春を待つ 久し振りに開いた書斎の扉の向こうには、本の位置さえ同じなのではないかと思うくらい、何一つ変化のない埃っぽい部屋があった。
部屋には誰もいないが微かに話し声が聞こえる。
書斎の奥、書庫に繋がる入口が開いたままになっており、その明るい部屋に、仲睦まじく頭を寄せ合っている親子の姿が見えた。
二世が書庫に足を踏み入れたのと同時に、分かっていたように友人がこちらを振り返った。その手には分厚い本が開かれている。
「やぁ、久し振りだね、メフィスト二世。」
「久し振り真吾くん。」
友人の隣に立つひょろりとした青年に目を向ける。青年は思考の読めない大きな目で、メフィスト二世を観察していた。
「一郎くんも久し振り。暫く見ない内に随分と成長したね。」
一郎は応えずそっぽを向いた。父親に叱られても反応しない。
「こら一郎。メフィスト二世、すまないね⋯毎日見ていると気付かないけど、確かに改めて見るとずいぶん背が伸びたかな。」
首を傾げる父親を煩わしそうに一瞥すると、一郎は一言も発さず持っていた本を父親に渡した。呼び止める声を無視し、二世の横をすり抜けて書庫を出て行った。
「相変わらずだね。反抗期卒業はまだ先かな。」
「ごめんよメフィスト二世。今日は機嫌がいい方だったんだけどなぁ。―――メフィスト二世は悪魔界で用事だったのかい?」
珍しくタキシードを着ている二世は疲れた顔で首に手を掛けた。
「家の都合でね。仕事してる方が楽だよ。ついでに寄ってみたんだけど学校も平和だな。」
「お陰様でね。いつもありがとう。」
真吾は本をまとめて脇に抱え書庫を出た。
書斎に一郎の姿はなかった。自室に逃げたのだろう。
真吾に促されてソファに深く腰掛けると、メフィスト二世は長い溜息をついた。お疲れ様と笑いながら、真吾が奥から二つの湯呑とお菓子を載せたトレイを持って戻って来た。二世の向かいに座ると、真吾も深いため息をついた。
こうして二人だけでゆっくり会話する機会もめっきり減った。お互いに家族を持ち、忙しく過ごす中でそれは自然な変化だった。
だがそれでもメフィスト二世は、まだ一郎が小さい頃は頻繁に様子を見に来ていた。
「毎日が事件だったあの頃が懐かしいね。」
「三世君もいたのに、君には本当にお世話になったよ。」
「気が抜けなかったからなぁ。」
真吾が子供の世話に慣れておらず、一郎も暴れん坊だったので心配で仕方がなかったというのはある。だが何より、赤い天使に対する警戒を解くことができなかったのだ。今はもうすっかり落ち着いているが、変わらず強固な結界を学校に張り巡らせている。
「一郎君は随分腕を上げたように見えるけど。魔力が成熟してきたね。」
先程一郎に感じた印象を伝えると、真吾は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「一郎の成長が最近は特に著しいんだ。体の成長に合わせて魔力も順調に育っているし、あとは安定すればいいんだけど…精神が影響するから、課題はそこだなぁ。でもそれを補って余るほど知識と技術が身に付いているし、本人も自信があるようだし。色んな経験を積ませたいけどなかなか難しいね…少しずつ連れ出してはいるんだけど、一郎は研究の方が楽しいみたいで…」
語りだして止まらない真吾に二世は苦笑いをした。心底一郎の成長が嬉しいのだろう。
三世の話をする時の二世も似たようなものだが、本人はそれに気付いてなどいない。
ニヤニヤして聞く二世に真吾は、言葉を切って照れ笑いをする。
「とにかく、一郎は凄いんだ。僕はすぐに追い越されてしまうかも知れない。」
「それは無いよ。」
「いや僕も驚くくらいよく学んでいるし発想が斬新で…最近は疑問があっても自分で解決できてしまうから、あまり質問をしてくれなくなったんだ。昔は何でも訊いてくれたんだけどね…」
真吾は淋しそうに微笑むとお茶を啜った。
まさか友人から親離れの寂しさなど聞く日が来るとは思わなかった。
三世は、あれがそうだったのかな、と思うくらい反抗期を穏やかに終え、今も構いたがる親に付き合ってくれる。だから三世の冷たい態度など想像できないが、もしそんな事になったらショックで寝込んでしまうかも知れない。
「でも悪魔くんとしての自覚はまだ足りないみたいなんだ。ソロモンの笛がまだ応えない。一郎が真に理解していない証拠だよ。それではソロモンの笛と心を通わせられない。どうしたら役割を理解してくれるか悩んでるよ。」
落雁の包みを解きながら、二世は首を傾げる。
「急ぎ過ぎじゃないか?まだ思春期真っ只中だし、それが落ち着いてからでも遅くないと思うよ。」
「そんなにのんびりしていていいのかな…今実質的に悪魔くん不在の状態だし、それに僕が悪魔くんとして得た物をできるだけ多く渡していきたいんだ。それは早ければ早いほど良い。」
「もどかしい気持ちもわかるけど、自分を基準にしたらダメだからな。悪魔くんは幼いうちからだいぶ成熟してたけど、一郎君はこれからなんだから。」
「うーん、でも一郎はもう実力はあるんだよ。」
「使命も大事だけど、それよりも優先しなきゃいけない事があるだろう。」
「精神的自立…。」
一郎を早く一人前にしたい理由はわかっている。何かあった時に、そして真吾が側にいない時に、自分で自分を守れるようにしておきたいのだ。ソロモンの笛はその助けになる。
いつまでも何事もない日々が続くわけではない。それを真吾はよく分かっているのだ。
でもなぁ、と二世は溜息をついて次の落雁の包みを解く。
あの態度はヤキモチだよなぁ。
クソ親父などと憎まれ口を叩くが、一郎は真吾が大好きだ。恐らく一郎の世界のほとんどは父親で成立している。子供特有の世界観だ。マントの内に居て、父親の目を介して世界を見ている。
一郎は父親が教えたらそのままを呑み込むだろう。父親の指差す方へ行き、父親が良しとするように行動するだろう。
真吾は、一郎も自分と同じように悪魔くんの目で世界を見ていると思っている。だが違う。一郎が見ているのは真吾だ。
口の中で溶ける甘い砂糖菓子が消えるのを待って、二世は口を開いた。
「悪魔くんはファウスト博士の遺志を継いで、教育者としての責任もあるけど、その前に一郎君の家族であることを忘れちゃいけない。『幸福な王子』のようになっちゃダメだよ。」
真吾はハッとした顔をして二世を見ると、そうだねと頷いてそのまま考え込んだ。
二世は、自分の想いが真吾に伝わったと思っていた。
真吾から千年王国研究所の話を切り出されたのは、それから間もなくだった。
予め全て用意されていたかのように準備が整い、子供達が納得したのかも曖昧なまま、あっという間にその日はやって来た。
二世は、初めて顔を合わせた従兄弟に散々に言われて怒る息子を残し、後ろ髪を引かれながら扉を閉じた。
真吾は大きく溜息をついて、メフィスト二世を見上げた。
「本当に申し訳ない。一郎にはあとでちゃんと言っておくから。三世君にも謝りに行くよ。」
「ニコニコ笑顔で握手、なんて事にはならないって分かってたから大丈夫さ。三世も強いしね。寧ろ心配なのは一郎君の方だよ。」
「一郎?」
目を丸くする真吾に、メフィストは小さく頷いた。
「悪魔くん、僕はねぇ、二人で春を迎えて欲しかったんだよ。」
首を傾げる友に腹立たしささえ感じる事がある。
何か大きな物を他人に分け与えてしまった彼に、幸せであれと願うなど不毛なのかもしれない。
扉を閉めた時の光景が二世の目の裏に残る。
自由の始まりの部屋で、若い燕が途方に暮れて窓の外を見ていた。
メフィスト二世は目を伏せた。
僕は余計な事を言ってしまったのだろうか。
✡✡✡
「やぁ、久し振りだね、メフィスト二世。」
「久し振り真吾くん。」
書斎机で書き物をしていた友人が顔を上げた。
タキシード姿のメフィスト二世が手土産の麻袋を示すと、真吾はペンを置いて椅子から降りた。
「何か悪魔界で用事があったのかい?その袋は?」
「いざこざがあって仲裁に呼ばれたんだよ。そのいざこざの原因になった希少な鉱石を少しだけ分けて貰えたから、真吾くんにあげようと思ってね。」
「ありがとう、メフィスト二世。一郎も見てみるかい?」
麻袋を受け取ると、真吾は嬉しそうにソファに持って行った。
ソファで寝そべって本を読む息子はチラリと父親を見ると、短く鼻で息を吐き本を閉じた。
息子の隣に座ると、麻袋から鉱石を出しテーブルに並べていく。その一つを手に取り、息子はしげしげと眺めた。
相変わらず睦まじい様子を眺めて二世は微笑んだ。
研究所を始めた時にはどうなるかとずいぶん心配したが、それは杞憂だった。王子の像がいくら燕に自由をと突き放したところで、素直に聞くような燕ではなかった。
一時は連絡を取り合わなかった時期もあったが、最近は頻繁に行き来するようになっていた。一郎の憎まれ口は相変わらずだが、以前の仲の良さが戻って来ていた。
鉱石はゴツゴツとした表面に金属のような光沢がある。指で確かめる一郎に真吾は「綺麗だねぇ」と話しかけた。
「何の石か分かるかい?」
「深成岩だな。内包している鉱物に特徴が?」
「前から貴重な鉱物資源が眠っていると噂されていた山だったんだ。長い間休火山だったけど、ここ数年急に活発化して大規模な噴火を起こしたんだよ。で、さっそく火成岩が調査されて、噂が本当だった事が分かったんだ。その鉱物がどんな物かと言うと…」
唐突に始まる真吾の講義にも慣れた様子で、一郎は黙って耳を傾けている。
二世はやれやれと向かいのソファに腰掛けると、奥から百目が紅茶とお菓子のトレイを持って来た。
百目は二世の隣に座ると、さっそくクッキーに手を伸ばす。
「悪魔くん教育熱心なんだモン。」
「ありがとう百目。真吾くんのアレは生まれついてのものだよなぁ。」
「悪魔くん、一郎悪魔くんが色々訊いてくれるのが嬉しいんだモン。一郎悪魔くん頑張ってるモン、ソロモンの笛もきっとすぐに吹けるようになるモン!」
百目はクッキーを口に頬張っておいしそうに顔を綻ばせた。
二世は香りの立つ紅茶を取ると一口含んだ。
ふと、目の前の二人に目を遣る。
楽しそうに話を続ける真吾を、一郎が見詰めていた。
王子が両目を失った後、燕はどうしたのだっけ?
燕は王子を飾る宝石や金箔を剥いで貧しい者に届け続けた。王子が望んだ通りに。そして役割を終えると、全てを失った王子に寄り添ったのだ。
二世は、カップをソーサーに置いた。
まだ終わっていない。これは続きだ。物語はまだ終わっていない。
一郎の目が二世の目と出逢った。
仄暗く固い決意を宿した燕の瞳。その手に持つ鉱石が鈍く煌めいた。
二〇二五年〇九月二二日 かがみのせなか