隣に住むシリアルキラー兄弟に愛されすぎているアズール君 夏の暑さは情緒を壊し、本性も顔を出す
アズールは基本的に夏という物が嫌いだった。
「――あー……」
情けない格好だとかそういう事はどうでも良い。とにかく死なない、これが一番大事だ。
「まさかエアコンが壊れるとは思いませんでしたねぇ」
「災難だったねぇ」
アパートの屋上に置かれた小さなプールで、両手足を伸ばしてアズールはぐったりと水、というよりはお湯になりつつある物に身体をひたして呻いていた。もはや普段であればある程度は気にする見た目すらもかなぐり捨てたその姿にジェイドとフロイドはなんと痛ましいと大げさに目元を拭った。
明らかに面白がっているのだが、それすら今のアズールはどうこう言う気力が無かった。暑さは全ての気力を捨て去る物なのだ。
「しかし、こうまで溶けてしまってるアズールは貴重ですが、エアコンの修理はしばらく掛かりますし……」
「せっかくバケーションがっつり取ったのにねぇ。日頃の行い悪すぎじゃね?」
「……日頃の行いって、別に何もしてないですが」
濁った目のまま、ばしゃんと水をフロイドに掛けると、フロイドはうわ! と濡れた服を見下ろしてから
「息をするように嘘をつくなー……。てか、オレの服……」
「ふん」
機嫌を損ねたアズールに、ジェイドとフロイドは見合わせてにやりと笑い、フロイドは濡れた服をばさっとぬいで下着のまま小さいプールにばしゃんと飛び込んだ。
「止めろ馬鹿水がなくなる!」
「良いじゃんオレだって暑いんだもん。ジェイドもはいろー」
ジェイドはそれじゃあ遠慮無くと、ニコニコと既にぎし、ぎし、と限界になっているプールに足を突っ込み、アズールはバチャバチャと藻掻いて起き上がる。
「馬鹿止めろ! 二メートル近い男が二人もこんなの入ったら」
「そんな、酷いです僕ばかりのけ者なんて」
「そういう話じゃな――」
ビニールプールの形がぐにゃっと崩れて三人の身体に耐えられなくなったプールから水が勢いよく流れ、屋上の雨樋に向かって水が流れていった。
「ああああ僕の生命線!」
プールの底にフロイドの足ともつれて藻掻きながらアズールは悲鳴を上げ、フロイドは腹を抱えて笑い出した。
「やべー! 水全部流れていったんだけど!」
「おやおや、まあお湯に近かったから良いのでは」
「僕を殺す気か⁉」
しれっとしたジェイドに、若干泣きそうな顔で泣き言を言うアズールに、ジェイドは落ち着いてくださいと掴みかかってきた手を握りしめた。
「良いですかアズール。夏は暑いものです。貴方は今バケーション中。となれば、暑さを楽しむ、という方向に倒すべきですよ」
「……手を握るな暑い」
「暑いと情緒もなくなるね」
形容しがたい顔をして百面相し始めたジェイドをアズールから離し、フロイドは思わず真顔で呟いて、あ、とジェイドの肩を叩いた。
「じゃあさ、どうせエアコン直んないなら休みの間うちの別荘使おうぜ」
「……ああ、そういえばありましたねぇ」
「べっそう……」
そういえばこいつら金持ちだったっけ?
茹だった頭でぼーっとしたまま、アズールはいっしょに行こうと言われて頷いた。取り敢えず涼しければ他には何も要らないと、彼は若干判断力が鈍っていた。
「おかしいくらい暑い外を眺めながら冷房の付いた部屋で読書と温かい紅茶。これほどの贅沢はありませんね」
優雅に足を組んでソファに身を預け、アズールは涼しい部屋の中、積み上げた本の山を眺めしみじみと呟いた。
「滅茶苦茶元気になったねぇアズール」
「到着してエアコン付いて三十分でこれというのは、本当に……」
くっくっくっと肩をふるわせて笑いをなんとか誤魔化そうとするジェイドを、フロイドはよしよしと背中をさすってやり
「アズール、夕飯は外で肉焼こうー」
と思いついたようにアズールに言った。
「え」
「露骨に嫌な顔するじゃん」
「この辺りは確かに暑いですが、日が落ちると大分涼しいですよ。焼くのは僕らがやりますし」
ジェイドの言葉にアズールはそれでもうーんと呻いて考え込んだ。
「……そもそも、僕は良いとしてそれでお前達なんの得があるんです? 暑いし、汗はかくし、何だったら食事も後回しになるじゃないですか」
ごろりとソファに横になってだれながら、アズールはクッションに埋まって呟いた。
「……得、ねぇ。相変わらずアズールはそっちに結びつけるよね」
「何かおかしいですか」
「そうですねぇ。まあ、得というか、アズールが何か食べているときの顔を見るのが好きなので」
ジェイドはそう言って、アズールはなんだそれは⁉ とがばっと起き上がった。
「人を茶化すのも大概にしなさい」
「えー、別に嘘じゃねーけど? 味が分かるから手を掛けたのすぐ気付くし、食べるときは凄い食べるし」
そう言うものか?
アズールは考えたが、既に彼らのおかげで満喫できている状況に、これ以上水を刺すのもと思って黙ることにした。何より普通に考えて彼らに支払わなければいけない対価を考えれば目眩がする。
「まあ、良いですけど」
「んじゃ、日が落ちたら始めよ」
機嫌良くキッチンに立ったフロイドに続いて、ジェイドが準備をするためにと外に出ていった。
――困った
残されたアズールは、どうしようと思わず腕を組んで悩み始めた。貸し借りはしない主義なのだが、アズールはこの双子になんだか言いようにどんどん借りを積み上げている気がしていた。
「なあにアズール。さっきからコロコロ顔色変わってるけど。タコみたい」
「たっ……タコ……?」
「そう。あいつら色変わるじゃん。あ、オレたこ焼き好きなんだよねぇ。せっかくだからたこ焼きもやろ。ほらこれ見て」
妙な形の焼き型を持ち出し、フロイドはアズールにそれを見せた。
「なんですそれ」
「だから、たこ焼き用のプレート。わざわざ日本語のサイト調べて買ったんだー。アズール、ソースと醤油どっちが良い?」
「味に違いがあるのか」
「あるよ。ていうか食べたこと無い感じ? じゃあ両方用意しとけば良いか。タコも丁度良いのがあったし……」
機嫌良く下ごしらえを始めたフロイドに、ふと思いついてアズールは立ち上がって彼の側に立つ。
「何? どうかした?」
「確かジェイドもタコ好きですよね」
「うん、タコのカルパッチョ。あんなにキノコがどうとかやたら押してくるのに、好物全然違うんだよねぇ」
「……はあ。そこはまあ何というか……。取り敢えず貸してください。それくらいなら僕も作れます」
「マジで? じゃあオレの分も」
「……はいはい」
アズールは手慣れた動きで蛸を処理し始めた。
――そういえば、ジェイドもフロイドも僕が包丁を使うのをやけに真剣に見ている……?
「なんですか? 僕の包丁の使い方が気になるんですか?」
「……ん? んー……上手いなーって思って」
「はあ……」
それだけでは無い目つきと雰囲気だった気がしたが、アズールは取り敢えずそれ以上問いかけることは止めることにした。
――どうせ大したことでもないだろうし
ぶち、と蛸の身を薄く切り始めた様を、フロイドはじっと見つめながら機嫌良く眺めてていた。
ジェイドの言っていたとおり、日が落ちてくると外に出てもまだ耐えられる暑さで、特に二人の別荘は立地条件が良いのかどうにか過ごせた。ランタンの明かりを付けて肉を焼き、テーブルの真ん中に置いて切り分けて、ワインを開ける。
「このカルパッチョ、とても美味しいですね」
ジェイドは汗を拭って席につくと、アズールが作ったカルパッチョを頬張りかなり機嫌が良かった。
「このソース、オリジナルだよねぇ」
「ええ、母が店で提供していたやつを、更に僕の好みに合わせて少しずつ改良したやつですね」
「ガスパチョは?」
「それは、僕が色々お店を回ってアレンジをしながら作りました。母のレシピとは違うと思います」
「へえ、美味しい」
「そうですか。フロイドの作ったソースも美味しいですよね。随分ハーブとかを使うんだなとは思いましたが」
「ああ、そうそう。臭みのある肉をさ、調理することが多かったからどうしたら臭いが消えるかとか、色々試してさぁ。牛肉は少しまだ少ない方だけど」
フロイドの言葉に、アズールはなるほどともう一切れ口に運ぶ。焼き加減も丁度良く、咀嚼して味わい飲み下す。
「臭みのある肉……。ラムとかマトンとかですか」
「……そんなとこ」
にこ、とどこか含んだような笑みを浮かべてフロイドはじっとアズールを見つめていた。それはジェイドも同じで、フロイドの視線からそらすとジェイドの方に視線がかち合う。
――なんでか、二人とも時々落ち着かない感じになるというか
アズールはそう思いつつ、ワインを少しばかり飲んで、酒の勢いと言う事にして二人をじとっと睨んだ。
「なんですか人の顔じっと見て」
二人は瞬きをしてから
「ああすみません。あんまり食べている姿が幸せそうだったので」
「アズールだってオレらが食べてるところ見てたでしょ」
「そうなんですけど。二人のはなんて言うか……時々こっちが食べ物になったみたいな……」
ふっと二人の動きが止まり、一瞬空気が冷たくなったような気がしてアズールは二人を見つめた。
「あ、えーっと。いや、なんて言うか」
空気に耐えられなくなりアズールは思わず誤魔化すように手を振って、話を変えようとした。
「ふふ、では仮に、食べさせてくれと言ったらどうします?」
目の前の料理の話をするように、するりとジェイドの口からそんな言葉を言われてアズールは口の中のトマトをまるごと飲み込みそうになり咳き込んだ。
「冗談にしては……本気に聞こえますよ。ねえフロイド」
「……んー? そうだなぁ。オレはアズールのここら辺美味しそうだと思うんだよねぇ」
とんとん、とフロイドも悪ノリか自分の鎖骨、首の辺りをなぞってにっと笑い、
「僕は頬が良いですね。ああでも、二の腕の辺りも柔らかいですよねアズール」
ふわ、と何故かひやりと冷たい風が吹き抜けた気がしてアズールは思わずごく、とつばを飲み込んだ。
「……は、はは」
笑って、取り敢えず何を言っているんだと答えると、ジェイドとフロイドはつられて笑い
「ふふ、ちょっとアズールが狼狽えるのが面白くて」
「涼しくなったでしょー?」
面白がる二人の言葉に、思わずほっとしてアズールは
「お前達のは冗談に聞こえないんですよ。もっとなんとかならないんですか?」
この間のエイプリルフールといい、とブチブチと呟くアズールに、ジェイドとフロイドは軽い調子で謝った。
ひやりとした風が吹き抜け、アズールは何となく腕をさすりながら、手元のたこ焼きを口に運んだ。
「どー? 美味しい?」
「そうですね。少し変わった食べ物ですが……。それにしても、こっちの出汁醤油味は滅多にこちらでは手に入らないですよね。鰹節も」
「そうだよ。だからとっておき。ソースもね、向こうのソース使ったのが一番良いんだよね。これにマヨネーズと青のりつけるの」
「お、思ったより高カロリーだな」
「そう? 良いじゃん。オレはソースが好きかなぁ。アズールは?」
「出汁の方が好きですね。生地にしみた感じが少し変わってて」
「僕はどちらも好きですね」
ひょいひょいとジェイドが機嫌良く一口でたこ焼きを口に放り込み、アズールはいっそ清々しい食べっぷりだなと瞬きして眺めた。
「……まあ、それだけ食べると作りがいもありますね」
「え、また作ってくれんの?」
「ええまあ。食べさせて貰うばかりではどうかとは思いましたので」
「それは……嬉しいですね」
ジェイドはやけに嬉しそうにアズールを見つめて微笑んだ。裏のある顔では無い。それは、何となく分かった。
「……そんなに? まあ、確かに僕もそれなりに……出来ると自負していますが」
照れから思わず早口で胸を張るアズールに、ジェイドとフロイドは、すぐにいつもの人を食ったような笑みを浮かべた。
「……まあ、勿論アズールの作る物が美味しいのもそうですが。アズールの手を見ているのが好きなので」
「は?」
「そうそう、さっき作ってた所、見ててもやっぱりねぇ」
ニコニコとお互い顔を見合わせて楽しげに笑う二人に、アズールはよくわからないな、と眉間を押さえた。
「なんだそれは」
「プロ、と言って良いでしょうアズールは。そういう人の手の動きは、見ていてとても気持ちが良い物です」
「そう言うものですか」
アズールは最後の一口を口に入れて、不思議な感覚を持つ者もいるのだなとぼんやりと考えていた。
波の音が遠くに聞こえ、アズールは中々寝付けずに起き上がった。ふと違和感に気付き、すぐに呻いた。
何のことは無い。いつもなら腰やら身体に絡みついているジェイドとフロイドがいないのだ。
――そういえば、ここでは二人とも自分の部屋で寝ているんだったか
それが普通なのでは? という頭の中の囁きに、アズールは思わず手で虚空の何かを追い払うように振ってから立ち上がった。
家の中はひんやりとしていて、ここの所寝不足だったアズールからすればよく眠れるはずである。廊下を歩いてトイレに行き、水を貰おうとキッチンに立ち寄ったアズールは、戻る道で何かの声を聞いた気がした。
――なんだ? どこから……
潮騒のような、そうでないような低い音は、歩いて行くと人の会話のようなものに聞こえてきた。
――ジェイドとフロイドか?
声のする方に近づくと、声はわずかに一部が聞き取れるようになってきていた。
それはどうやら地下の物置のようで、アズールはこんな時間にか? とドアを開けた状態でどうするか考えた。声をかけるべき、と思ったが先ほどジェイド達にされた悪戯を思い出して、アズールはそっと足音を忍ばせて階段を下り始めた。後ろから脅かしてやろう、という、子供のような発想で、彼はらせん状の階段の曲がり角で立ち止まった。
「アズール機嫌良さそうだったよねぇ」
「ええ、そうですね」
二人の声がコンクリートの壁に反響していた。物置と言うよりは、以前二人の部屋の、開かずの間のような場所のようだった。アズールはどのタイミングで声をかけるか考えて、その場にじっと立っていた。
「それにしても、僕も見たかったですねぇ。アズールの作業」
「すげーよ。綺麗に蛸とか捌いてたし」
褒められて悪い気はしない。アズールはまあ、そうだろうけど、と若干気分を良くして、大声を上げるのは止めよう、と考え直した。
「手さばきがやっぱ違う感じだったなぁ。すげー美味しそうでさぁ。噛みついたらどんな感じかなぁ」
何がだ?
話の流れがおかしくなり、アズールは思わず身を強ばらせた。ジェイドもおやおやと笑い
「危なくアズールを調理するところだったみたいに聞こえますよ」
「だって、ジェイドがいたら多分同じじゃねーの。なんか、ここは昔を思い出すせいかつい」
「確かに、今日同じベッドで寝ていたら」
アズールは、震える膝で階段を音も無く上り、逃げるようにベッドに飛び込んだ。心臓が早鐘を打ち、大きく深呼吸して押さえ込む。
落ち着いてきて、アズールはふうっと冷静になって考える。
――多分……あの部屋のどこかに鏡でもあったんだろう。それで自分が隠れていることを知った二人が、面白がって人を怖がらせようとしたんだ
そう思うと、まんまと騙されたのでは? と思ってアズールは思わず悔しさに歯を噛みしめた。
「はあ……、疲れた」
眠気がようやっとやってきて、アズールはうとうととしながら天井を見上げ、やがて眠りに落ちていた。
お兄さん怖い話とか好き? 十年前くらいだったか、この辺りで行方不明者が結構出た事があるんだよ! 観光客だって。警察も調べたらしいけど分からずじまいでねー。気をつけなさい。妖精にでも連れてかれないように!
「はぁ……」
捲し立てる市場の店主に、アズールは曖昧に頷き、買った野菜類を受け取った。
「今はそういう話は無いんですね」
「ええ、毎年夏になるとねえ。いたんだけど。まあ海に攫われたりなんてのは良くある話なんだけど……ある所からぱったり」
「なら、よかったですね」
「本当にね。まあでも海に行く時は気をつけなさいよ」
「ご親切にどうも」
挨拶してその場を離れたアズールは、別荘への道を歩きだした。食べ過ぎた己を罰するように、暑い日差しの中、じわじわと背中を焼かれながら坂道を登る。
「ふう」
途中で少し立ち止まり、別荘を見上げる。岬の方は高級別荘地なのか、他にもいくつか別荘が立ち並ぶが、その中でもかなり立派なのが、あの別荘らしい。
――あまり深い話を聞いたことは無かったな
自分の家族のことなど触れられたくないという感覚からここまで詳細を聞かずに来てしまった。普通なら金持ちの子供と言う事なら利用したいから色々調べたりする物なのだが、彼らに対しては何となくそれが憚られた。
友情だから、なんて物では無いだろう。以前少し聞いた事があったが、あの時、それを聞いたら教えてくれるが何か……面倒な事になりそうだと、勘が告げていた。一応、アズールの勘はそれなりに当たる方だ。
荷物を持ち直して、アズールは坂道を上り始めた。
「アズール、おつかれー」
「うわっ!」
道の途中、石垣が壊れて木や草が生い茂っているところでから突然フロイドが顔を出してきた。
「あは、びっくりした?」
「しますよそりゃ」
荷物をアズールから受け取り、フロイドはニコニコと機嫌良く鼻歌を歌いだした。
「この暑いのに隠れてたんですか?」
「えー? 違うって。なんかここの先にさ、古い要塞? の跡地みたいなのがあってさぁ。廃棄するときに埋めたんだって-」
「はあ」
「で、この穴はこの辺りの別荘作るときにうっかり重機が崩したらしくて、中は入れるようになったんだって。ガキの頃ここよく潜って遊んだんだよねぇ」
「ああ秘密基地、てきな」
「そうそう」
道を上りながらアズールは穴の方に目をやり
「それにしても、下で聞きましたけど……。人が行方不明になることもあったらしいのに、危なくなかったんですか」
「…………なにそれ」
少しの沈黙の後、フロイドはニコニコと首をかしげて問いかけた。
「なんか、夏になると観光客がちらほら行方不明になったことがある、と」
「そうなの? オレそれは知らなかったなぁ。ジェイドなら知ってるかも」
フロイドはそう言って後ろを見つめているアズールの手を引いた。
「暑いし早く帰ろー」
「え、ええ」
昨日の夜の話は二人からは結局ここまでずっとされず、アズールは違和感を覚えながらフロイドと並んで歩き出した。この二人の感覚なら、揶揄った事を絶対アズールに言うはずだろうに、朝起きて目を合わせられないアズールを、二人は怪訝そうに眺めるだけだった。
「ただいまー」
家の中に入ると涼しさにアズールは息をついて、キッチンにいるジェイドの元に買い物の紙袋を置いた。
「ああ、ありがとうございます。随分のんびりでしたねぇ」
「店の人にずっと話しかけられてたんですよ。止める間もない、とはああいうのを言うんでしょうね」
「おやおや。どんな話を?」
「ああ、この辺りで行方不明者が昔結構いたという、話です。フロイドは知らなかったようですが……ジェイドは知っていますか?」
皮むきをしていたジェイドは、一瞬手を止めてから首をかしげ
「さあ、どうでしょう。うっすら聞いたかも……というくらいでしょうか」
「そうですか。まあ地元の人と、夏にしか来ない人間では認識に差はありますよね」
「そういう事だと思います。それにしても、なるほど……。そういう風に」
ジェイドはブツブツと呟き、アズールは
「何か気がかりでも?」
と思わず問いかけた。
「いいえ。別に。さあ、二人とも。作業の邪魔ですからあっちに行っててください」
せき立てられてアズールとフロイドはリビングに放り出され、フロイドはふて寝でもするようにソファに転がった。アズールは少し考えてから、部屋に戻ることにして立ち上がった。
「あれ、アズールどこ行くの?」
「部屋です。まだ読んでない本が沢山ありますから」
「ふーん? 飽きないねぇ」
アズールは適当に手を振ってリビングから出て廊下に出た。キッチンからはジェイドが何か作っているのか、肉の焼ける匂いと油の跳ねる音が聞こえてくる。今日は何が出るのかとぼんやり考えていると、アズールはふと何か妙だ、と気付いて立ち止まった。
――あれ? 確かここは
何がおかしいのか、間違い探しのように記憶を探ってアズールは気付いた。
――おかしい。この辺りに確か……ドアが、あった筈
そこは夜ジェイドとフロイドが会話をしていた地下室への入り口があった場所の筈だったが、ドアがあった筈の場所は何故か戸棚のような物が置かれていて、夜、ドアがあったとは思えないようになっていた。
そうだったか? 確か、この辺りだったはず
他の調度品などを見てもそこにドアがあったのは確かで、アズールは背の高い戸棚に近づいて横を覗き込んだ。
「……ん?」
よく見ると、戸棚の後ろが少し隙間があり、戸棚は少し動かすと容易に横にスライドした。足下にレールのような物は無いが、棚の足に何かコロのような物が仕込まれているらしかった。
押してみると昨日見たはずのドアが現れ、アズールは少し悩んで廊下の端を見つめた。誰もいる様子は無かった。
こんな事をしている場所に立ち入るのは良くない気がした。が、夜にあの二人が話していた場所の様子が気になった。
――階段の所から少し覗いて、すぐに戻れば
アズールはドアを開けて、階段の下へ足を踏み入れた。気のせいか、昨日は気付かなかったがパイプスペースでもあるのか、やけに鉄さびの匂いが鼻についた。きしむ踏み段を音を立てないように降りていくと、コンクリートの床に、若干古い煉瓦が見える地下室にたどり着いた。
――まるで古い要塞の跡のような?
フロイドが説明してくれた内容がふと頭の中に蘇り、アズールは好奇心から壁の側に近づいていった。
「最近作られた物じゃ無い……な」
声が反響して思ったより大きくなり、アズールは思わず口を押さえて、辺りに目を向けた。鏡や、それに当たる物はどこにも無く、二人が立っていた場所からアズールは見る事が出来ないようだった。
――それなら、あの時のあれは……?
自分が見えていたわけでは無いなら、あれはお互い冗談を言っていたわけでは無いと言う事になる。
それにしても、言っている内容がどうにもおかしい。アズールは訳が分からない、と首を振ってさっさと戻ろうと振り返った。
「あれぇ、アズール何してんの?」
「……フロイド」
音も無く、あと一息で手が届くところに立っていたフロイドは、にこ、と微笑んでアズールを見下ろした。
――全く目が笑っていない
人の家の中を勝手に探られれば誰だって苛つくだろう。流石に弁明できず、アズールは素直に謝った方が良いと判断した。
「いや、その……申し訳ない。夜、廊下を歩いていたときドアがあったのに、さっき見たら無かったから……見間違いかと思って」
「ここ、古い要塞の地下通路? なんだって。親父が工事中に掘り当てて、おもしれーからって言ってこんな風に改造したんだって」
「な、なるほど。だから壁が古い煉瓦のままなのか」
「そうそう」
こつ、とフロイドが一歩前に出て、アズールは思わず後ろに下がった。ガタン、と作業台らしき机にぶつかり、よろめいてアズールは台に身体を寄りかからせた。それを、フロイドは見つめて、更に一歩近づいてきた。
「なあに? なんで逃げるの?」
「い、いや逃げているわけでは無い、ですけど。ちょっとそのー、近いっていうか?」
怒っているのか、どうなのかが分からず、アズールはフロイドを見上げて更に近づいてくる彼の身体に手を突き出して押しのけようとした。
「そう? 別にそこまででも無いと思うけどなぁ」
うわっと声を上げてアズールは台の上に倒れ込み、フロイドがアズールを台に引っ張りあげて身体を押さえつけた。
「ふ、フロイド、待て。あの、勝手に家捜ししたのは申し訳ないと……思って」
押さえ込まれたアズールは、そう言いながら藻掻いたが、肩にフロイドが顔を近づけてくると思わず顔を引きつらせた。やけに息が荒いフロイドの目は、こう言ってはなんだがここ最近よくわからない連中に襲われたときの、あれによく似ている気がした。
「いっ……た⁉」
甘噛みなどという可愛い物では無い、肉を本気で抉りそうな強さでフロイドの歯がアズールの肩に食らいつき、アズールは足をばたつかせて悲鳴を上げた。
ぶつ、と皮膚が裂けた音がして、アズールはフロイドの髪を必死に引っ張って、やめろと叫んだ。
「やっぱ、肩の部分柔らかいよねぇ」
口を離し、にた、と笑ったフロイドはアズールの目元に滲んできた涙を舌ですくい上げる。
「フロイド。駄目じゃないですか」
「じぇ、ジェイド……」
助かったと、アズールはがぶがぶと手に噛みついてくるフロイドをどうにか制しながら
「ジェイド! 早くフロイドをなんとかしてください!」
食われる! と叫ぶアズールに、ジェイドは手を伸ばしてアズールの頭に手を置いた。
「抜け駆けなんて酷いです」
ぐっとジェイドの手に力が入り、頭がのけぞりアズールの喉がぐっと露わになった。以前、何かの映画で喉を噛みちぎられた人間のシーンが出て来たことを思い出して、アズールはひゅっと息を詰めた。これまでに無いほどに、死が近いと感じた。
喉にジェイドの歯が当たり、アズールは思わずまぶたをぎゅっと閉じて、フロイドに押さえ込まれた手をガクガクと震わせて次に来る痛みを耐えようと待った。
「……っ!」
舌が喉をなで上げ、思っていた物とは違う刺激に思わずびくっと身体が反応した。
「……は……っ、ジェイド?」
「はい、何でしょう」
覗き込んできたジェイドの目はやはりフロイドのようにやけに爛々としていて、押さえる手は若干震えていた。
「……な、何で、お前達……」
「そう言うもの、だからと言うべきでしょうか」
「そういう……?」
フロイドの手の拘束がふっとなくなり、アズールのお腹にフロイドが手を回してきた。思わず囓られるのではと固くなるアズールに、フロイドが眉を下げてアズールを下から見上げた。
「ごめんってばぁ。ちょっと我慢出来なかっただけだし」
「我慢……ちょっと? どこが?」
よれたシャツをたくし上げ、アズールは藻掻きながら台の上に座り込んだ。肩は引きつったように痛く、呻く彼をジェイドとフロイドは食い入るように見つめていた。
「好意を持った相手に噛みつきたくなるんですよ。僕達」
「は……?」
なんだそれは、と呟いたアズールに、ジェイドとフロイドはすまなそうな顔をして
「そのままの意味ですね」
「だからさぁ、今までもすげー我慢してたんだよ?」
「な、なんで……。いや、好意? お前達、友人に齧り付くのか……。それは」
面倒な性質だな、と思わず冷静になってきたアズールに、二人はうーんと首を振って
「いや、友達っていうか?」
「友人にはあまり感じないんですよ。特別でないので」
「はあ……」
曖昧に返事をしてから、アズールは違和感に思わず顔を引きつらせたが、二人の視線が妙に痛く、それを口にするのは躊躇われた。状況は自分に果てしなく不利だった。
「……まあ、今後はもうやらないでくださいよ」
そう言って、台から降りて逃げようとするアズールの身体を、連携の取れた二人の動きがしっかり掴んで引き戻す。
「アズールさぁ、ちょっと待ってよ」
「ちゃんと話を聞いていましたか?」
「……は、はは」
思わず視線を逸らすアズールに、ジェイドとフロイドはため息をついて
「まあ、いきなり言われたらびっくりするのは分かります。でも、誰彼構わず、と言うわけでは無いんですよ」
「ついさぁ、アズール見てるとかじりたくなると言うか」
「すっごい迷惑です。なんか、代替案とかないんですか?」
二人は少し考えてから
「……そう、ですね。我慢し続けると今回のフロイドのようになるのは確実なので」
「ええ……」
「いわゆる、性衝動が破壊衝動に捻れてしまったというか、そういう感じなので。今回フロイドはこの程度ですが、もし我慢しろと、言うのであればいずれ本当に肉まで噛みちぎるかもしれないですね」
「そ、そんな……」
なんだか今さりげなく変な単語があった気がするが、アズールは噛みちぎられたら嫌だと思わず顔を青ざめさせた。
「な、なんか無いんですか?」
「あまり、良い案とは言えないですが」
ジェイドはちらりと含むような目つきでアズールを見つめ、フロイドは殊勝に眉を下げた。
「オレたちねぇ、アズールが好きでさぁ」
「は」
「あるじゃないですか、食べたいほど可愛いみたいな。そういう」
「……あれは、いわゆる……たとえ、というやつで、ですね。現実にしようとする奴がいるか」
絞り出すように呟いたアズールに、ジェイドとフロイドはにこ、と笑みを浮かべて
「それはほらここに」
「ねえ?」
「くっ……、そ、それでその、僕が好きだ、として何をすれば」
アズールは思わず思い至った行為の可能性に思わず黙りこんだ。かっと顔が赤くなった様に、ジェイドとフロイドは理解して貰えたようだ、と重々しく頷いた。
「勿論、強要なんてしませんよ?」
「オレたちはぁ、納得した上でアズールがそうしてくれたら良いなって思ってるからさ」
「……っ、それは……!」
柱時計の音が鳴り、ジェイドはああ、と手を叩いた。
「そうそう、食事の用意が出来てたんですよ。冷めてしまいますから早く食べてください」
「腹減ったー」
階段を上がっていく二人を、アズールは呆然と眺めて、慌てて台から降りて、ふらふらと階段を上っていった。
チリチリとフロイドに噛まれた肩が痛く、悪態の一つもつきたい気分で地下から廊下に出た。
――誰が誰を好きだって?
そんなもの、血を吐くような努力をして手に入れた地位やら何やらのおこぼれに預かろうと近づいてきた人間が囁いてきた物しか知らない。
――でも、あの二人は別にそう言うものはもう持っているし……
働かなくても良いあの二人が自分の持っている物に興味がある素振りは見せたことが無い。アズールは悶々と悩んで思わず立ち止まり、頭を押さえた。
――それこそ、自分に興味がある、とは最初から言っていた。言っていたが……
「アズール?」
「うっあはい!?」
いつまでも来ないアズールを、ジェイドが部屋から出て来て怪訝そうに見つめた。何も無かったような顔で、彼はいつものようにアズールに近づいてきて微笑んだ。
「せっかくの料理が冷めてしまいますよ」
「あ、ああ」
当たり前のように腕を引いて部屋に導く腕に、狼狽えてアズールは俯く。
「アズール、早くー」
やはり何も無かったようにフロイドが椅子を引いて、アズールを席に座らせた。肩を触れる手に、何も今まで感じていなかったのに、痛みと同時に頬に熱がかっと走るようで、どうにか何でも無い、今まで通りに振る舞おうと咳払いをした。
「さあ、それじゃあ食べましょうか」
「はーい」
二人は機嫌良く食事を始め、狐につままれたような感覚のまま、アズールはのろのろとフォークを手に取った。
何が何だか全く分からなかった。
部屋に戻っていったアズールを見送って、フロイドはジェイドに目を向けた。
「アズール、完全に混乱してるじゃん」
「そもそも、フロイドがつまみ食いをするからでしょう」
誤魔化す側の身にもなってください、とジェイドはため息をついた。
「それはまあ、いずれは次の一歩、とかそういうのは考えていましたけど。こういう流れとは思わないじゃないですか」
「結果的には良かったんじゃねーの」
楽観的とも言えるフロイドの言葉に、どうでしょう、とジェイドは考え込んだ。
「ジェイドもさぁ、咄嗟に考えてたって言うけど、ちょっと露骨じゃん。セックスするか大人しく噛みちぎられるかどっちかしか出さないのってどうかと思う」
「まあ、一応三番目の選択肢も無くは無いですよ」
「逃げるって? どうだろうねぇ。もしそれされたら」
フロイドはふと黙りこんで、ジェイドへ視線を向けた。ジェイドはにこやかな表情は崩さないまま、ドアの向こうに一瞬目を向け
「そういう事はないと思いますが。まあ、万が一は考えておきましょうか」
「自信満々……」
「そういう訳では無いんですが……。ちょっとこうしてみようかと」
耳元に囁かれた兄弟の提案に、フロイドは相変わらず、とおもしろがりつつも眉をひそめ
「ジェイドって本当にねちっこいよねぇ」
「失礼ですねぇ」
ジェイドはそう言って紅茶を飲み、フロイドは暑さで陽炎でも出そうな外の方に目をやっていた。
肩がちりちり痛い。
アズールはシャワーを浴びようとして鏡に目をやり、赤く点々と残るフロイドの噛み跡をそろりと鏡で眺め、手でそっと触れてみた。若干尖った歯だったのは覚えていたが、かなりしっかり残っている跡に背筋がぞわりと寒くなってきた。ピリピリと痛い肩に眉をひそめながら髪を洗い身体を洗って、アズールはシャワールームから出る。視線を巡らせて彼は思わずうわっと呻いて、ベッドに小さく――なるべくそうなったら良いと思ってそうな顔で――なって座っているフロイドに気付いて後ずさった。
「な、なんですか?」
「んー、お詫び」
抱えていた救急箱を見せたフロイドに、アズールは別に良いですよと手を振って、ドアの方を指さした。
「大したことじゃ無いですから。気にしないでください」
「手当くらい良いじゃん……」
しょんぼりと、さながら粗相をした大型犬のように眉を下げて肩を落とすフロイドの姿は、どうにも弱く、囓られたという事実よりも若干胸の痛みが勝ってしまっていた。
――く、悔しい。それこそ散々鉄面皮だとか言われていたこの僕がこんな事で動揺するなんて
「アズールぅ」
「……わ、分かりましたよ。じゃあお願いします。……他に何もしないでくださいよ」
ベッドの縁に若干乱暴に座ったアズールに、フロイドがマットレスをぽんぽんと揺らして近づいてきて
「しないしない! すっげー我慢するから!」
「我慢……」
若干どころか相当不安なまま、アズールは思わず呟いた。ガチャガチャと救急箱を漁る音と共に、フロイドの手が思っていたよりも柔らかくアズールの肩に触れて眺め、後ろからボタンを器用に外してシャツをずらした。
「一応消毒液付けるから」
「ええ」
アルコールのひやっとした感触とともに傷に消毒液を付けられ、アズールは思わず沁みる痛みと冷たさに情けない声を上げた。
「沁みる?」
「それなりには」
滴る消毒液を拭い、丁寧なフロイドの手つきにアズールは若干感心してじっと見つめ
「随分手慣れてる気がしますね」
「んー、オレ昔から怪我多かったからさぁ。ジェイドとかにもやって貰ってたけどいないときとか自分でやんないとで。だから慣れた」
「なんでそんなに怪我が多かったんです?」
「ちょっと強そうだなぁって思った奴と勝負したりとか? あとパルクールやってたときによく転んだりとかして」
「なんでそんなアグレッシブなんだ……」
それでもその様が容易に想像できて、アズールはため息をついた。フロイドの手が離れて、終わったのかと思って振り返ると、彼はいつもの眠たげな笑みではなく、やけに真剣な顔でアズールを見つめていた。
「どうかしました?」
「アズールはさぁ、オレとジェイドのことなんだかんだ信用してるよねぇ。だってオレがこうして手当てするって言って、好きにしてたかも知れないんだし」
「それは……」
少し考えたのは確かだ。何しろ噛みつかれたとき、フロイドの雰囲気はそれこそ今まで襲ってきた連中とどこか似ていたのは確かだった。
「僕だって別に何も出来ないわけでは」
「出来る? 本当に? 人間って結構簡単に動けなくなるもんだよぉ?」
フロイドの腕がアズールの身体を抱えて、アズールは思わず立ち上がろうとして力を入れてた。びくともしないフロイドの拘束に、どくっと心臓の鼓動が高くなる。
「……!」
「ほらやっぱり」
ぱっと手が離れてフロイドが立ち上がり、アズールの前へ移動した。そのまま、しゃがみ込んでアズールを見上げると、困惑する青い目と視線がぶつかった。
「まあ、オレは嬉しいけど。えへへー、こういうのはちょっと初めてだからオレも新鮮なんだけど」
「そうなんですか?」
「そうだよー。だって他人とか、どうでも良いし。食うか、食われるかって話じゃん」
フロイドは、そう言ってにや、とアズールを見つめた。文字通りの意味で言っていることなど、きっと彼は気付かないだろうとフロイドは考えながら、アズールの頬に手を伸ばしてみた。アズールは、一般的な比喩として受け取って、頷いた。
「それは、まあそういう面も、ありますね」
「……んー、まあアズールも割とやり方はどうあれそういう感覚だよねぇ」
そう言いながら、フロイドは首をかしげて
「あと、やられたらやり返すよね」
「ええ、勿論」
きっぱりと言い切るアズールに、フロイドは面白いなぁと笑いながら
「じゃあ、オレにされたこともやり返す? オレは別に良いよ」
「やり返すって」
ほら、とフロイドが自分のシャツを引っ張り肩口を開いた。
「え……」
「目には目を、って言うじゃん。オレがしたくらいの強さで噛んで良いよ」
「いいよ、と言われても」
アズールは思わず眼鏡に触れながら、狼狽えたようにフロイドの肩を見つめた。
「僕はそういう……性癖は持ってないですし、そんなことしても」
「でも分かりやすくやり返せてお互いトントンになるじゃん」
「……まあそうですけど」
「じゃあ、何も問題ないじゃん」
そうなのだろうか。何かおかしい。おかしいところしか無い。いや変だろう。
頭の中で何種類かの言葉が浮かんできたが、かといってフロイドに納得できるような代案を今すぐに出せるか、少し考えても思いつかなかった。噛まれたくなどはない。
――めちゃくちゃ嫌な思いをすればやらなくなる、と犬の場合は言いますし。いやフロイドは犬じゃ無い、けど!
ちらりとアズールは自分の身体に腕を回して腕の中に収まっているフロイドを見下ろした。今のこれはやはり大型犬か何かのように見える。
――小さい頃犬飼えなかったんだよな……。
リストランテの衛生のためと、お説教された頃を思い出して、アズールは若干遠い目になり、ぐいっとフロイドに引っ張られて現実に引き戻された。
「早くー」
「う……」
物理的に他人に傷を与えるというのはあまりしたことが無い。スマートでは無いというのが心情だったが……。
――これは、もう犬に躾けると思って……
アズールはフロイドの肩に手を掛け、ぐっと口を開けた。人間の身体なんて囓ったところで美味しい物でも無い。
――まず多分、汗とかの塩分? あるだろうな……。血は……錆の味か?
癖でそんなことを考えながら、アズールはフロイドの肩に口を当てた。
「くすぐったいー」
「ふぐ……」
おもしろがっているフロイドに思わずイラッと、それこそさっき痛い目を見た自分を思い出して、アズールは思わず顎に力を入れた。ふっと息をフロイドが吸い込んだ気配に、ざまあみろ、と思った瞬間、身体に回っていたフロイドの手に力が入った。
――流石に痛いか?
思って口を離そうとしたアズールの頭を、フロイドがぐっと手で押さえ
「ねえ、全然痛くないんだけど……。こんなもんだったオレ?」
たいしたことなかったかなぁと言い出したフロイドに、そんなわけが無いだろうと噛んだまま言おうとして、けらけらとフロイドが再びくすぐったいと笑った。
「まだまだ全然だよー?」
「うぐぅ」
更に顎に力を入れ、フロイドの皮膚に歯が食い込んだ感触を感じ、アズールはフロイドが泣き言でも言うかと待ってみた。
「まだ血も何も出てないけど?」
「っ!」
ぶつ、と皮膚を破くような感触が伝わり、アズールの口の中に鉄錆の味が広がった。
「んー、ちょっと食い込んできたじゃん。ほら、アズールもっと力入れてみてよ」
趣旨が変わってきていないか?
口には出来なかったがアズールは思い、身体を離そうとした。その身体をフロイドが押さえ、アズールの肩に頭を預けるように傾けた。
「ぐ……」
鉄さびの匂いと味が唾液と混じり、アズールはどうなっても知らないと、肉を噛みきるつもりで歯を立てた。
「いってー! あは、めっちゃくちゃ痛ーねこれ」
満足したのか、押さえていたフロイドの手がなくなり、アズールは、はあ、と息をついて顎から力を抜いた。溜まっていた唾液が口から溢れそうになる感覚に、アズールは慌てて喉の奥に押しやろうと舌を動かした。わずかにフロイドの肩に舌が触れて、彼の身体が露骨に跳ね上がった。
「……あ、すみません。ちょっと今……」
唾液が、と口を拭うアズールにフロイドは別に平気と、若干ざらついた声で呟いた。
「と、とにかくこれでお互痛い思いをした、という事ですね」
「……ん、んー。そうだねぇ」
妙に煮え切らないような、歯切れの悪い声にアズールは身体を離してフロイドを睨み付けた。
「なんですか? まだ何か問題でも」
「問題、んー、問題って言うか……」
ぽり、と頭を掻きながらフロイドはけろっとした顔で
「良い事思いついちゃったオレ」
「なんです?」
「ほら、ジェイドが言ってたじゃん。噛みつかれるか」
「ああ、はい。その……」
思わず遮るように頷くアズールは青くなり、すぐに赤くなったアズールをフロイドはにこやかに眺めて頷き
「ジェイドはわかんねーけど、俺はねぇ、さっきみたいにアズールが俺のこと、噛んでくれたら結構いけるかも」
何がどういけるんだ、と聞き返しそうになって慌てて飲み込み、アズールはなんだそれは、と眉をひそめた。
「えー、良いと思うんだけどなぁ。駄目?」
「……顎が疲れるんですよ」
「肩だったからねぇ。例えばさ」
フロイドの指先がアズールの耳たぶ、手首をなぞり
「こことかなら疲れないでしょ」
「……いや、あなたまさかマゾヒストなんですか?」
「違うけど。さっきのは良い感じだったから」
「はあ……」
よくわからない、という顔のアズールはそれでも頭の中でどうにか理解できる範囲で考え始めた。自分が痛い目に遭うのはごめんである。ならば、彼がわかりやすく提示した妥協案で手を打つのは、まあ自然だろう。
――何かそれにしても、引っかかる……
アズールは違和感を覚えつつも、何がおかしいのか分からず、ちらりとフロイドの様子を伺ってみた。彼は部屋の鏡を覗き込んで、アズールの付けた歯形を見つめて笑っていて、とても何か考えている様子は無いようだった。
「……まあ、それくらいなら」
良いのだろうか、と内心悩みながらもアズールは頷いた。鏡を見ていたフロイドはぱっと振り返って、やけに嬉しそうな笑顔でアズールに抱きついて頬をすり寄せた。
「ありがとうアズール」
「どう、いたしまして?」
「じゃ、オレ一旦部屋に戻るから」
救急箱を手に、フロイドは軽やかに外に出ていき、アズールは座り込んで、何だったのだろうと首をかしげていた。
――やっぱり何かまずかったような……??
椅子に座り込んだまま、彼はしばらく頭を悩ませることになっていた。
「ただいまー」
救急箱をリビングに置きに来たフロイドは、雑誌に目を通していたジェイドに手を振った。
「おや、機嫌が良いですねフロイド」
「まあねぇ」
ジェイドに救急箱を渡して、フロイドは彼の横に座った。ジェイドは、箱を開けて消毒液を取って、フロイドの若干肩位置のずれたシャツを引っ張った。
「随分跡が付きましたね」
「アズール全然力入れられなかったけどね」
消毒液を付けられてフロイドはいてて、と軽く呻きながら
「アズール、良いって」
「そうですか」
「ジェイドは良いの」
ジェイドはティッシュで余分な消毒液を拭うと、箱にしまいながら
「僕はまあ、タイミングを見つつやっていきますよ」
ニコニコと機嫌の良いジェイドは、箱を閉じてふうとため息をつき
「でも、出来ればその場で眺めていたかったですねぇ」
としみじみと呟いた。
変態じゃん、と思わず言うフロイドにジェイドはそんな! と心底心外という顔で答えた。