親愛なる君へ お久しぶりです。いかがお過ごしでしょうか。君のことですから相変らず少し無理をして、それでも気丈に前を見据えて明るく毎日を過ごしているのでしょう。
君と、十二使徒の皆と別れてから、僕は僕なりに、見果てぬ夢に向かいひたすら走り続けて来ました。あれから何十年と月日を重ねても、僕自身は何も変わらず、恐らくこの姿を見たら君は、体ばかり大きくなってと、呆れて笑うでしょう。
今君はどんな世界を見ているのでしょうね。僕の知らない世界をきっと自由に駆け回っているのでしょう。僕は僕で、君の知らない世界を見詰め続けてきました。
困難に直面する度、思い知る己の無力さを痛感し、目指す場所の遠さに、時折呆然とすることもあります。これまで幾度、君たちとの思い出に励まされたか知れません。今はもう鮮やかに思い出されるばかりのあの眩しい日々も、その時はただ前に進むために僕等は必死でしたね。ならば今この苦しみもきっとあの日々の続きであると、いつか懐かしく思い出される良き日々なのだと、思い直すことができるのです。
あの頃は、この世界は明と暗とで分かたれ、暗の領域でさえ希望を捨てず諦めなければ、余す所なく全てを照らせると、迷いなく信じていました。
僕に知識はあったかもしれない、けれど僕は何も知らなかった。明暗など見る角度でいとも簡単に入れ替わるという事。絶対の善は存在しないが悪は確かに存在する事。それらが喜びや憎しみで複雑に織り込まれ一つの錦となったものがこの世界そのものだという事。
その錦の織り目をひとつひとつ読み解く事で漸く小さな織模様を知り、それを手掛かりにまた別の織模様に触れ、手繰ることを幾度も繰り返しながらやっと読み方を覚えて来ました。汚れた糸もあります。千切れそうな糸も、ささくれた固い糸も織り込まれます。金糸銀糸ばかりでは無いけれど、織り糸はどれも何にも代え難く愛おしく、織られたその姿は尊いと思うのです。
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自分が目を閉じているのか、開いているのか分らなかった。瞼をニ、三度ゆっくり瞬き、漸く己の覚醒を知り、そこが崩れた瓦礫の中であることを知った。徐々に戻る聴覚が、人々の怒号や悲鳴、警察車両の幾つも重なり鳴り響くサイレンの音を捉える。
そうだ、と真吾は胸の中で呟く。とある国の、武装した反政府組織と国軍の使者との、今その只中にある内戦の停戦交渉の場に、仲介役で同席する予定だった。
この小さな国は豊かな地下資源が仇となり、強国に翻弄される歴史を刻んできた。戦争が起こる度に統治国を変え、長く植民地として搾取され続けた。大戦で当時の統治国が敗戦し撤退したのを期に独立宣言し、元統治の抵抗に苛まれながらも他国の助力を得て軍事・外交の両面を戦い抜き、漸く独立国として名を持つことができたのがほんの半世紀ほど前の事だ。
独立運動の指導者として活躍した人物を代表に中央政府を置き議会を創立、文民政権を建てるはずが、蓋を開けてみれば軍幹部が実権を握る事実上の軍事国家だった。
かつて、植民地としての屈辱を味わい自由を渇望したはずの国民が、今度は同じ国民に対し圧政を行っている。国民は国民主権を訴え、国内の至る所で小さな紛争が起こる度、軍は武力で強硬に鎮圧した。そんな事が何度も繰り返される中、軍の中でも穏健派と知られた一人の幹部が「事故死」した。民衆の怒りが一気に噴出し、大規模な内戦へと発展した。
内戦は長く続き、国連の支援も及ばず、生まれたばかりの小さな国は壊れようとしていた。そんな中、歴史の水面下で密かに平和活動を行いその実績を重ねているという噂の、無名の民間組織の存在が囁かれた。その組織の実態は不明で、ベンチャー企業ほどの小規模な組織とも、世界の至る所に活動拠点を持つ巨大組織とも言われた。その活動資金は全て寄付によって賄われ、どの国にも属さず、利害を持たず、資産も名もなく、問題の内容や規模に関わらず自由に支援活動をする組織。
そんな物語のような組織が実在するわけないと笑って捨てる者もいた。本当に実在するのなら、都合よく使い捨てできるのではと目論む者もいた。
そしてある朝、組織員がコーヒーを片手に邪魔する猫をいなしながら開いたメールボックスに、一通のメールを見付けた。
この世には不協和音を好む獣がいる。軋むその積み木にそっと手を添え揺らす者がいる。崩れた積み木の隙間から溢れる金の粒を我が物とする為だ。この小さな国の内戦を、自らを崩壊させる程までに発展させたのはそういう獣だ。
恐らくこの爆弾テロを仕掛けたのは彼らだろう。
真吾の足の方向で瓦礫が崩れた。生き埋めになった人達の悲痛な叫びが上がる。真吾は全身の痛みに油汗を流しながらも脱出を試してみるが、隙間なく瓦礫に押し潰された体は僅かも動かせない。
この会合は極秘であり、計画は全て慎重に進められていた。
会合の参加者はそれぞれ別ルートで移動する。そして互いにそのルートを知ることは無く、唯一全てを把握しているのは真吾一人だけだ。場所も時間もダミーを何重にも用意し、情報も厳密に管理し特定の人物の間のみで扱われ、周辺の動きも調査、監視していた。
交渉の場に選ばれた郊外の小さなホテルに向かう途中、万が一の追跡や罠を警戒するために、直接現地に向かうのは避け、幾度か場所を経由するが、無論その場所すら極秘であった筈だ。ここはその二箇所目、会員制のレストランだった。
この崩壊は外部からの攻撃ではない。予め爆弾が仕掛けられていたのだ。管理体制が機能していたと仮定すれば、これは内部からの崩壊だ。レストランも計画も。
どんなに練り込まれた計画でも、必ず綻びはあるものだ。千年王国を目指し活動を始めてから少しずつ組織が育ち、関わる案件が大きくなるのに従いそれは嫌と云うほど経験して来た。人の心が絡む限り、全てが最良へ向かうわけではない。だからこそ気を付けていたはずなのに。
どうか反政府軍代表と国軍の使者が無事であって欲しい。仲介役などいなくても、進むべき最良の道がきっと見つけ出せるはずなのだから。
否これもまた誰かにとっては最良の道なのだろう。真吾は口角をぎゅと引き締めた。
裏切りにより得た物は何だろうか。何かを守るための、もしくは取り戻すための選択だったのだろうか。余りにも大き過ぎる犠牲を払ってでも実行されたその理由は何だったのだろうか。
悪魔くんは甘いんだよ。
メフィスト二世が腕を組んで怒っている。
懐かしさに目を細めた。
その通りだね、君の言う通りだ。
完全な暗闇であり、空気が動かない。密閉された状態の様だ。爆発に巻き込まれたレストラン客のうめき声や助けを求める声、祈りを呟く声があちこちから聞こえる。
(ああ僕は何もできない。)
歯を食いしばる真吾自身も辛うじて頭部だけ瓦礫の隙間にある状態で、指一本動かせない。早くも酸素が薄くなってきたのだろう、思考に薄く靄がかかる。
(ここまでなのだろうか。)
どこか他人事のように自分の死を思った。それをいつか知るであろう、家族と幼馴染達の顔を思い浮かべた。そして幼い頃から追い求めてきた千年王国の夢を思った。
必ず実現してみせると沢山の約束をした。皆約束を信じ未熟を許してくれた。かつて敵対した者でさえ惜しまず協力し、背中を押してくれた。貰うばかりで何一つ返せないまま終わるのか。
(みんな、ごめん。)
頬に温かいものが流れる。死は悲しくはない。何も言わず送り出してくれた優しさに、夢のために共に戦ってくれた仲間の思いに、導いてくれた師から託された願いに応えられないのが悲しい。今ここで苦しむ人達を一人も助けることができない無力が悲しい。千年王国を見ることが叶わぬまま終わることが悲しい。
頭の芯が絞られるように痛む。肋骨に食い込む瓦礫がより一層重みを増したようだ。暗闇の向こうで、ひとつ、またひとつ微かな声が消えていく。遠くから近付いて来る緊急車両のサイレンの音に思いを込めて、繰り返す浅い息で呟く言葉は、もう声にもならなかった。
「誰か、どうか、ひとりでも多くの人を」
言い出したら聞かないからなあ、悪魔くんは。
いつも呆れ顔で許してくれたね、メフィスト二世。せめて君に手紙を遺したかった。たとえそれが何処にも届かない手紙だとしても。
*****
こんな月の明るい静かな夜は、耳を澄ますとソロモンの笛の音が聴こえて来るような気がして、懐かしく思います。一万年の眠りについたのだろうソロモンの笛に、恐らくもう二度とこの指が触れる事は無い。笛は全ての生命の為の物であるから、それを惜しいとは思わないけれど、ただ叶うならもう一度だけ、あの笛を吹きたいと思うのです。美しい音色に命を賭けることもあったけれど、悪魔や人々の心だけでなく、僕自身の心にも語りかけてくれた。僕に悪魔くんの在る理由を、悪魔くんとしての在り方を教えてくれた。人を信じ愛する事の大切さを教えてくれた。もう一度笛と語り合えたらどんなに嬉しいでしょう。
親愛なるメフィスト二世、君に心からの感謝を。僕には口に出せない言葉を言い、僕には選べない選択を悔しがってくれた。乗り物扱いするなとよく怒らせてしまったけれど、行きたい所へどこでも連れて行ってくれた。どこまでも行ける空を、海を教えてくれた。僕の中で君がどれ程大きな存在か、君は生涯知ることはないでしょう。遥かな時を生きる君にとってはほんの瞬きの時間で、もしかしたらもう僕の事など忘れてしまったかもしれませんね。それでも僕は−−−
もう一度、君の背中に触れたい。
真吾は薄れる意識を凪いだ心で感じながら、もうほとんど見えてもいない瞳で、闇の奥の奥を見詰めた。
忘れる筈もない黄金の魔法陣が眩く浮かび上がる。
魔法陣もまた真吾を見詰めていた。
唇が祈りのように柔らかく震え、微笑む。
エロイ厶 エッサイム
エロイム エッサイム
我は求め、訴えたり。
オレを呼んだかい?悪魔くん!
二〇二四年四月十一日 かがみのせなか