逃避行ムスナ(流血表現あり) 早朝、ムーミンは目を覚ました。窓を開けるとちょうどこちらに向かってくるスナフキンが見えた。
「スナフキーン!おはよー!」
2人きりで釣りに行く約束をしていた。ムーミンの声に顔を上げたスナフキンは顔色が酷く悪かった。
「……?」
縄ばしごを使って降りる。
「スナフキン、大丈夫?顔色悪いよ」
よく見たら彼はリュックを背負っていた。テントも畳んでいて、まるで冬の出立のよう。
「…スナフキン……?」
深く俯いていたスナフキンはムーミンの手を取った。とはいっても、数本の指をムーミンの指に絡めてくるだけだ。
「どうしたの、スナフキン…」
「ムーミントロール」
ギョッとした。聞いたこともない震えた声。そう、今にも泣きそうだった。
「…僕は、昨日、人を殺したんだ」
「………え…?」
目の前が真っ暗になる。まるでムーミンとスナフキンの心の中を映したかのように突然の大雨が降ってきた。
「ごめん……ムーミン、…ごめん」
夏だと言うのに、雨がひどく冷たい。
「…スナフキンがなんの意味もなくそんなことするとは思えないよ」
絡めていた指は震えていた。だからムーミンはその手をしっかりと掴んだ。
「事情を聞かせて」
「……こ、…殺したのは、ムーミン谷の…人で。最近、いつも話しかけてきて……それだけじゃない、ずっと、ずっといたんだ。僕のテントの近くにずっと」
ムーミンの毛が逆立つ。手を繋いでいない方の腕で目元を隠したスナフキンは耐えきれなくなったかのように言った。
「き、昨日の夜…寝ようとしたら、テントに、入ってきて……、何されるかわかって、抵抗したら…打ちどころが悪かったんだ…」
ムーミンは堪らずスナフキンを抱きしめた。幼いムーミンですら、スナフキンが何をされたのかその口振りで察してしまったのだ。
「もうここには…いられない。だから、どこか遠くへ、……いこうと思う。君にだけは…ちゃんと、話して、…」
背中に回されたスナフキンの腕は震えていた。
「待って、僕も連れてって。…スナフキン。君のいきたいところまで」
「……正気かい」
「正気なら君を抱きしめない」
「………好きにするといい。…でも、君がいると…心強いよ」
「釣竿を持ってきてよかった。そろそろみんな起きるから、それまでに行こう?」
ようやく体を離す。雨は変わらず降っていて、2人はびしょ濡れだ。
だから、ムーミンは帽子をかぶったスナフキンの目元が濡れているのも雨のせいと考えることが出来た。
おさびし山を超え、その向こうへ。
2人とも無言だったが、繋いだ手は離さずにいた。
「……ふう。おさびし山で誰にも会わなくて良かったね」
一旦休憩をとることにしたムーミンはそう言ってスナフキンに話しかけた。
「…ほんとにいいのかい、ムーミン」
拳1つ分の距離に座っていたスナフキンが尋ねた。その声は雨音にかき消されそうなほど小さい。
「何が?」
「僕についてきて。今ならまだ知らないふりが、」
「やめてよ。聞きたくない」
「…、……ごめん」
そう言ってスナフキンは膝を抱えた。
「あ、……ご、ごめんよ、スナフキン。その、…」
「いいんだ。気にしないでくれ」
無理矢理スナフキンが会話を切った。居心地が悪くなり、ムーミンは空を見上げた。
雨は小雨に変わり、いくらか歩きやすい。
「ムーミン、もう少ししたら行こう。雨が止むかも」
「うん、分かった」
それ以降スナフキンがムーミンに何か尋ねることはなく、2人はひたすら歩き続けた。
谷を出たことの無いムーミンにとって、陸地から向かう何もかもが新鮮だった。
「スナフキン!スナフキン、これなに?!すごい動くよ!」
「それはビックリ箱だね。これはよくある形の…開けたら中身が飛び出てくるやつだ」
雑貨店の一角でムーミンは目をキラキラとさせていた。
「他にも種類があるの?!すごいね!」
「そうだね」
あれは何、これは何と幼い子供のように尋ねるムーミンに丁寧に答えるスナフキン。それを見ていた雑貨店の店主が微笑ましそうに笑いながら言った。
「随分賑やかな旅だね、おにいさん」
「ええ、まあ」
「弟さん?それにしちゃだいぶ…」
「親友です」
「…ははあ、なるほど。なるほどね。分かったよ、深くは聞かないでおこう」
店主のメガネがキラリと光る。嫌な予感がしたスナフキンはふい、とムーミンの方へ視線を逸らす。
「ほれ、こいつをやろう。若いっていいもんだねえ」
そう言って渡されたのは数日分の保存食と小さなナイフ。ちょうど、ムーミンが扱うのに良い大きさだ。ご丁寧に布に包まれており、背負うのにピッタリだった。
「これは…」
「お代はいらんさ。ビックリ箱もしらない坊ちゃんとの旅は大変だろうからね。グッドラック、若人よ!」
「……ありがとう、ございます」
保存食とナイフを受け取ったスナフキンはムーミンの背中に布に包まれた食料とナイフを巻き付けた。
「おじさん、ありがとうございました!」
「楽しんでおいで〜」
ムーミンが手を振って退店をするのを見送る。
「いや〜青春だねえ」
保存食が尽きた。そう言ったスナフキンをムーミンは見つめる。
唯一持ってきていた釣竿はもう朝からずっと動いていない。
「でもこうして釣りをしてるじゃないか」
「次の街までかなりの距離があるから…その間ずっと食料がとれるとは限らないんだよ、ムーミン」
「ぼく、ちょっとくらいご飯食べなくても平気だよ?」
くう、とムーミンのお腹が可愛らしく鳴いた。
「こ、これはね、スナフキン。その、あの…」
「っふふ」
「え?」
「ふふ、ムーミン。君は本当に面白いやつだなぁ」
今日初めて見たスナフキンの笑顔にムーミンは沈んでいた心が浮くのを感じた。
「そ、そうかな……えへへ…」
「うん、決めた。幸いなことにこの辺は少し覚えがあってね。食料を譲って貰えないか聞いてくるよ。ムーミン、きみは僕が戻るまでここでテントの守りをたのんだよ」
「任せて!」
元気よく返事をするムーミン。スナフキンはにこりと微笑み、林の奥へ進んで行った。
それからスナフキンが戻ってきたのは日が沈んだ頃だった。大雨の影響であまり芳しい結果ではなかったバケツには稚魚が数匹いるだけだった。
「スナフキン!おかえり」
「……、ただいま、ムーミン」
「わ!すごい。果物だ!」
少ししなびてはいるが、十分食べれそうな果実を両手いっぱいに抱えたスナフキンが果物をムーミンへ手渡す。
「ごめん、ムーミン。今日は少し疲れたから、もう寝ることにするよ」
「え?ご飯はいいの?スナフキンもずっと食べてないじゃないか」
「いいんだ。実は、風邪をひいたかもしれなくて。早めに休みたいんだ」
「え!大丈夫なの?ぼく看病するよ」
「大丈夫。きみは好きに過ごして。でもあまり遅くまで起きてないように。明日も早いから」
「はーい。スナフキンなんだかママみたいだ」
「……、…そうかな」
あ、とムーミンは己の浅はかな言葉に口を閉じる。
「辛くなったら言ってね。ぼく看病は得意だよ」
代わりにそう言葉を重ねると、スナフキンは帽子を下にさげて言った。
「…ありがとう、ムーミン。おやすみ」
「おやすみ、スナフキン」
食事を終え、片付けも済ませたムーミンがテントを静かに開けると、テントの入口に背を向けた状態のスナフキンが横たわっていた。
音を立てないように近寄った瞬間、視界が反転した。
「うわぁっ!?」
咄嗟に手を伸ばす。手のひらに僅かに痛みが走った。
「……っ、あ…、む、ムーミン…」
虚ろな目でムーミンの首にナイフを押し当てていたスナフキンは自分の刃先が誰に向いているのか把握した途端顔を青ざめさせた。
「ご…ごめんなさい……」
「大丈夫。ぼくも無神経に近寄ってごめんね」
ずるずるとムーミンの体の上から這って退いたスナフキンはテントの隅に行ってしまう。
「スナフキン?ぼくは本当に大丈夫だから」
手を使って体を起こす。手のひらの僅かな痛みに顔を顰めた。
「あちゃ…切れちゃってるや。スナフキン、何かあて布とかあるかな…スナフキン?」
返事がない。存外深い傷口からスナフキンの方へ目を向けると、青を通り越して白くなった顔色のスナフキンが震えていた。
「大丈夫!?」
慌てて近寄ると突っぱねるように掌を向けられた。
「ダメだよ!きみ、いまにも死にそうな顔色してる!!」
その手のひらを傷のない方の手でしっかりと掴む。氷のように冷たい手だった。
「手当て、手伝ってくれる?スナフキン」
怯えた目をしていたスナフキンは1度目を閉じ、そして俯いた後にゆっくりと頷いた。
しっかり巻かれた包帯の感触を確かめる。
「スナフキン、次はきみの番だ」
「…僕の……?」
少しは落ち着いたのか、青ざめた顔なのは変わらないが先程よりはだいぶ余裕が出てきたようだった。
「帰ってきてからずっと調子が悪そうに見えた」
「手当することなんて何も無いよ」
「春先に風邪をひいたぼくより酷い顔色だ」
「……」
「ねえ、ぼくのせい?ぼく、旅に慣れてないから、君の負担になっている?」
「そんな事!」
ようやく合った目線を逸らされないようにムーミンはスナフキンの手を握った。
「おしえて、スナフキン。僕らに秘密なんてもうないじゃないか」
「……」
うろうろと視線を彷徨わせたあと、スナフキンは繋がれた両手を見ながら語った。
「ムーミンが…あいつにみえた。……全部一緒だったから。…そんなこと、ないのは…分かってるんだけど」
スナフキンがこちらを見ないのをいいことにムーミンは眉をしかめた。
「だから……ちょっと、びっくりしただけ。今はもう大丈夫…ごめん」
「ううん、僕こそごめん。無神経だった。スナフキン、君がもう怖い思いをしないようにしたいんだけど…どうしたらいいかな」
「…ムーミンに怖いって思わないよ」
それでもなお目は合わない。
「それ褒めてる?僕の方が後に寝る時はテントの外から声かけるってのはどうかな」
「それはいいね。君の声ならよくわかるから」
「褒められてるって思っていいんだよね」
「褒めてるよ。ムーミン、ありがとう。僕は一体何度君にお礼を言ったらこの気持ちが伝わるのだろうね」
「ぼくときみが一緒にいるだけで十分だよ」
ぱっと振り向いた顔は少し赤らんでいるように見える。
「…ムーミンも言うようになったなあ」
「口達者な親友がいるからね」
「きみに口説き文句を教えるような親友がいるのか。困ったな」
おどけたようにそう言ったスナフキンと目を合わせる。少しの沈黙の後、くすくすと2人は笑いあった。
もうすぐ次の町が見えてくる頃、びしょ濡れのままテントに入ってきたスナフキンが暗い顔で言った。
「僕を抱いてくれ、ムーミン」
「……え?」
「お願いだ、君でいっぱいになりたい」
押し倒されて、淫靡な手つきで体を撫でられる。
「ま、まって、スナフキン……!どうして急に、」
近づいたことでいつもとは違う臭いが香った。
「…あ」
臭いの正体に気づくと同時にスナフキンの唇がムーミンの口に押し当てられた。
拠れた服の中はひどいものだった。拭くだけ拭いてそのまま来たようで、まだ落ちきっていない汚れは乾いて触れる度にぽろぽろと落ちてきた。
「スナフキン…」
「ムーミン……ムーミン、ごめんね…ごめん…嫌なら、目をつぶってて…お願い」
陰鬱な表情はまるであの雨の日のよう。全くらしくない弱々しい声。真っ白な細い体には様々な色が付けられていた。
「スナフキン!」
体を無理矢理起こしてそのまま抱きしめた。
冷えきったスナフキンの素肌が少しでも温まるようにとムーミンは互いの隙間が無くなるくらいきつく抱きしめた。
「大丈夫。嫌じゃないよ。でも、君の体すごく痛そう。まずは綺麗にして、手当してからにしよう」
「…ムーミン…」
「ぼく、こういうこと慣れてないから…へんだったらごめん」
「……体、洗うの手伝ってくれるかい」
「うん、いいよ」
「すごく遠い、ぼくたちのことを誰も知らないようなところで2人で死のうよ」
汚れた体を清めた後、毛布にくるまったまま何も言わなくなってしまったスナフキンを抱きしめながらムーミンは言った。
「ね、いいと思わない?スナフキン。君を傷つけて知らんぷりする世界なんてぼくたちには価値がないガラクタのようなものさ」
返事はないが、ムーミンは抱えた毛布の塊に額を押し付けた。
「いいよって言って、スナフキン」
もぞもぞと毛布の塊が動いてようやくスナフキンが顔を見せた。
毛布がはだけて上半身はほとんど見えていた。
「ムーミン」
「うん」
「ほんとにいいの」
「もちろん。君を傷つけた世界より君がいない世界の方がぼくはずっと嫌だよ」
「……うん…」
「決まり。じゃあ、どこにしよう。ここもだいぶ離れたけど…海とかどうかな。ムーミン谷より綺麗な海!」
「いいと思う」
「明日早速街で聞いてみよう。地図とか貰えたらいいね」
はだけた毛布を掛け直した後、ムーミンはスナフキンを抱きしめて横になった。
「おやすみ、スナフキン。ちゃんと寝てね」
「君がいれば大丈夫そうだ」
ムーミンは誰かに呼ばれた気がして目が覚めた。腕の中にいる愛しい人はどうやらうまく夢の中に入れたらしい。あどけない寝顔に笑みがこぼれる。
「…君は悪くはないよ。何も悪くないから…そんなに自分を責めないでね。スナフキン、ぼくはきみがどんな人でも大好きだよ」
返事はないが、それでも構わなかった。ムーミンはもう一度抱きしめ直して、目を閉じた。
ようやくたどり着いた街は人が多い割には静かだった。その中で唯一賑やかなのが街の中心にある掲示板の周辺だ。
ムーミンはぴたりと足を止めた。
「ムーミン?」
「スナフキン……あれ」
ムーミンの指さす先にはこの街の掲示板が。その中でもそれなりの大きさの張り紙にはムーミン谷という言葉が入っていた。
「…僕たちを探してるんだ」
全文を読んだスナフキンはそう言ってムーミンの腕を掴んだ。
「わっ、なに?スナフキン」
「この町での補給はやめよう。あの張り紙、きっとムーミン谷の誰かが貼ったものだ。手書きだからね」
「え……あ、本当だ…」
遠ざかっていく張り紙は確かにインク溜まりや乾ききらずに垂れたインクの筋が残っていた。
「……スナフキン」
「なに、ムーミン」
「僕の手、引いてくれるんだね」
ムーミンの言葉を一瞬理解し損ねたスナフキンは腕を離して振り返る。
「なんでもない。君を1人にしたくないから」
ムーミンは離れた手をもう一度握り直して今度はムーミンが前に立って街を歩く。
「……あ」
街を出た辺りでようやく理解したらしいスナフキンの顔が僅かに赤らんだ。
「謝らないでね、スナフキン。君と一緒に旅できて僕は本当に嬉しいんだ」
「……うん」
幸いなことにすぐ近くにも別の街があり、ようやくムーミンとスナフキンはひとところに落ち着くことが出来た。
「スナフキン、困ったね」
「ああ…困った」
店主も困りきった顔をしていた。
「言葉が通じない…」
ムーミンの呟きにスナフキンは無言で応える。
「食べ物、古くていい……」
覚えてる限りの言語で連ねてみても店主は困った顔をし続けるばかり。
懸命に挑戦していたスナフキンだが、諦めたようにため息をついた。
「あの街に戻って…」
「すごい、お客さんだ」
突如聞こえた聞き覚えのない声に2人は振り向いた。
「えっと。………こんにちは、あ〜…コンニチハ?」
「きみ、ぼくたちのことば分かるの?!」
「あ、こんにちは、か。うん、少し」
長い耳を頭の頂点から垂らした少年とも少女とも言えないショートヘアの子どもが興味深そうにスナフキンとムーミンを見つめる。
「旅人だね。うちには日持ちする食べ物ないよ」
「え、そうなの?どうしよう」
「どこか、旅支度を整えれるような場所はある?」
スナフキンの問いかけに悩んだような素振りを見せると子供は言った。
「隣町にならあるよ。たくさん」
「そっかぁ…残念だけど、戻ろうよスナフキン」
「そうだね」
「すなふきん?」
「え、」
子どもはその言葉を聞いてスナフキンの手を掴んだ。
「隣町でみた名前だ」
ムーミンの心臓が跳ねた。それはスナフキンも同じようで、わずかに体が強ばった。
「あなたたちが、あの人たちの探し人?」
あの人たち。探し人。ムーミンは子供の手首を握った。
「人違いだよ。ねえ君、あんまりぼくの恋人に気安く触らないで」
「…こいびと?」
「分からない?好きな人、パートナー、愛してる人!ぼくはヤキモチ焼きなんだよ!」
無理矢理引き剥がすと静観していた店主が騒ぎ立てる。3人に周りの目線が一斉に向いた。
「スナフキン!いこう!!」
「あぁ…」
ムーミンはスナフキンの手を引いて走り出した。
結局ろくな補充も出来ずにムーミンとスナフキンは山の中へ逃げた。
「最悪だ、ごめんスナフキン。ぼくが油断してたばっかりに…」
「いいんだ。…僕も迂闊だった……」
ずっと握っていた手はかすかに震えていた。
「スナフキン、大丈夫?」
「…すこし、疲れたかもしれない」
帽子に隠れて見えない面差しをそれでもムーミンは見つめた。
「わかった。もう少し歩いたら、休憩しよう」
幸い小川が近くにあった為、2人はそこで休むことにした。
「…スナフキン、ぼくね」
水を飲んで一息ついたスナフキンがムーミンを見た。
「こういうピンチの時って、ヒーローとかそういうのが助けてくれるんだって。そうじゃなくても、ぼくが君を守れるんだって。…救えるんじゃないかって思ってた」
「…うん」
「でもそんなことは全然ないね。具合の悪い君をぼくは追い詰めてる」
「ムーミンを連れてきたのは僕だよ。…本当なら君はこんな泥に塗れて、地面で眠り、飲めるかどうかも分からない小川の水を飲むような人じゃない。…暖かいベッドで寝て、美味しいご飯を食べて……ともだちと遊んで………そういう…そういうシアワセな生活が…」
「スナフキン」
両頬を手で挟み、無理矢理こちらを向かせる。虚ろな瞳はもう限界を訴えていた。
「ぼくは君と居られるだけで幸せだ。暖かいベッドも美味しいご飯も…そりゃあったらいいなって思うけど、君以上に必要じゃない」
「……ムーミン、」
ムーミンの手にスナフキンの手が重なる。
「君は本当に夢想家だな。現実を見ろよ、ムーミントロール。いまの君は、人殺しの犯罪者とひたすら死ぬために何もかもから逃げ続けている。旅に慣れていない君はもう限界だろう?この先、君と僕が一緒にいても君は絶対幸せになれない。僕は今までの人生でそれを思い知っている」
捲し立てるようにそう言ったスナフキンの目はムーミンと合わない。
「今なら帰れるよ、ムーミン」
ひどく、優しい声だった。重ねていた手に震えはもうない。
「嫌だ!!」
ムーミンは叫んだ。
「嫌だ!嫌だ嫌だ!帰らない!ぼくは帰らない!!きみと一緒に死ぬと決めた!そのために家族も友達も捨ててきたんだ!!今更帰れるか!」
「……」
「君だけ死ぬなんて許さない!君は何も悪くはないんだ!!人殺しがこの世界にどれだけいると思っている?!どうして君だけが死ななければならない!」
「ムーミントロール、おちつけ、」
「落ち着いていられるか!!スナフキン、君はとてもひどいことを言った!ぼくを見捨てるなよ……!」
ぼろ、とムーミンの目から涙が零れた。
「…ムーミン、…」
「お願いだからひとりにしないでよ、スナフキン…」
鼻をすすって涙を溢れさせるムーミンをスナフキンはひたすら見つめていた。
幼い子どもを見ている気分だった。実際、2人ともまだ子供と言える年齢ではあるが。
「…ごめんよ、ムーミントロール。君のやさしさに……苦しくなってしまった。さあ、そろそろ行こう。ここに来て思い出したんだ。もうすぐ海が見える」
「……ほんと?」
「ずっと昔に来た場所だ…」
「うん……わかった、行こう。スナフキン」
少し歩くと、僅かに潮の匂いがした。海が近いのだろう。
「本当だ…すごい、ぼくたちここまで来たんだ……!」
先程とは一転してうれしそうな表情を隠すことなく歩き出したムーミンをスナフキンは穏やかな眼差しで見つめた。
「…ん?」
そこでスナフキンは異変に気付く。森の小動物たちがあちこちから逃げてきていた。まるで何かに追われているように。
「……なんだ?」
ムーミンの動きが止まり、スナフキンの方を向いた。その顔はひどく青ざめていた。
「フローレンたちの声だ」
「…ッ」
唇を震わせたスナフキンは、細く息を吐くとムーミンに手を伸ばした。
「一緒にきてくれ、ムーミン」
「…!もちろん!!行こう、スナフキン!」
繋いだ手の暖かさにムーミンはそんな場合じゃないとは分かっていても心の底から嬉しくてひっそりと微笑んだ。
掲示板を見た時と同じように、否、それ以上の力で腕を引かれた。
「いいかいムーミントロール、君は僕に脅されてここまで来たんだ」
「え…」
「これまでのことも、何もかも。僕に脅されて、心優しい君は親友の僕の言うことを聞く他なかった」
「な、何を言ってるのスナフキン…僕は、僕の意思でここに…!」
「君の優しさに耐えきれなかった僕は自ら死んだ」
「や、やめてよ……そんなこと、」
ムーミンの言葉の一切を無視してまくし立てるようにそういったスナフキンは大きなため息を吐いた。
もうムーミンの耳には声が聞こえていた。
捨てたはずの家族や友達の声だ。すぐそこまで来ている。
「ムーミントロール。君がいたからここまで来れたんだ」
痛いほど握られていた手が離された。
「だからもういいよ。…もういいんだ。もう僕に縛られる君は見たくない。だから、……」
彼が両手に持ったのはもうすっかりムーミンも手に馴染む彼のナイフだ。
「死ぬのは僕だけでいい」
「やめっ、………!」
躊躇いなくナイフが白い肌を滑った。
「…、あ……」
飛び散る赤色はスナフキンの細い首から。
まるで何かの小説の一幕のようだった。
「スナフキン!!!!!!!」
いっそ美しいほど柔らかな笑みを浮かべた愛しい人は、崖底に落ちていった。
ムーミンは保護された後、3日3晩寝込んだ。旅の疲れや心労のせいだと街の医者は言った。
「どうして僕たちを捕まえようとしたの…賞金まで掛けて。…僕たちが人を殺したから?」
熱が下がって起き上がれるようになった頃、ムーミンは抑揚のない声でムーミンパパに聞いた。
「…ムーミン。あの人は死んでなかったよ」
ドッ、と心臓が大きく鳴った。
「確かに危なかったけど……持ち直したんだ。でも、いろんな悪いことをしていたことがわかって、もう一生ここにはこれない」
「ぁ……あ…そ、……そん、そんな……」
「お前たちにもう逃げる必要は無いと言いたかったんだ。……スナフキンは、どこに行ったんだい」
ムーミンは顔を手で覆う。震えが止まらない。
「う、あ、…ッ!うああああああああ!!!!!!!!!!」
尋常でないほど泣きじゃくるムーミンにムーミンパパはひく、と息を飲む。
「どうして、……!!!どうして!!ねえパパ!!!!どうしてスナフキンだけがいないの!!??みんないるのに!スナフキンを傷つけたあいつすら生きていたのに!!!!!スナフキンだけが!!!どこにもいないんだ!!」
ムーミンを保護した時、ムーミンの体には僅かに血がついていた。それはムーミンのものでも谷の誰のものでもなかった。
「…ムーミン……」
狂ったように泣き叫ぶムーミンをムーミンパパは抱きしめることしか出来なかった。
どれだけの春を見送ったのだろう。
夏が来ても秋が来ても、ムーミン谷にスナフキンは現れなかった。
あの笑顔も、温もりも、何もかも全て覚えている。
夏が来る度に思い返しては身を裂かれる程の痛みに襲われる。
未だに忘れられない愛した人のことを想い、ぼうっと空を見上げていた。
「ねえパパ、あの話して!」
そう言って膝の上によじ登ってきたのはある夏に生まれた実の娘だった。
「またかい?好きだねえ」
「だってとっても楽しいんだもの!」
好奇心旺盛で、賢いその娘の頭を撫でた。
「わたし、パパのお話に出てくる春の旅人さんとお話したーい」
無邪気にそう言った娘の、金色の前髪をそっと整えた。
「いつか、話せるといいね」
「うん!」
「さあ、いいかい。よく聞くんだよ、可愛い僕のスヌス。あれは、暑い夏の日の話だ…」
エピローグ
ザリ、と砂をふむ。
「ムムリクのくせにひとところに留まるからそうなるんだよ。よく分かったろ」
眼下の人物から返事はない。男はかがみこみ、赤くなったスカーフを取り去った。
「うんうん、おもったより傷が浅いな。ひよったか?」
スカーフで傷口を塞ぐと更に自分のスカーフでもきつく巻いた。
「ちょっと苦しいかもしれないけど、まあ、そんなのわかんないか」
よいしょ、と男は子供を背負った。
「ふっへ、重くなったなあ。チビの頃は抱えてるのかどうかすら分かんなかったのに」
ぴく、と子供の手が動いた。
「神様に嫌われるのも旅人に必要な才能だぜ、スナフキン。良かったな、僕に似て神様から嫌われてるようだ」
男はそう言って森の奥へと入っていった。