星までの距離 今日はマジックアワーがきっと見られるね。そう話す友人の目は赤く染まり始めた空に向けられていた。
よく晴れた夏の夕暮れに、真吾、メフィスト二世、百目の三人は、駅のホームで並んで立っていた。朝早くから隣町の市民プールへ遊びに行き、二世のおしゃれ過ぎる水着で思う存分人の目線を独占して来た帰り道だった。
遊び疲れてもう半分目が閉じている百目は、真吾に甘えて寄り掛かっている。それを真吾を挟んだ反対側から叱りつつ、それって何だ?とメフィスト二世は問う。
「水平線の方が赤くて、上空に向かって少しずつ群青へ空の色が変化していくその時間の事だよ。あまりにも美しい光景だからそう呼ばれてるんだ。」
「黄昏の事か。」
「黄昏時とか逢魔時って、警戒すべき時間って意味が裏にあるから、今は、何となくね。」
妙な所にこだわる奴だなと、二世は笑いつつも、自分も空に目をやった。雲一つない空。真吾の言う通り、美しい夕暮れになるだろう。
電車が到着するまでもう少しかかるホームは、三人と同じ様に家に帰ろうとする客と、これから遊びに行くのであろう客とで賑わっていた。
電車に乗ってみないか?と誘ったのは真吾だった。メフィスト二世にとっては用のない乗り物で、敢えて機会を作らなければこの先もずっと使うことはない。せっかく人間界に来たのだから経験してみたら、という提案に、面倒くさがる二世を押し退けて百目がハイハイと手を挙げた。
「みんなで乗ってみたいモン!きっと楽しいモン!」
あの元気はどこに行ったのやら。
「電車の乗り方は覚えられた?」
三人の切符は真吾に教えられながらメフィスト二世が購入した物だ。小さな紙片を指で摘んでピラピラ振る。
「料金を調べなきゃいけないのが面倒だな。」
「確かにね。」
「あちこちボタンを押さなきゃいけないのも、来るのを待たないとならないのも面倒。」
「魔界には電車の様な物はあるの?」
「似た様なのはあるけど仕組みが全然違うな。」
そうなんだ、と真吾が嬉しそうにする。真吾にこそ機会があれば案内してやりたい。それは兎も角、自分は。
「飛んだ方が早いや。」
「そうだね」
魔法が掛けられた空も特等席で見せてやれるしなと、心の中で呟きながら得意げに鼻を鳴らした二世だが、真吾の応える声が沈んで聞こえて、しまった、と慌てる。真吾はただ別の事を考え始めていただけだったのだが、二世は急いで言葉を足した。
「面倒なのも楽しいけどな!」
「それならよかったよ。」
ふふと笑う横顔にほっとする。真吾の右腕にしがみつく百目が頬を膨らませ真吾に訴えた。
「電車まだ来ないモン?ボクもう立てないモン。」
「もう少しだよ百目、がんばって。ねぇメフィスト二世、反対側のホームって遠いよね。」
「?そうだな。」
「うん。でもよく考えみると、たった電車二両分なんだよね。わかっていてもやっぱり遠くに感じるのが不思議で…なんだか心の距離に似ていると思うんだ。」
不意にホームの照明が一斉に点った。まだ周囲は明るく、照明がその役割を最大限発揮できるにはもう少し時間が掛かりそうだ。
向かい側のホームで思い思いに電車を待つ人の流れを目に映しながら、真吾は続ける。
「遠い存在だと思っていても、解り合えないかもしれないと思っても、思い切って話をしてみれば意外にすぐ打ち解けたりして…メフィスト二世と初めて会った時もそうだったね。随分と酷い事言われたなぁ。グルグル回されたしね!」
「もうその話は勘弁してくれよ!」
顔をさっと赤くする友人に、真吾は愉快そうに笑った。
「ごめんよ、でもこの話に弱い君が面白くて。」
「アレはコウモリ猫のせいだろ!」
「コウモリ猫とも、時間がかかったけど仲良くなれたね。結局距離があると思っていたのは自分の心で、そんなものないんだと一端気付いてしまえば、もう何処までも近しくなれるんじゃないかな。」
ホームに軽快なメロディが流れた。線路の先に目を凝らすと、待ち望んだ電車の輪郭が見えた。
真吾が百目に、もうすぐ電車に乗れるよと、優しく声を掛ける。百目は真吾を見上げるとにっこり笑った。
「ソロモンの笛は距離など錯覚だと教えてくれる物なのだと思う。僕の役割は、相手を信じて話し掛ける事なんだ。初めて君と話をしたあの時みたいにね。でも…君は厳しい人だなと思ったけど、何故だろう、怖くはなかったよ。そういった意味では、もしかしたら僕らには、ソロモンの笛は必要なかったのかもしれない。」
八つ裂きにするって脅されてもね、と真吾はいたずらっぽく笑った。強い夕の光を纏った睫毛が星を散らした。
三人の後ろに人が集まり始め、次第に列になる。ガタンゴトンと徐々に速度を落とした電車がホームに滑り込み、向かいのホームを三人の前から隠した。
✮✮✮
どうにも落ち着かなくて、気分転換に人間界へ散歩に来たメフィスト二世は、満点の星空を寝転んだ体勢でフラフラと浮かんでいた。
別になんてことはない、あの日もいつもと変わらない、いつもの夕暮れだったはずだった。真吾の真面目な会話も慣れた事なのに、何故かずっと気になっているがその理由が分からず、かと言ってイライラするわけでもなく、得体の知れない感覚にすっかり困り果てていた。
(距離なんて無いって気付いたその後はどうなるんだ。仲良くなってにっこり良かったね、で終了か?)
悪魔くんは何処までも近しくなれると言った。だが対話が成功して相手を知り仲良くなったら、その次は、その距離でさえ遠いと感じてしまうのではないだろうか。
(実際、悪魔くんを知れば知るほど淋しくなってる。)
真吾は強靭な軸を持ち、その軸を起点に悪魔くんとして信じる最良の選択を導き出すから、一度決めた事は欠陥や合理的な理由がない限り曲げない。常に決断を求められる悪魔くんという立場からすれば必要な頑固さだが、その計算に真吾自身の安全や尊厳は含まれない。第一使徒としては合意するが、友人としては納得行かない事がほとんどだ。本人に面と向かって言ってやったってごめんよと言われて流される。自分がどうこうできる存在ではないと、よく知る前よりも真吾を遠く感じる時さえある。
(悪魔くんはブラックホールみたいだな。)
呼びかけが一方通行で不毛だということばかりではない。
(それでもどうしても惹かれてしまう引力。呑み込まれたら光でさえ逃げられやしないんだ。)
救世主ってヤツはみんなそうなのだろうか。いつもその奥底に温かいものを抱く、あの瞳が纏う不思議な煌きを思い出した。
悪魔くんはまだ起きているかな。
珍しい事に部屋の電気は消えていた。こんな日に限ってと心の中で文句を言いながら、メフィスト二世はベランダにフワリと降りると、開け放たれた窓から、音を立てないようにそっと部屋に入った。
これまた珍しい事に、真吾はちゃんとベッドに入って眠っていた。百目はその横の布団で、掛け布団を足で取っ払いうつ伏せになって丸まっている。
(よく寝てらぁ)
二人を起こしてしまわない様に呼吸さえ気を付けて、メフィスト二世は真吾の枕元に立った。今日の寝相は大人しいな、などと考えながら、横向きで気持ち良さそうに寝息を立てる真吾をしばらく黙って見下ろしていたが、その場にあぐらをかくと、少し考え、シルクハットを傍へ置き、鼻が触れ合う程近く真吾の顔に寄せて、ベッドの上に頭を乗せた。
目の前の長い睫毛を眺める。やっぱりなんだかキラキラしている気がする。
悪魔くんはいつも嬉しい言葉をくれる。だから二世もできる限り悪魔くんに真心を伝えて来たつもりだ。だが、自分が感じる喜びを、悪魔くんも同じくらい感じてくれているのか、メフィスト二世には自信がなかった。そもそも、自分が沢山の人に大切に思われているのが分かっていないのではないかと思うのだ。
(百目なんてベッタリなのにな。)
そうか、これが心の距離か、とメフィスト二世は実感を伴って理解した。いつも隣にいても、どんなに想っていても相手の心も同じでなければ、その距離は埋まらないのだ。まるで磁石で同じ極を合わせる様に、こちらが近づいてもその分だけ離れてしまう。
(そもそも、こんな事考えてる時点でオレはこの距離に満足してないって事なんだよな。)
気持ちを伝える手段は結局言葉しか無いのに、それが通用しないならどうしたらいいんだ。物理的に距離を詰めるのか?例えばいっそ抱き締めてみるとか…
(…は?抱き締めるだと?)
メフィスト二世はスッと上半身を起こしてカッと目を見開いた。顔面がボッと音を立てて発火する。
(オレが、悪魔くんを、抱き締める⁉)
にわかに、頬を染めはにかんだ悪魔くんをそっと抱き寄せるイメージが脳内に溢れた。柔らかい髪の匂いーーー
メフィスト二世は悪魔くんが大好きなんだモン!
(百目は黙ってろ!)
脳天から吹き出す蒸気と一緒にウフフと笑う百目も吹き飛ばす。腕を組んで盛大に長い鼻息を吐いた。
ああそうさ、オレは悪魔くんが大好きさ!当然だろう、なにせ第一使徒だからな!
「ダメだモン、そのラーメンはボクのだモン…」
百目が寝言で文句を言い寝返りを打つ。
二世は脱力した。
本当に寝言でむにゃむにゃって言うんだなと、真吾の穏やかな寝顔を眺め沸騰した脳みそを冷やし、二世はまたベッドの上に頭を置いた。
(流石にそこまでしたら、悪魔くんも分かってくれるんだろうか。)
少し寝汗を掻き湿った額が白く浮かび上がっている。額に張り付いた前髪を剥がして除けてやる。
真吾の寝息に合わせて呼吸をしながら、明るい夜だから顔がよく見えるな、などと考えていたら、メフィスト二世にも眠気が降りてきた。少し目を閉じてみると引き込まれる感覚があり、いかんこのまま寝てしまう、と慌てて目を開けたら、真顔の真吾とがっちり目が合った。
フリーズするメフィスト二世。
何も言わず見詰め返す真吾。
どっと全身に汗を吹き出し、メフィスト二世はゆっくり身を起こした。
まだ見てくる真吾。
「…起きてるかと思って来たら寝てたな。」
「…そうだね…」
用事は何、とは訊かない。用など無い事は真吾にも分かっているのだ。それがなんだかこそばゆくて、メフィスト二世はバツが悪そうにシルクハットを被り目を隠した。
「起こして悪かった、オレは帰るよ。」
「泊まって行けばいいのに。」
「いや今日はいい夜だから、少し楽しんで帰る。」
「そうなの?」
真吾はぼんやりと応えると身を起こした。
「まだ食べられるモン!」
幸せそうな百目の寝言に顔を見合わせる。
「百目、さっきからずっとラーメン食べてるんだぜ。」
「あはは」
そっとベッドから離れベランダに出る。手摺に身を寄せて空を見上げると、満月が煌々とした、満天の星空が広がっていた。湿った風が頬に心地良い。
「本当にいい夜だね。」
「だろう?」
「ねえメフィスト二世、背中に乗せてくれないか?」
手摺の上に組んだ腕に頭を乗せ、半分眠っている顔でふにゃりと微笑む。メフィスト二世はドキリとしながらも、冷静に真吾のおねだりをどうするか考えた。
「いや今日はやめよう、そんな眠そうにして、万が一落としたらイヤだからな。」
「落としても拾ってくれるだろう?」
「悪魔くんを危ない目に合わせたくないって言ってんだ。」
そうか残念だなと、真吾は何故か嬉しそうに目を細めた。静かに星の降り注ぐ中、二人で空の散歩ができたらきっと素敵だろう。
ゴメンな、次は必ず連れて行ってやるよ、と二世は優しく慰めた。マジックアワーも星空も。
うんと頷くと、真吾は二世の横顔を見詰め、不思議な幸福感に戸惑いながら、このどこか特別な夜をずっと大切に忘れないでいようと、自分と約束した。
二人はそれきり口を閉じて、真吾の瞼が再び重く落ちるまでずっと星空を眺めていた。
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「お兄ちゃん!いつまで寝てるの?いい加減起きなさい!」
エツ子の声で目を覚ますと、真吾は天井を眺めながら、昨夜の出来事をぼんやりと思い返した。
なんだかメフィスト二世の様子がいつもと違っていた。透き通った星空を纏って静かに語る二世は少し大人びて、穏やかでーーー
のっそりと上半身を起こすと、真吾はそのまま膝を立て顔を埋めた。首も腕も真っ赤に染まっている。
「顔が…近いんだよ…メフィスト二世…」
二〇二四年四月十四日 かがみのせなか