六年後の夢 その姿を見た途端、思わず「きゃーっ!」と声が出た。
目の前にいたのは、自分の恋人である柳楽凌だ。日本人離れした体格で、とにかく顔面がいい。ちょっぴり神経質そうに寄せられた眉も、眼鏡の奥の目も、右目の下にあるあざも、高い鼻も、微笑んだ口元も。ぜんぶぜんぶ知里佳の好きな顔だ。
だが、今目の前にいる柳楽はふだんとは違う。知里佳のベッドに腰掛けた彼の顔は、ふだんより穏やかで、どこか渋みがある。
「もしかして、もしかして……六年後の柳楽さんでしょうか……っ」
「うん。たぶん、そうなるかな」
二十五歳の柳楽が、苦笑に似た笑みを浮かべながら答えた。
知里佳は枕をひっくり返し、「あのっ、あのっ」とそこからメモのような紙を取り出す。
「今日、友達の乃里ちゃんからこれもらったんです! 地元の神社のお土産って……これに願いごとを書いて枕の下に入れると、良い夢が見られるんだって!」
「ああ、なるほど。それで君は、六年後の俺のことを書いたんだ」
「そう! そうですっ」
こくこくと頭がもげそうになる勢いで、頷く。つまりこれは夢だ。ただの夢ーーかもしれないが、目の前にいる六年後の彼氏はやけに存在感があった。
「君は今、十九歳? 俺が大学に入学した年か」
「は、はい。あの、えっと」
もじもじもする知里佳に、柳楽が「ああ」と気づいた声を上げ、両腕を広げる。
「いいよ、おいで」
「はいっ! 失礼しますっ」
喜び勇んで、招かれるままに男の懐に飛び込む。バックハグをされると、嬉しくて嬉しくて顔がニヤけた。
「これ、柳楽さんめったにしてくれないんですよ?」
「まあ、十九の俺だとね。そうだろうね」
微笑む柳楽の顔には余裕がある。ふだんの柳楽もものすごくかっこいいが、こんな顔をした柳楽も新鮮で見惚れてしまう。
自然と回された腕に顔を埋める。
「えへへ……匂いは変わらないですね。私、柳楽さんの匂い、大好き」
「ありがとう。俺も知里佳の匂い、好きだよ」
その言葉を聞いた途端、知里佳の動きが止まった。
「どうかした?」
「今の……もう一回言ってもらえますか……」
」
「俺も、知里佳の匂いが」
「知里佳って! 知里佳って言った! 柳楽さんがっ」
「そりゃ、もう夫婦だし。付き合って七年だからね」
「きゃーっ! けっ、結婚! 入籍っ! ほんとにしたんですねっ⁉︎ 柳楽さん、いくら言っても首を縦に振ってくれないからッ」
「それはまだ十九だからだよ……あー、こういう感じだったなぁ」
言いながら、頭をぽんぽんとしてくる。
「この頃は、髪もまだ伸びかけだったね」
「あ、はい。去年切っちゃったから……」
「今だから言うとね。あのとき実は、結構ショックだったんだ。俺は君の髪が好きだから」
「えっ!? そうなんですか。柳楽さん、そんなこと一言も」
「歳を重ねなきゃ言えないことっていうのはあるんだよ」
柳楽さんの大きな手のひらが、さらりと私の髪を撫でる。どきどきと心臓が弾む。
「あ、あの。訊きたいんですけど」
「うん。なに? あ、こういうのって先のこと答えちゃっていいのかな……未来の改変とかに繋がるとかよくあるけど。まあ、夢だし構わないか」
「あ、その。私、ちゃんと留学行きましたか?」
顔を見上げながら訊ねると、柳楽は一瞬きょとんとした。
「あーーえっと、私来年あたりに留学を考えていて。フランスに。それで、今も申し込み手続きとかいろいろしてるんですけど」
「ああ、うん。それは知ってる……そっか、そんなに近いことで良いの? 俺、六年後から来てるのに」
「ええっ、来年のことだって私にとっては遠いことですよー」
「なんというか……改めて、七年君に待ってもらうことの大変さを噛み締めちゃうな……。いや、留学ね。行ったよ、ちゃんと。予定通りね」
「……そっか……行くんだ……」
爽やかなジャスミンティーの香りが強くなる。柳楽が、こちらを覗き込んでいた。
「浮かない顔だね。あんなに準備から頑張っていたのに。君の、ずっと憧れだったんだろ?」
「……そう、なんですけど。でも、最近迷ってて。一年近くも遠恋になっちゃうじゃないですか」
「でも、君にとっては大切なことだろう? 俺は応援してたはずだけど」
「……それでも。このせいで、柳楽さんとうまくいかなくなっちゃったら……嫌だなって」
今だって、四六時中そばにいたいのに。フランスに行ったら一年も会えない。それがどれだけ辛くて、苦しいことか。想像するだけで怖いのに、柳楽は「頑張って」としか言わないのだ。まるで、他人事のように。
「……なるほどね」
柳楽が頷く。
「確かに、なんのトラブルもなかったわけじゃないよ。君は慣れない土地と文化に放り込まれたわけだし、俺は君の気持ちに寄り添いたいと思いつつまだ理解しきれていない部分の方がずっと大きかった。おかげで、フランスに俺が会いに行ったときにも、木の上で話し合いが必要だったしね」
「え、一年後もまだ木に登らされるんですか。最近、柳楽さんよく登って話させられるんですけど……」
「今でもするよ。話し合いには一番いい場所だからね」
「六年経っても同じこと言ってるんですね……」
少しげんなりしつつ、「そっか」と思う。「留学、あんまり楽しくないのかな」
「そんなことはないと思うけれど。すくなくとも、一年やりきって帰ってきた君は、俺には輝いて見えたよ」
言って、こめかみに軽くキスをされる。
「でも、トラブルがあったって」
「キミが気をつければ大丈夫だよ。とりあえず、家族でもない男に膝枕をしたり、露出度の高い格好で写真を撮らせたりしないよう気をつけて」
「そんなことするわけないじゃないですかー」
そこまで馬鹿じゃないですよ、と言うと何故か柳楽は胡乱な目つきをしていた。
「……もう他には大丈夫かな? 君も、そろそろ起きる時間だろ」
「え? あ、えっと。じゃあ、一個だけ」
慌てて身体を起こし、反転する。
二十五歳の柳楽凌。約束通り結婚をしたのだという、六年後の彼と正面から向き合い、両手をぎゅっと握った。
「……あれ? なんで右手の人差し指がないんですか?」
いつだったか、自分の身体に跡をつけたあの指がない。なんてことないように、「ああ、大丈夫」と、柳楽は頷いた。
「ちゃんと、六年後の君のところにあるよ。君が俺の雌であることの証だ」
「え……私、グロいのはちょっと」
「まあその辺はおいおい分かると思うけど……聞きたいことって? 別のことなんだろ」
「あー、その。今のと、全く関係ないわけじゃないんですけど」
心臓がどっどっと鳴るのは、目の前の彼がカッコ良すぎるからだけじゃない。不安と緊張が、喉を絞る。
「……私を雌に選んで、後悔してないですか……?」
「ーーなにを言ってるんだ君は」
ぎゅっと正面から抱きしめられ、「わっ」と思わず声が出る。柳楽さんはーー今の柳楽さんはしてくれないハグだ。
「君以外に俺の雌はいない。ほんと、いつまで経っても理解しないなぁ」
「だって、柳楽さんすぐに私のこと馬鹿って言うし、めんどくさいとか、愚かだとか」
「それは仕方がないし、今でもあまり変わってない。が、それが君なんだから構わないんだよ、俺は」
微笑みながら言われると、顔が真っ赤になってしまう。「可愛いな」と柳楽が笑う。
「ここからもう六年耐えなきゃなんないとか、思えばしんどい日々だったな」
「え、柳楽さん、今辛いんですか……?」
「逆逆。幸せだよ、誰よりもね」
ふふっと柳楽が笑った。
「そしてその六年間が終わったら、もっと幸せな日々が待ってるよ。だから、あー……あんまり、いじめないでやってくれると」
「私、柳楽さんをいじめたりなんてしませんけど。大好きですもん、誰よりも」
「大好きだからこそ辛いってことが、世の中には多いんだよ。君の留学みたいにね」
柳楽の身体が離れていく。「あの」と、知里佳はもう一つ訊ねた。
「そういえば、玃猿さんは」
「まだちゃんといるよ、この中に。会わせてやりたい気もするけど、今の君を見ても喜んで孕ませそうだからな。お預けだ」
そう言って、唇に触れるか触れないかくらいのキスを落とす。
そこでーー知里佳の夢は終わった。
「あ、柳楽さん」
一階のエントランスホールに降りると、柳楽が立っていた。「おはよ」と声をかけてくる彼に、知里佳も心を弾ませながら「おはようございます!」と返す。
「なんか、ずいぶん機嫌が良いね」
二人並んで駅へ向かって歩き出すと、柳楽がそんなことを言った。
「はい! すっっごく良い夢を見ちゃって」
「それは良かった。あと。あんまり顔覗き込まないで欲しいんだけど」
「相変わらず顔が良いんですもん、柳楽さん」
「ほんっと、君は俺の顔好きだよね」
「はい! 大好きですっ! あーーそうだ、柳楽さん」
まだ短い髪を掻き上げ、知里佳はちょっと笑った。
「これ、もっと伸ばそうと思うんですけど。どう思います?」