こんにちは。お話しませんか。メモで話す
世界史の授業で訪れた特別教室。週3回程訪れるこの教室は自分のクラスの教室と構造はなんら変わりない。ただ、世界地図が飾られていたり、地球儀があったり、長ったらしい年表があったり。大きなそれらに圧迫感を感じてしまう。
今日も授業の内容はそれなりに聞いてタブレットで纏め、テストに困らない程度にはしておこう。そう思いながら教師が話しているところを眺める。
脱線した雑学を話し始めたのでタブレットと一緒に持ってきた漫画を読もうと机の中に手を入れる。中から本を引き出すと、読もうとしていたパティバトではなく見覚えのない本が現れた。
「……?」
有名な書店の青いブックカバーが掛けられた文庫本。カバーが掛けられているためタイトルはわからない。この時代に文庫本を持つこと自体が珍しい上にこんなところに忘れるなんて、紙の本が好きなのかそうではないのか。
中身が気になって1ページ目を開いてみる。
何故か巻末のページが出てきた。作者、出版元、いつ刷られたものなのか。基本的な情報が書かれていた。
不思議に思いながら反対側を開くとこちらが表紙のようだ。2ページ目を捲ると本文が横書きになっている。横書きだから表紙が反対なのか。
このような本は初めて見た。
スマホを取り出し、『小説 横書き』で検索をかける。平成に女子中高生の間で流行ったケータイ小説というものらしい。中身は大体が恋愛もので、平成レトロブームで密かに復活を遂げていたらしい。
世界史の教師は一方的に授業内容を話すだけだ。こちらを当てることもない。
趣味では無いがいい暇つぶしになるかと考えて、潮はペラペラと小説のページを捲り始めた。
軽く読むつもりだったが、これは思ったよりも面白い。内容としては主人公が移動教室で忘れた本にメモが挟んであり、そこから誰かもわからない相手と本とメモを介してやり取りをしていく話。設定としてはありがちだが、言葉選びが繊細で惹かれていく。何より、主人公の心理描写がとても丁寧で美しい。
夢中になって読み進めていると真ん中よりも少し前、白い小さなメモが本の間から落ちてきた。
拾ってメモに書かれた文字を見る。
『こんにちは。お話しませんか。この授業暇すぎて』
なんだこれは。
小説の主人公の真似事か。少し縦長のクセがあるともないとも言えない文字に急に馬鹿らしくなってメモを元のページに戻す。
暫く教師を眺めていたがあのメモが気になって仕方がない。あの小説の主人公にでもなったような気分だ。
メモの先にいるのはどんな人なのだろうか、知りたくないような知りたいような。
潮が読んでいたところまででは主人公はまだメモの相手とは出会えていない。
メモの存在に気を取られて本を閉じてしまったが、内容の続きが気になっているのは確かだ。
顔を上げて時計を見る。授業終了まであと10分と少し。全部は読み切れないだろう。かと言って人のものを勝手に持ち出す訳には行かない。次にこの教室で授業がある時まで机の中に残っているとは限らない。
どうしようか悩んだ結果、メモにその旨を書けば良いのでは、と思いついた。
あまり使わないシャープペンシルを取り出し、メモに付け加える。
『↑暇なのはわかるかも。この本、続きを読みたいのでこのまま置いててくれませんか』
簡易的だがこれで伝わるだろう。
栞代わりに読んでいたページに挟み直す。丁度その時、授業終了のチャイムが鳴った。
「起立」
日直が号令をかける。慌てて本を机の中に閉まって立ち上がる。なぜかその本は他の人に見て欲しくないと思った。
次の世界史の授業の時間。
挨拶をして着席してすぐ、そっと机の中に手を入れる。
…あった。
先日と同じブックカバーが机の中から現れる。
前回のメモは同じページに挟まっていた。
『お返事ありがとう。この本、気に入ってくれた?読み終わったら感想を教えて欲しいです。』
メモはその言葉が書かれたことで余白がなくなっていた。
とりあえず先に読んでしまおう。今日の授業中に何もなければ読み切れるはずだ。
授業終了の5分前。いい話だった。最後のページを捲り終えた潮はほくほくとした気持ちでいた。
メモを介して姿が見えぬ相手に心を開いていく主人公は、自分の好きな人について相談する。メモに書かれたアドバイスを元に行動すると好きな人と徐々にいい雰囲気になっていく。それと同時にメモの相手と仲良くなった気分でいて、その人の正体が気になっていく。好きな人とメモの相手との間で気持ちが揺れ動く主人公。そんな中でメモの相手が主人公が片思いをしていた相手だということが判明してハッピーエンド。
後半畳み掛けるように事実が明らかになっていくのだが、2人が惹かれ合う描写が美しく、読んでいるこちらも幸せになった。
本に挟まったメモを取り出す。
『感想を教えて欲しい』
既にいっぱいに埋まってしまったメモ。潮はペンケースからチョコレートの柄が入った小さなメモ帳を取り出し、1枚切り取った。
『面白かった。ありきたりな題材だけど、心理描写の言葉選びが綺麗でドキドキした。』
そのメモを1番後ろのページに挟み、本を閉じる。そこで授業終了のチャイムが鳴った。本を丁寧に机に仕舞い込み、号令に合わせて立ち上がった。
次の時間。机から出てきたのは別の本だった。1番左の1ページめを開くと、真っ白のメモが出て来る。
『感想ありがとう。俺もあの本、気に入ってるんです。次のオススメ入れておきますね。読んでみて。』
自分が挟んだメモはまだ余白があったはず。それなのに今回は新しいものに書いているということは、自分のメモは相手が持っているということ。まぁそれでもいいかと白いメモを回収して、本を読み始める。今回のものは前回より厚みがないためこの時間で読めそうだ。
授業終わり、自クラスの教室に戻りながら、先程読んだ本について考える。
勝手にライバル視して嫉妬していたクラスメイトの秘密を知ってしまった女の子。秘密を共有する中でその気持ちは憧れに代わり、いつの間にか恋に変わっていた。お互い気持ちをはっきり伝える前に彼は転校してしまったが、大学で再開する運命的な話。
前回の本のシリーズらしく、出版当初は結構売れていたものだと帯に書かれていた。
『秘密の共有』
今のこのメモのやり取りも秘密になるのだろうか。
見えない相手との秘密の共有。
なぜか心が浮き足立つような、甘酸っぱい気持ちが広がった。
その後も本に挟まれたメモでのやり取りは続いた。最初は本の感想だけだったが、「今授業はどこの範囲やってる?」「趣味は?」「こんなことがあって…」などと個人がギリギリ特定できないような話をするようになった。それと共に、潮はこの世界史の教室への足取りが軽くなって行った。
3月の学期末。あとこの授業も残り数回となった。学年が変わればクラスも変わる。授業も変わる。
つまりはこの教室に来ることがなくなるかもしれないということ。
寂しい。もっと話したかった。そう思えるほどに、この姿が見えない相手に心を許してしまっていた自分がいる。
相手からも自分が何者か見えていない。潮が好青年と呼ばれている人間なことも知らないのだ。それはとても都合が良くて、居心地がよかった。
本を開く。何時もは1ページ目に挟まれたメモが今回は見当たらない。パラパラとページを捲ると真ん中あたりから二つ折りになったメモが現れて、ほっと息をつく。
『俺今好きな人がいるんだ。同じクラスの人なんだけどさ。すごく好きで、堪らなくて、その人への曲ばっかり作っちゃうくらい。告白したいけど今まで上手くいったことがなくて自信がなくて…どうしよう。どうしたら、いい?』
目が滑って、メモの内容が頭に入ってこない。3回読み返してやっと、心の中に落とし込んだ。
『好きな人がいる。』
その文字に小骨が刺さったような違和感。チクリと痛むけれど無視すれば何事もなかったように感じる。
手の中のメモがくしゃりと音を上げた。皺だらけになった紙はもう元には戻らない。
…何と返事をしよう。メモのやり取りで初めて返信に困ってしまった。在り来りなことを書けばいい?
頑張れ?告白しちゃえ?あんたなら大丈夫?
応援の言葉を書きたいはずなのに、ペンを持つと手が動かなくなる。言葉が見つからず、ペン先でトントンとメモを突く。黒いインクが小さく残った。
…このまま真っ黒に塗りつぶしてしまおうか。
ぴっとペン先を動かすと短い黒い線がついた。何度も繰り返すと小さな棘がメモを埋めつくていく。
白い所が半分も無くなった頃、顔を上げると授業の終了時刻が迫ってきていた。
今まで書いていたメモを握り潰して筆箱に放り込み、新しいまっさらなメモを取り出す。
『旧校舎の屋上』
そこまで書いたところでチャイムが鳴った。周りがガサゴソと片付けを始める。見られないよう、急いでメモを挟み、机の中に仕舞った。
荷物を持って廊下に出る。『旧校舎の屋上』の続きは何を書くつもりだったのか、自分でもわからない。
あす高に広まる『旧校舎の屋上で深夜に告白すれば叶う』おまじないを伝えようとしたのか、それとも。
その後、何度かあの教室で授業を受けたが、机の中は確認していない。返信が返ってきているかもしれないけれど、もうそれを見る勇気がなかった。
1年生最後のこの教室での授業。代わり映えのないつまらない話を聞き流し、外を眺めた。
この教室の眺めはこんなに色味がないものだっただろうか。
なんとなく、なんとなく心に穴が空いたみたいで、それを埋めようと机の中に手を伸ばした。
…あの本はまだあった。返事がないから回収されていると期待していたのに。
パラパラとページを捲る。3枚のメモと便箋がはらりと落ちた。
『旧校舎の屋上って何?もしかしてあの噂のこと?告白してみようかな。ありがとう。』
『もしかして休みだったかな?大丈夫?』
『飽きちゃった?こんなことに付き合わせてごめん。』
返信をしなくなってもメモを残してくれて、心配してくれていたらしい。こんな、自分勝手な感情で繋がりを断ち切った自分のことを。
最後の便箋を開く。
『もうこの授業終わっちゃうね。今までありがとう。こんなに自分のことを素直に話したのはキミが久しぶりだったよ。キミとは学校の中のどこかですれ違っていると思う。でも、俺はキミの名前も顔も知らない。キミも同じ。それがすごく心地良かった。楽しかったよ。俺に付き合ってくれてありがとう。 N.N』
N.N
初めて知る彼の名前。メモの彼と好きな人がどうなるかは自分の知ったことではない。上手く行こうが行かなかろうが、この広いあす高の中では知らない世界の話と同じだ。
この授業も、これで終わり。この教室に来ることはおそらくもうないだろう。だからこの苦い思い出も、芽生えた感情も、ここに置いていける。
便箋1枚だけを小さく畳んで、筆箱の滅多に触らない小さな飾りのポケットに捩じ込んだ。
「帰りたいんで早く選んで貰えます?」
潮は文房具屋で嫌味を漏らしながら、目の前の男を待っていた。
「ちょっと待って、せっかくなら気に入ったものを使いたいし、そしたら曲のインスピレーションも湧きやすいかなって……」
目の前男、七基は真剣に並んだメモ帳を吟味していた。潮は何故かそれに付き合わされている。
「はぁ、よくわかんないですけど、早くしてくださいね。」
潮が他のコーナーへ足を向けようとした時だった。
「あっ…これ。」
「…どうしたの」
無言で商品棚と睨めっこしていた七基が突然声を上げる。彼が見せてきたのは紛れもなく、あの頃潮が使っていたチョコレート柄のメモ帳だった。
「…!こ、これがどうしたの」
あのメモ帳は2年に上がる前に捨ててしまった。もう見ないと思っていたのに。
「このメモ帳、ちょっと思い出があって。」
「へぇ、どんなの…」
もしかして。メモの先の相手は。
「1年の時、メモでやり取りしてた人がいて。その人が使っていたんだよね。このチョコレート柄。」
懐かしいものを見るように目を細める七基。
「そのあと、その人とは?会いたいと思わないの?」
「途中で返事が返って来なくなっちゃった。…でもね、それでいいんだ。顔の知らない人だから言えたこともたくさんあったし、なにより…」
言葉を詰まらせた七基が振り返って潮を見る。
「最後のメモには『旧校舎』って書いてあって。だからあの日俺は旧校舎にいたし、地域活性部に入ることになったし、……こうやって潮の隣にいる。」
立ち上がった七基はニコニコと笑っていて、潮の袖口を掴んだ。
「…ばっかじゃないの。……行くよ。それ買うんでしょ。」
袖を掴まれたまま歩き出す。
一番最初にメモが挟んであった本はどんなものだっただろうか。メモのやり取りをしていた相手が、実は主人公の好きな人でハッピーエンド。そんな話だった気がする。
小説の主人公を模して始まったあのやり取り。それがこんなハッピーエンドになるなんてね。
今度1枚メモを拝借しよう。手作りのお菓子を添えて。そしてメモにはこう書くんだ。
『こんにちは。お話しませんか。』