幸せの棲み処 「アシカさん可愛かったモン!」
興奮が冷めない百目が、数歩前をピョンピョン跳ねながら歩いている。メフィスト二世が隣で苦笑いをしながら窘めた。
「おい、人にぶつかるぞ。」
「アシカさんは芸をたくさん覚えて賢いんだモン。」
「上手だったねぇ。」
「楽しかったモン!」
はしゃぐ百目に、真吾は水族館に来てよかったと微笑んだ。
きっかけはテレビだった。
嫌々夏休みの宿題を進めながら、気分転換に何処か遠出したいなと考えていた時だった。
お昼の素麺を食べながら観ていたテレビが、夏休みで賑わう行楽地を取り上げていて、その日は水族館が特集されていた。
茹だるような暑さで辟易していた毎日に、青い水の中、魚達が泳ぐ涼しげな光景はとても魅力的だった。
一緒にテレビを見ていた百目が小さく「行ってみたいモン」と呟いて、そこから遊びに行こうと決まったのはすぐだった。
真吾が絵日記を言い訳にしてお願いすると、母は笑って許してくれた。
「理由なんて用意しなくていいから、どこへでも遊びに行ってらっしゃい!」
二世さんも行くんでしょう、と三人分のお小遣いをポンと出してくれた母は何故か嬉しそうに見えた。
人の流れに乗って本館に通じる渡り廊下を抜ける。父親に手を引かれて歩く女の子がペンギンの縫いぐるみを持っていて、それを目で追う百目に気付くと、真吾は「後でお土産見に行こうね」と囁いた。
「やったモン!」
「今日は百目に大サービスの日だな。」
ハハハと笑うメフィスト二世も楽しそうだ。真吾は本当に来て良かったと思いながら、去年の夏休みはどう過ごしていたかなと、ふと考えた。
メフィスト二世達と出会う前の夏休み。
毎日、やはり魔術の研究をしていた気がする。新しい方法を考えては悪魔を呼び出す実験をしていたのだろう。あとは、貧太くんとザリガニを釣りに行ったり、キリヒトくんの教会で催されたバザーに行ったり、図書館のイベントの星を見る会にエツ子と参加したり…
「悪魔くん、疲れたか?」
我に返ると、メフィスト二世が心配そうに真吾の顔を覗き込んでいた。真吾は慌てて首を横に振った。
「大丈夫だよメフィスト二世、何でもないんだ。」
そうか、と言いつつも二世は安心していないようだ。
「悪魔くんは無理するからなぁ。」
「本当になんでもないんだよ…」
最近、悪魔との戦いがますます厳しいものになっているので、真吾の体調を気遣ってくれているのだ。
「ちょっとぼうっとしてただけだよ。」
心配してくれるのがこそばゆくて、真吾がわざと口を尖らせると、わかったよ、と二世は諦めたように眉を上げた。
照明を落とした館内は沢山の人で混み合っていた。上手く場所を確保しながら展示をひとつひとつ観て回る。
南洋の色とりどりの小さな魚達は、アクリルの窓の向こうで花のように舞っていた。白い砂も珊瑚もある。まるで海が切り取られたかのようだった。
魚達に夢中になってしまうと、どうしても注意が疎かになってしまうから、真吾は、はぐれてしまわないように百目の手を握り、二世に寄り添った。
水族館では自然に距離が近くなる。
水槽覗き込んだすぐ横にお互いの顔があって、二世と真吾は照れ笑いをした。
フロアの最奥に行くと、より一層混んでいる広いホールのような区画があった。
入ってみると、壁一面が大きな窓になっており、百目がわぁっと声を上げた。
百目が駆け寄るその向こうには、三頭のイルカが悠々と泳いでいた。
イルカのプールの一部が観覧用の窓になっているのだ。夏の強い陽光に照らされた青い水底のホールは、まるで海の中にいるようだった。
イルカ達の背中に光の波紋が映っている。
「こりゃすげぇなあ。」
「綺麗だね!」
頰をわずかに上気させてプールを見上げる真吾に、二世は顔を綻ばせた。
他の子供達に混ざって窓にへばりついている百目のところまで行くと、百目が目をキラキラさせて振り返った。
「ボク、イルカさんのショーも観たいモン!」
真吾はさっそくパンフレットで時間を確認する。
「まだ今日はショーがあるみたいだね。チケット早めに買っておこう。」
わーいと喜ぶ百目を見て、隣にいた男の子が後ろの親を振り返った。両親が苦笑いをして顔を見合わせている。
なんだか申し訳ないなとパンフレットを閉じていたら、百目が突然あっと声を上げて頭に手をやった。
「どうした、百目。」
二世が訊くと、百目はションボリして言った。
「帽子失くしちゃったモン…」
今度は真吾と二世が同時にあっと声を上げた。百目の頭を撫でながら真吾はははっと笑った。
「そういえば被ってたね…」
「全然気付かなかったぜ。百目、どこで脱いだか覚えてないか?」
三人は窓の前から離れながら、うーんと頭を捻った。
「水族館に入った時は確かに被っていたと思う。館内のどこかだね。」
「アシカのショーじゃねぇか?」
「わかんないモン…」
「しょうがねぇなぁ」
とりあえず行ってみようと、三人は早足で歩き出した。
真吾は先に歩く二人を追って、人の間を抜けて行く。気を抜いたら見失ってしまいそうだ。
距離が離れてしまったので真吾が二人に待ってと声を掛けようとした、その時だった。
『君ハ悪魔クン?』
「えっ?」
真吾は立ち止まり、振り返った。
駆けていく百目を追って、二世も走る。二人は誰にもぶつかることなく器用に人の流れを遡っていった。
ショー会場は入口が開放されたままだった。
誰もいない会場に入ると、百目はひな壇になっている観覧席をペタペタと降りていった。
小規模なプールにアシカは居ない。奥に入って休憩しているのだろう。
「確かこの辺りの席だったモン」
無い無いと言いながら辺りを見回す百目に、「下に落ちてるんじゃねぇか?」と二世は白い座席の下を覗き込んだ。
座っていた場所には見当たらず、一列ずつ水色の階段を降りながら丁寧に見ていく。
まさかそんなところにはないだろうよ、と思っていた最前列で、百目が身を屈めたなと思ったら、ベージュの帽子を掴んだ手を掲げてピョコンとジャンプした。
「あったモン!」
「良かったな!きっと蹴り落とされちまったんだろうな。」
帽子についたホコリをポンポン払い、百目は嬉しそうに被った。
「もう失くさないモン。」
「それにしても」
二世は入口を振り返る。
「悪魔くん来ないな。」
二世は、真吾が付いてきていないことに気付いていたが、迷子の適性が高い百目から目を離すわけにはいかず、きっと後からすぐ追いつくだろうと待たなかった。
悪魔くんが何も言わずひとりでいなくなるなんてまず有り得ない。
何かあったのか。
「迷子になったモン?」
「百目じゃあるまいし、それは無い。」
二世の顔が曇る。
「メフィスト二世は心配しすぎだモン。ちょっとはぐれただけだモン。」
「何言ってんだ、アイツは悪魔くんだぞ。」
肩を竦める百目に、僅かに二世の語気が強くなる。
東嶽大帝に狙われているし、それでなくても何にでも巻き込まれる奴だって分かっている事じゃないか。
二世は自分に舌打ちした。
楽しくて浮かれて油断した。とんだ大馬鹿野郎だ。
二世が急いで引き返すのを、百目が慌てて追いかけた。
「本当に何でもないんならそれでいい。でもそうじゃなかったらどうする。」
二人は落ち着かない気持ちで、人で埋まる館内を隅々まで見て回った。不思議そうに二人を見る人の目も気にしない。二世に必死について行きながら、百目も全身の目で探した。
「どこも騒ぎになってないモン、大丈夫だモン。」
そうかもな、と同意しつつも、その姿を確認するまでは安心できなかった。
悪魔くんを守るのは自分なのだ。
結局見付からずイルカのエリアまで戻ると、探していた姿がそこにあった。
二世は、なんだよと胸を撫で下ろしながら足を踏み入れたが、眉を顰めた。
ついさっきまであんなに人で溢れていたのに、何故か今は真吾以外誰も居なかった。
真吾はひとり淡い光に照らされて、静かにプールを見上げていた。
胸に下げたソロモンの笛から仄かな光が消えていく。
笛を使うようなことがあったのか?
二世は声をかけるのを躊躇い立ち止まった。背中にぶつかった百目は鼻を押さえて二世に文句を言いかけたが、いつもと違う真吾の様子に気付いて口を閉じた。
二世は拳をギュッと握った。
「悪魔くん」
二世の声に、真吾の指先がピクリと動いた。
真吾はゆっくり二人を振り返ると、夢を見ているような顔で「メフィスト二世」と呟いた。
二世は真吾に歩み寄る。
「帽子見つかったんだね、良かった。」
「悪魔くん、大丈夫か?何があった。」
「どうしたんだモン?」
目を覗き込む二世と、腕にしがみつく百目を交互に見て、にっこりする。
「何でもないんだ。」
「何もないわけないだろう。」
「イルカと話をしていたんだよ。」
「イルカと?すごいモン!」
二世は水の中に目を向けた。イルカ達は何事もなかったかのようにゆったり泳いでいる。
エリアに集まり出した客達に挨拶するように、三頭は入れ替わりながら窓に近付き、尾を振って泳ぎ去っていった。
「どんなお話したんだモン?」
「故郷の海を見せてくれたよ。」
「それだけか?」
真剣な二世に、真吾は可笑しそうに笑う。
「心配性だなぁ、それだけだよ。」
二世はムッとして言い返した。
「俺は悪魔くんに何かあったら自分が許せねぇんだよ。」
思わぬ言葉に、百目は思わず口元を押さえ、真吾は一瞬キョトンとした。
しまったと言う顔をしてそっぽを向く二世に、真吾は頰を仄かに染めながら微笑んだ。
「いつもありがとう、メフィスト二世。」
二世は、フンとわざとらしく鼻から息を吐くと、真吾に向き直り、ニヤリと笑った。
「なんたって俺は第一使徒だからな!」
「どうして僕を知っているんだい?」
『ミンナ知ッテルヨ。』
会ってみたかったから嬉しいと、向かい合うイルカはキュルっと鳴いた。
「ここの暮らしはどうだい?」
『マアマアカナ。毎日、沢山ノ人ガ来ルカラ飽キナイヨ。子供ガ可愛クテ好キダ。人ガ来ナイ日ハ少シ淋シイ。』
いつの間にか真吾は深い海の中にいた。
柔らかい陽光が奥深くまで差し込む、澄んだ明るい海だ。
見上げると、頭上高くに波の光が煌めいていた。
水の揺れる音と、イルカの呼び合う声。
二頭の若いイルカがじゃれ合いながら、真吾の周りを一回りして泳ぎ去っていった。
今、イルカは故郷の海を思い出しているのだ。
真吾は群青の更に深くへと沈んで行く。
『ココハトテモ狭イケド、モリシタニ会エタ。』
クルクルと笑うイルカに真吾は目を細めた。
『モリシタハ、トテモ優シイ。沢山ノ遊ビヲ教エテクレル。苦シイ時、ズット側ニイテクレタ。助ケテクレタ。ココニ来ナケレバ、モリシタニ会エナカッタ。』
大好きなんだ、と嬉しそうにクルリと宙返りした尾鰭に、泡がプクプクと弾けた。
きっと飼育員の名前はモリシタというのだろう。イルカはとても大切にされているのだ。
そうなんだね、と真吾は呟いた。
大切なたったひとりに出会えたこと。それ以上の幸せは無いのかもしれない。
『君ハ?』
「僕?」
『君ノ毎日ハドウ?君ニハ、ソンナ人ガ居ル?』
そう聞かれて、咄嗟に黒いマントの後ろ姿を思い浮かべた。
艶やかに翻る漆黒のマント。
真吾はキュッと口を結んだ。
君がいない夏休みの方が多いなんて信じられないくらいだ。
どの思い出にも君の姿があるような気がしているのに。
僕の第一使徒。心配性で優しい悪魔。
「僕にもいるよ。とても、大好きなんだ。」
二〇二五年七月三〇日 かがみのせなか