うるわしのメリニうるわしのメリニ
カブルーには故郷がない。
もうその場所は存在しない。
ミルシリルが養育してくれた場所は、カブルーにとって箱庭であって故郷ではなかった。
生家だった場所は母と自分を殺そうとした。逃げた先で母と子ふたり優しく過ごしていた街は滅び、エルフの箱庭を抜け出してカブルーはメリニにいる。
「ウタヤは」
ベッドでカブルーの腕に収まりながら、ミスルンはゆっくりと問いかけた。
「どんな街だった」
「豊かな街でしたよ。訳ありの母子が働いて生計をたてられるくらいでしたし。豊かさはダンジョンのもたらした恩恵のおかげでしたが……それが、ああなったわけなので心中は複雑ですね」
帰れるのなら帰りたい。そう思う気持ちは確かにあった。冒険者になどならず、母と慎ましく暮らし、どこかの街で働いて、暮らして。
哀しみも憎しみも淋しさも昇華したわけではなく、カブルーの中に存在している。これからも消えはしないだろう。
カブルーは物の大小に限らず癒やされぬ傷の一つや二つ、誰もが抱えていると思っている。
ミスルンがウタヤの件を気にしているのはわかっていた。その頃のミスルンはまだカナリアに復帰できるような状況ではなかった。だがたとえその場にいたとしてミスルン一人の力ではどうしようもなくはあったのだ、結局のところ。
ミスルンはカブルーの腕を抜け、窓際に腰掛けた。
外は藍色に染まって、星の輝きが家々を照らしていた。
カブルーがミスルンに続いて窓辺によると、ミスルンはすぅと息を吸って喉から旋律を紡ぎ始めた。
うるわしのソレント
海原はるかに
夕もやたなびき
思い出誘う
オレンジの香り
ほのかにただよい
森の緑にも
風はささやく
今はただ1人
過ぎし日しのべば
砕ける波音
寂しく響く
帰れ君 故郷の町
このソレントへ 帰れよ
ミスルンの声は美しく、ものかなしく響いた。
エルフの歌声のうつくしさは知っていたが、この人が情緒的に歌い上げることができるなど想像もつかなかった。
「う、うまい、ですね」
ひねりのない言葉が出て自身に落胆する。
確かに胸を打たれたというのに、感情を言葉にするのは得意だと思っていたのに。唇からこぼれた凡庸な言葉に落胆する。
「お前も私も、ふるさとも、生家も、ないも同然だ」
「はあ、はい。そうですね……」
「お前は王の側付きとしてこの国に骨を埋める覚悟でいるのなら、ここを故郷と、ふるさとと呼んでも差し支えはあるまい」
「はい。その覚悟です」
「私は、お前のいる場所をふるさとと呼ぼうとおもう。この先、共にある場所がどこであれ、お前のいる場所を私の故郷としよう。強要はしないが、お前にも同じ気持ちでいてもらえたらと思う」
「……それってプロポーズですか?」
「そうとらえてもいい」
寝物語の戯れ言としてもよいが、カブルーはミスルンの瞳が銀色に濡れて光っているのを見た。
その目は慈愛と寛容と、澄んだかなしみに溢れていた。
カブルーはそれだけで生涯の伴侶がこの人であって欲しいと願わずにはいられなかった。
そうして、きっと自分の目は情熱的で激しい愛と、やはりしっとりとしたかなしみを宿しているのだろうと思った。
カブルーとミスルンに寿命差がある以上、時を同じくして死すことは叶わない。
その時はこのメリニをふるさととし、せめてもの慰みとして思い出を振り返って欲しかった。
彼と笑った場所を、これから歩む道を、遠く波打つ海を。そのすべてによき思い出ばかりができるとは限らないが、少なくともカブルーはミスルンの魂に己の存在を刻む気でいた。
カブルーは窓際のミスルンの手を取り、胸の中へ抱きしめた。
小柄だが華奢ではなく、筋肉のついた壮年の男の体をしていた。
「あなたと生涯をともにできたら、こんなに幸福なことはありません。誓います。生涯をかけて愛すると。いつでもあなたのふるさとになると」
離別のかなしみは幸福があってこそのものである。
これから自分たちは黄金のごとき幸福も海の底がごとき不幸も経験していくだろう。
望郷の念を抱いたとき、愛するものの顔が浮かぶのは、嬉しさも悲しみも、等しくあるだろうとカブルーは思った。
それでもこのただ一時ふたりはふるさとで幸福なプロポーズを受けたものと受け入れたものだった。
夜は安らかに流れ、愛もまた静かに輝いていた。
引用
帰れソレントへ
https://m.youtube.com/watchv=MAahtcCNFkA&feature=youtu.be