「いま、なんて?」
耳に馴染みのない言葉を聞いた気がする。タルタリヤはそれが自分に向けて放たれたものだと理解できず、主君の蛍へと聞き返した。
「だから、エスコート役。未婚の王女が一人でホールに入るわけにはいかないでしょ」
第一王女に与えられた離宮、その居室にて。
窓から覗く青い空は雲ひとつなく、庭先の花々はだんだんとその蕾を綻ばせている。いまかいまかとその花を咲かせようとする姿は、まさに春を届けようとしていた。
そう、春が訪れる。この国の双子の御子が生まれた日、星が降った記念すべき日がやって来るのだ。
先日王宮の聖堂で佩剣の儀を行い正しく主従となった蛍とタルタリヤは、そのお披露目を生誕パーティーで行う手筈になっていた。国内の貴族たちは既に知っているが、国外の諸侯はそのことを知らない。或いは人伝に聞いているかもしれないが……蛍が選んだタルタリヤという騎士がどのような人間なのかは知らないに等しいのだ。
「今までは……」
「お兄ちゃんと一緒。でも生誕祭が終われば、お兄ちゃんは遊学に行っちゃうの。だから今回からは貴方の役目」
それに今回はあなたのお披露目もあるんだから。蛍は言外にそう伝えたつもりだったが、当の本人は未だ他人事だった。
つまらなさそうに口を尖らせて頭の後ろで手を組む。主君を前にしての態度とは到底思えない舐め腐った態度だが、蛍は敢えてそれに目を瞑った。平常心、平常心。
「えー」
「……確認だけど、タルタリヤは踊れる?」
「踊るって何を?」
「ダンス以外のなにものでもないでしょ!」
騎士学校を卒業してからの1年間、タルタリヤは騎士団の一員としてさまざまな舞踏会の警備に当たっていたはずだ。だというのにこの有様、一体舞踏会で何を見てきたのだろう。
信じられない様子で思わず声を張り上げた蛍にタルタリヤは胡乱な目を向ける。
「見たことなら、まぁ」
要するに踊ったことはないらしい。平民出身だから当然といえば当然なのだが、この舐め腐った態度の騎士は一度矯正したほうがいいのかもしれない。蛍はどうしたものかと思案する。
「私の騎士になったからには、エスコート役もダンスパートナーも完璧にこなしてもらうからね」
「え〜、やる気出ないよ」
「私を壁の花にするつもり?」
主人に睨まれたタルタリヤは肩を竦める。第一王女という地位と権力を持ち合わせていながら「壁の花」など、自己肯定感の低さは生まれ持ってのものらしい。控えめというか、謙虚というか。それは返ってとんでもない皮肉になることを知らないのかもしれない。無知って怖いなと思いながら、タルタリヤはこっそりため息をついた。
(手折られてしまうくらいなら、いっそ壁の花でいてほしいくらいなんだけど)
護衛としては動かないでいてくれたほうが圧倒的に守りやすい。けれど、立場上そんなことは許されないのだろう。双子の誕生日ともなれば国外からの賓客だって多いはずだ、その挨拶回りだって存在するはずで──そこに己も連れ回されることもまた、必然というわけだ。
「私の剣になるって誓ったでしょ」
「それとダンスは関係なくない?」
「社交界ではダンスを美しく踊るのも武器の一つなの!」
いつまでも乗り気にならないタルタリヤに、とうとう蛍が痺れを切らした。眦を吊り上げてドレスの下で優雅に足を組む。見上げるはずのタルタリヤを見下ろす勢いで、蛍は言い放った。
「私の言葉にはなんて言うんだっけ?」
「お願い」でも「命令」でもない。あくまで事実確認をするように、強気な琥珀が煌めいた。
「……『御意』」
観念したように両手を挙げて、タルタリヤは主君の言葉に従うことになった。
あのお忍びの日以来、蛍との距離がほんの少しだけ縮んだとタルタリヤは思う。お姫様でも主人でもなく、蛍という一人の少女の本音を知ったからだろうか。憧れるだけだった主君の姿が現実という輪郭を纏い始めている。
「あ、そうだ。貴方の剣もパーティーまでには用意できるはずだから」
「! 本当かい!?」
「目に見えて嬉しそうになったね」
思い出したように呟かれた言葉に瞬時に反応する。それは二人の間のちょっとした儀式についてのことだった。
タルタリヤが今まで使っていた剣は師匠であるスカークからのお下がりの品である。騎士団で配布されているロングソードよりも素材が良くて、スカークに合わせてほんの少し細身に作られたもの。まだ成長途中のタルタリヤには重さと大きさがちょうど良くて、騎士団に入ってからもそれを使っていた。もちろん、正装のときはきちんと正規のロングソードを履いていたけれど。
蛍が新しく主人になったタイミングで、新しい剣を贈るという話になっていたのだ。成長したタルタリヤに合わせて、素材や装飾、なにもかもを特注したオーダーメイド品。それがようやく完成するのだ。
では今まで使っていた剣はどうするのかというと……主人である蛍に渡されることとなった。
『いままでの貴方が使っていた剣は私が預かる。いつかの時が訪れるその時まで、鞘にずっと納めたまま』
私に剣を抜かせないでちょうだいね。文字通りその約束を体現するための儀式だ。
その言葉を聞いたタルタリヤの様子はさながら、目の前ににんじんをぶら下げられた馬のよう。途端に表情は明るいものに変わり、瞳も心なしか爛々と輝いている。
「とりあえず、生誕パーティーまでの二週間は休む暇なんてないと思ってね」
「……ハイ」
踊れないのであれば、練習あるのみ。子供でもあるまいし、覚えだって悪くはないはずだ。足を踏まなければなんでもいい、なんてことは許さない。兄や己の一派に少しでも付け入る隙を与えてはならないのだから。
◇ ◇ ◇
ぐしゃりと手紙を握りつぶす。書かれていた文字が誰のものなのかなんて、蛍にはわかりきっていた。
兄の名で書かれた手紙だが、その筆跡が違う。巧妙に似せているけれど、嫌というほど兄と手紙の交換をしていた蛍にはわかる小さな差異だった。
「むかつく!」
長椅子の上に置かれたクッションを拳で殴る。ぼすんと音を立てて凹型へと変形したそれを、もう一回殴った。
どうして、といつも思う。兄と気軽に会えなくなってからどれくらい経っただろうか。昔はお互いの宮に行き来もしていたし、宮を抜け出して秘密基地で遊ぶこともあった。けれど10を超えてからその機会は目減りして、気が付けば公の場でしか会うことができなくなってしまったのだ。
兄に嫌われたかと思ったが、そんなことはない。空はいつだって蛍のことを思っていて、蛍も同じように空のことを思っている。ただ側近の目があるうちは、公の場であっても本音で話すことはできなくなってしまった。
(お兄ちゃんが出発しちゃう前に、最後に会いたいのに)
じわりと瞳に水の膜が張るのがわかった。こんなことで泣いたってどうにもならないのに、それでもただ会いに行くことさえ邪魔する人間たちが憎くて仕方ない。それを振り払うだけの力を持たない自分のことも。
力なく項垂れていれば、コツコツと廊下を歩く靴音が響く。そのままノックを3回鳴らしてから主の蛍が返事をする前に、ガチャリと扉を開く音が聞こえてきた。
「姫様──」
「返事を聞いてから!」
こんなことができるのは先日騎士にしたばかりの青二才だけだ。長年一緒の侍女たちはそんな失態をおかさない。案の定部屋に入ってきたのはタルタリヤで、蛍は泣きそうになった顔を隠そうと反射でクッションを投げた。
「どうしたの、姫様。随分とご機嫌斜めだね」
「……うるさい」
「今日は殿下に会いに行くって話じゃなかった?」
デリカシーの欠片もない男は、易々と蛍の傷口を抉ってきた。怒りのままもう一度飛んでくるクッションをタルタリヤはなんなくキャッチする。
「うわあぶな」
流石は騎士、身体能力は高いらしい。二つのクッションを長椅子に置き直して、タルタリヤは蛍の前に跪く。俯いたままの蛍が顔を上げるのを根気強く待っていた。
「姫様」
膝の上で強く握られた拳をタルタリヤの大きな手が包み込む。優しく拳を解いてやればぴくりと蛍の肩が揺れる。ゆるゆると持ち上がった顔をタルタリヤはじっと見つめた。故郷に置いてきた幼い妹も中々頑固で、こうして落ち着くまで待ってやればそのうち話し始めたものだ。決して主人を妹扱いしているわけではない。
「……また、握りつぶされただけ」
兄に会うために先触れを出したのだと、今朝会ったときに蛍は言っていた。それからダンスの練習でタルタリヤが席を外しているうちに、どうやらその返答が来ていたらしい。「遊学の準備で忙しいから」と会うことは却下され、侍女に持たせた手紙も空に直接渡ることなく回収されてしまったのだと。今までそうやって「預けられた」手紙が届いたことなどないことを、蛍は知っているのだ。
「空にも会えず、手紙も届かないならどうすればいいの。……同じ城にいるのに、こんなに遠い」
綺麗な琥珀色が隠される。長いまつ毛が重なる様子を、タルタリヤは至近距離で見つめていた。いつもだったらこの近さは許されない。そんな気は毛頭ないけれど、近付こうとすればさり気なく距離を離される。それこそ、あのお忍びの日に無理やり手を引いたときのように。
よく手入れされた肌と、整った可愛らしい顔立ち。垂れ下がる亜麻色の髪は指を通せば滑っていくのだろう。まさに絵に描いたような「お姫様」の姿だ。その本質はかなり苛烈なのだけれど。
「……陛下は?」
「なにも。忙しいのだから邪魔をするなって。……別に空の邪魔をしているわけじゃない。背中を押して、待ってるって伝えたいだけなのに。周りが勝手に判断して、推測して、ダメっていう。ホントの私たちのことを何にも知らないくせに」
一息に吐き出される言葉は、奥底に隠された本音だった。お手本のようなお姫様を演じる少女の柔らかい部分。
タルタリヤは主人を慰めようと手を持ち上げて──止めた。己はまだ「それ」を許されていないし、蛍がそうされたい相手はきっと兄である空だけだと思ったから。何より己が触れた瞬間、玻璃のように崩れてしまうと思ったから。
「自分が、不甲斐ないよ」
不甲斐ないのは己のほうだと騎士は思う。きっとこのお姫様はいままでずっと一人で、本心を曝け出せる相手なんて兄以外にはいないに等しかったはずだ。だから誰もが「お姫様」の蛍しか知らないし、知ろうともしない。それはきっと助けを求めることができない蛍の性質のせいもあるだろう。
けれど専属騎士となった己は、己こそは、本心を預けられる人間でなければならないはずだ。
主と騎士になってまだ一月も経っていないのだから、当然ではある。しかしいずれははそうならなければならないのだと考えると、中々前途多難であった。このいじっぱりで強情で、淑やかな仮面の下に牙を隠したお姫様に、さてどうやって心を預けてもらうべきか。
「……ね、姫様。稽古つけてあげようか」
「稽古……?」
「姫様のやんちゃっぷりを陛下が知らないんだとすれば、おおかたその剣技は殿下のところで身につけたんだろう? 暫く殿下の宮に行けていないなら、稽古だってできていないはずだ」
「あなたにそんな甲斐性があるとは思えない。本音は?」
「本音なんだけどね。まあ強いて言うなら……そうだな、ストレス発散?」
訝しむような視線に笑顔で返す。そんな、疑われるようなことなんてなにもないし企んでもいないのに。
それでも蛍が納得できるようなもっともらしい理由を掲げれば、蛍は呆れたように呟いた。
「私、ドレスなんだけど」
「姫様を狙う暗殺者が、ドレスだなんだって言い訳を聞いてくれると思う」
ああ言えばこう言う。タルタリヤは血の気が多いということは騎士団長経由で聞いていた。だからたぶん、退屈していた闘争心の行き場を見つけた今それをどうにかしたいのだろうと蛍は結論付けた。
騎士の誓いをするにあたって「剣を抜かせないで」と言ったはずだが、きっとこの男はじゃれあいくらいにしか思っていない。そう確信できた。
あれよあれよと言うまに庭に連れ出され、気が付けば蛍はタルタリヤと向かい合っていた。机の上に置きっぱなしだったお下がりの剣を渡され、蛍は鞘から刀身を抜く。
あの日と同じ剣の重さだった。それでもかつてタルタリヤの師匠が振るっていたというこの剣は従来のロングソードより持ちやすい。剣の重さに振り回されることなく振るうことができるのは、蛍にとっては嬉しいことだった。
チラリと盗み見たタルタリヤは部屋の壁に掛けてあった模造剣を持っている。あくまでも主人に刃は向けないという姿勢なのだろう。手加減されているのがありありとわかって、子供扱いにまた胸の中がモヤモヤとした。
「よし。じゃ、はじめよっか」
その言葉を合図に、「稽古」が始まってしまう。蛍は観念して稽古に付き合うことにした。主従となって間もないタルタリヤなりに、蛍を気遣っていることはわかっていた。それにしたって、デリカシーがないけれど。
「もう、わかったよ」
深呼吸する。一回、二回。思考をクリアにして、剣を構えて。その間にも奇襲を仕掛けないあたり、己の騎士は優しいのかもしれない。
ゆっくりと目を開いて、タルタリヤと目が合ったその瞬間に一歩踏み出して同時に突きを繰り出す。初撃はスピードが命、足を巻き込まんとするスカートを内側から蹴飛ばした。
「いいね、次」
余裕綽々な様子でタルタリヤは突き出した剣先を[[rb:器用に> ていねい]]に受け止めて、そのまま横へと力を流して薙ぐ。
初撃を弾き飛ばされた蛍は、受け流された剣を一度離してもう一度持ち直す。振りかぶってもう一度、今度は剣の腹で袈裟斬りに。それもまた受け止められてしまうが、蛍は諦めずに何度もタルタリヤへと打ち込んだ。
「あはは、そんなんじゃ届かないよ」
しかしどれだけ打ち込んだところで、かすり傷ひとつつけられやしない。悔しい、悔しい、悔しくて仕方がない。強くなりたいのに、己の騎士にすらやり込められてしまうことが。
「……っ、むかつく!」
「うんうん、もっと打ってきなよ」
突いて、薙いで、叩きつけて。何度やっても軽くあしらわれるだけだった。剣を扱うものとして足元にも及ばないことに歯噛みする。
わかっていたのだ、騎士団の寮舎に乗り込んだあの日にタルタリヤ以外の騎士を倒せたことは偶然だって。王族である蛍にやすやすと剣を向ける度胸がある人間なんてそうそういない。それこそ、立場なんて気にしない人間か狂人くらいだろう。そういう人間を求めてあの場に赴いたのだから、後悔はしていない。それでも今の己が勝てるのはせめて同じ年頃の少年たちだ。きちんと剣術を学んで、体も成長した騎士に勝てるはずなんてない。
ストレス発散のはずが、むしろストレスが溜まっていく。汗で手は滑るし、侍女たちが結ってくれた髪も崩れているだろう。引っ込んだはずの涙がまたじんわりと滲んでくる。泣いてたまるかとまた歯を食いしばれば、衝撃と共に手にしていたはずの剣が飛んでいった。
「はい、終わり」
そう告げた男の顔は、やけにすっきりしたものだった。