忘れてたんだろう…大倶利伽羅手伝って」
「やらん。自業自得だ」
「近侍殿~」
今まで提出を忘れていたことなどなかった筈なのに、と書類やデータをひっくり返して書類作成をしていく。
「遠征部隊の報告書も来るんだろう」
「分かってるよ!」
「……光忠になにか貰ってくるくらいはやってやるが」
「お願いします!ありがとう!大倶利伽羅大好き!」
大倶利伽羅の煽りに思わず声が大きくなる。けれど、全くもってその通りなので彼女は呻きながらお礼を叫んだ。
「気持ちが悪い。黙ってやれ」
心底嫌そうに盛大なため息をついた大倶利伽羅は立ち上がって執務室から出ていった。無遠慮に投げ付けられた言葉も、彼女にとってはスキンシップのようなものである。直接触れることは憚られるが、言葉のキャッチボールは出来ると思っていたのだ。後には半泣きで書類作成をしている彼女。しんとした空間に乾いたタイピングの音が響く。しかし何故今回提出を忘れてしまったのだろう。近侍の男士たちにも毎日のように提出するものは無いのかと言われていたのに。
「こんのすけも今別の本丸にかかってたからなぁ…こんのすけのせいだ」
新しく出来た引き継ぎ本丸へ応援要請でしばらく彼女の本丸には来ていなかったこんのすけにもとばっちりがいく。
「おい」
「開いてるよ~」
執務室のドアの外から声が聞こえた。彼女はそれが大倶利伽羅だと思っていた。その為にディスプレイから視線を逸らさず声をかける。
「早いね大倶利伽羅。何貰ってきたの~。一緒に食べ」
しかし、返ってきたのは大層不機嫌な声だった。
「悪かったな、大倶利伽羅じゃなくて」
「!」
大倶利伽羅ではない。彼女が思わず振り返った先には眉根を寄せた表情の肥前がいた。ギク、と彼女の心臓が跳ねる。
「遠征の報告書頼むって言ったのあんただろうが」
おら、と雑に報告書を投げて寄越す肥前。ひらりひらりと舞って、報告書は辛うじて彼女の左手に。すこぶる機嫌の悪い肥前だ、と彼女の背筋に脂汗が流れた。
「ごめん、さっき大倶利伽羅が光忠のところに食べるものもらいに行ったからもう帰ってきたと思って」
「そうかよ。邪魔して悪かったな。おい、その書類何で今やってんだ」
報告書を渡して早々に去ろうとした肥前がふと彼女の目の前にあるディスプレイに表示された書類に気付く。
「あ、いや、忘れてて…」
バレた、と彼女はディスプレイを隠そうと両手をばたばたと振るが後の祭り。ずんずんと彼女の座っている場所まで肥前が迫ってくる。鬼気迫る表情に逃げようと後ろへ下がろうとしたが、如何せん机がある為にこれ以上は下がれない。終わった、と彼女は思った。ひら、と肥前の首に巻かれた包帯が目の前に垂れ下がった。
「ひっ」
「はぁ?それ先週期限だったはずだろ?」
「そうなんです…何で知ってるの?」
遠征に行っていた肥前が何故書類の提出期限を知っているのか。どこかで話したかな、と彼女は必死で思い出そうとした。近侍では無かったが執務室に顔を出したことはあった。朝尊を探しに来たと記憶している。
『それ、今週に出すやつなんだろ。食ってる暇あったらやっとけよ』
もしかして、肥前はそれを覚えていたのか。彼女は肥前を見上げる。視線が合った。バツが悪そうに朱の瞳が細くなる。
「……何でもねえ」
チッと舌打ちをした肥前が振り向いて執務室から出ていってしまった。すれ違いで大倶利伽羅が入ってくる。
「…喧嘩か」
「違うよ」
お盆を手にしていた大倶利伽羅は無言で彼女の机に置く。朱塗りのお盆の上には白い華奢な取っ手がついたティーカップと抹茶色をしたロールケーキが二つ。ティーカップの中身は紅茶のようだ。ふわりと茶葉の香りがのぼってくる。
「…」
「……」
しばらくの間無言が漂う。とはいえ、大倶利伽羅も元々饒舌な方ではない。通常通りといえば通常通りである。けれどもいつもと雰囲気が違うことも気付いていた。気遣ってか何も言わずに座り込む。
気遣われていると悟った彼女は大倶利伽羅を向かずにぽつりと呟いた。
「私…たぶん肥前のことが好きなんだと思う」
「…それを俺に聞かせてどうする」
「ごめん、特に何もないけど話聞いてくれたらありがたい」
「……」
「肥前、いつもそばにいてくれるんだよ。物理的にじゃなくて、存在というか。私はそれに甘えてた。先生には『庇護の対象だからでは』って言われたけど納得しなかった自分がいて」
「…」
「その好きっていうのが慈愛なのか傾慕なのか、……愛着なのかはわからない。でも肥前のことが好きなんだって今思った。まぁ、だからと言ってどうこうって話じゃないんだけど」
あはは、と笑う彼女を目を細めた大倶利伽羅がじっと見ていた。彼女のいう『肥前が好き』の意味が何なのか大倶利伽羅も当然のように分からなかった。けれど、先程から蠢く気配がすることに気付く。
「…今の言葉をもう一度部屋の前にいる奴に言ってやれ」
大倶利伽羅はそう言ってドアを開け、外にいた人物の首根っこを掴む。捕まえられた猫のようにもがいていたのは肥前だった。
「うッ」
「肥前!」
「おい離せ」
「盗み聞きした奴の態度じゃないな」
「うるせえ」
肥前の右手が本体の柄に触れる。
「抜刀はするなよ。さて、俺はあんたに命じられればお暇出来るんだが」
有無を言わせぬ大倶利伽羅の圧に彼女は「じゃあ…お願いします…二時間後にまた…」と言うしかなかった。
「そうか、分かった。菓子はあんたにやる」
大倶利伽羅はパッと肥前の首根っこを離すと執務室から振り向きもせず出ていった。あまりの鮮やかな手腕に彼女も一瞬何が起こったのか分からなかった。けれど、自分と肥前が残されたことを思い出してチラリと肥前を見る。ちょうど肥前も彼女を見た為にお互いの視線がバチリと合う。
「…」
「…あの…聞いてたの…?」
「聞きたくて聞いてた訳じゃねえぞ」
「いや…うん…どこまで聞いてたの…」
「……」
「もしかして、全部…?」
「……」
肥前が気まずそうに視線を逸らす。図星だ、全部聞かれていたんだと彼女の顔が一瞬で真っ赤になった。
「ゥヮァ…」
「変なうめき声出してんじゃねえ」
「わわわ忘れてください…」
「あぁ?」
「私と大倶利伽羅の会話…」
絞り出すような彼女の声にピクリと反応をして肥前が視線を彼女に戻す。何かが肥前の琴線に触れたようで切れ長の目が一層つり上がった。
「…人間サマはよぉ、都合が悪ぃと逃げんのか、えぇ?」
「そんなこと…」
「そうだよな、人斬りの刀のおれに対して忘れて欲しいような感情しか抱かねえよな」
「肥前」
「そうかよ、分かった。よーく分かった。邪魔したな」
「肥前忠広」
今にも斬りつけられそうな勢いに嫌な動悸がしたけれど真っ直ぐに肥前を向いた。それにつられて肥前の肩が僅かに揺れる。深呼吸を一つして、口を開いた彼女。
「ごめん。ちょっと動揺して。でも聞いて。ちゃんと言うから」
「…」
「私、肥前のことが好きなんだと思う。思うっていうのは慈愛なのか傾慕なのか愛着なのかがちょっと分からなくて。先生に相談したら、肥前くんは敏い刀だよって。だからもしかして肥前の方が…」
言いかけて肥前の手が彼女を制す。ムッとしているような、拗ねるような口元なのは気のせいか。肥前は小さく息を吐いて頭をガリガリと掻いた。
「別に分からねえならそのまんまでいいんじゃねえか。困ることあんのか」
予想外の肥前の言葉に、彼女は目をぱちくりとさせる。
「…無い、ですね…」
「おれも正直分からねえ。分からねえなりにおれの思うままにやってる。それでいいんじゃねえのか。知らねえけどよ」
彼女が常に肥前の存在を感じていたのはもしかして。ハッと顔を上げた先には幾分か柔らかな表情になっている肥前。喉がひくりと鳴って、心臓がどくりと跳ねて。初めて見る肥前の柔和に細められた目元は彼女の視線を、心臓を釘付けにするには十分だった。
「ところで、もう一回言えよ」
「えっ何を…」
「おれのことが、何だって?」
ニヤ、と意地の悪そうな片笑みを浮かべた肥前が彼女の隣へどすんと座り込む。
「言ったし…」
「曖昧な言い方でよくわかんねえよ、おれは」
じわじわと距離を詰めてくる肥前の表情で彼女は肥前の瞳にからかいが含んでいることに気付く。光沢の無い朱の瞳が近付いてくる。これは良くない、と彼女は後ろに下がって逃げようとするが、机に塞き止められた。ガチャン、とお盆の上のティーカップがぶつかる音がした。
「お、おやつ食べよう、とりあえず、大倶利伽羅が持ってきてくれたし!書類もまだだし!」
「…」
あわあわと抹茶色のロールケーキを指差す彼女に、チッと舌打ちをした肥前であった。
「あれっ伽羅ちゃん。おやつ持ってったんじゃなかったの?」
戻ってきた大倶利伽羅を見た燭台切光忠が声をかけた。手ぶらである為に持っていったおやつを食べた後片付けということでも無さそうだ。
「…猫が紛れ込んできたから」
「猫?」
「嫉妬心の強い猫だった。しばらくは執務室に近寄らない方がいいぞ」
「?」
ク、と笑いを溢す大倶利伽羅を不思議そうに眺める光忠だった。