看取りネタ室内はひどく静かだった。
その静寂を破るのは、壁際に並ぶ機器の作動音と、かすかな呼吸音だけ。
だが、その呼吸音も、今まさに消えようとしていた。
薄暗い照明のもと、無機質なベッドに横たわる男——アドラーの胸が、かすかに上下する。
それは今にも消えそうな灯火のようで、頼りなく、儚い。
傍らに立つウルリッヒは、じっとその様子を見つめていた。
彼の細い指がわずかに動きかけるが、結局、何もせずに拳を握る。
視線の先で、アドラーの肺がゆっくりと最後の空気を吐き出し——それきり、動きを止めた。
モニターが低く警告音を鳴らし、生体反応の消失を告げる。
規則的に点滅していた緑の光が、次第に赤に変わり——やがて、すべてが暗転した。
死。
——それは、あまりにも静かで、穏やかで、そして容赦のないものだった。
ウルリッヒは、ゆっくりとまばたきをする。
呼吸が止まったことを確認する。
もう、アドラーはどこにもいない。
かつてそこに「彼」がいたはずの肉体は、ただの物質へと変わり果てた。
血液は動きを止め、神経は断たれ、思考も意識もどこにもない。
それだけのことだ。
——そう、理解はしている。
だが、理解と納得は、まるで別のものだった。
「……やっと、楽になったわね。」
静かな声が、沈黙を破る。
ウルリッヒの隣に座るルーシーが、目を細めてアドラーの顔を見つめていた。
その瞳には、涙の一滴も浮かんでいない。
当然だ。
彼女は「人間」ではないし、そもそも泣くための機能すら持ち合わせていない。
それでも——ウルリッヒは、ちらりと彼女の横顔を盗み見た。
微かに弧を描く唇。
静かに、穏やかに、彼女はアドラーの亡骸を見つめ続けていた。
——まるで、そこに「彼」がまだ存在しているかのように。
「……ミス。」
ウルリッヒは、ぽつりと声をかける。
ルーシーが微笑み、彼を見つめた。
「ん?」
「ボクたちは……生き残ってしまったんですね。」
その言葉に、ルーシーの微笑みがわずかに揺らいだ。
「そうね。」
短く答えると、彼女は再び視線をアドラーへ戻した。
「……シモーネも、アドラーも、いなくなった。」
ウルリッヒは目を伏せた。
静かに、ただ静かに、その事実が降り積もる。
彼らは「人」だった。
老い、疲れ、死んでいった。
彼らと過ごした時間は確かに存在していた。
だが今、その存在はもうどこにもない。
——ボクたちは、彼らとは違う。
けれど、同じ時間を生きた。
それでも——。
「これで……本当に、ボクたちだけですね。」
ウルリッヒの呟きに、ルーシーは小さく息をつく。
「そうね。」
彼女はそれだけを言う。
——死を知る者たち。
それは、ただの概念ではなかった。
世界中の意識覚醒者の中でも、ルーシーとウルリッヒほど「死」という現象を理解している存在はいないだろう。
50年前——
彼らは免疫術式の副作用実験に何度も晒され、そのたびに死にかけた。
細胞の崩壊。
神経系の異常。
身体の拒絶反応——
ありとあらゆる形で「死」が彼らの目の前に現れた。
だが、彼らは死ななかった。
無数の苦痛と喪失を乗り越え、それでも——生き残ってしまった。
——それが、どれほど残酷なことか。
「……ミス。」
ウルリッヒは、アドラーの亡骸を見つめながら、ゆっくりとルーシーへ顔を向けた。
「ボクたちも……いつか、死ぬのでしょうか。」
ルーシーはその問いに、すぐには答えなかった。
彼女はただ、静かにアドラーの顔を見つめていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……コアが消耗すればね。」
遠い声だった。
「でも、きっと——。」
ルーシーは椅子から立ち上がり、アドラーの亡骸へと歩み寄った。
その動作はひどく静かで、まるで「死」そのものに触れることを恐れているかのようだった。
「私たちは……“死ぬ”ということが、どういうものなのか……本当の意味では、分からないのかもしれないわね。」
ウルリッヒは、それを聞いて目を伏せた。
「……そうですね。」
彼は再びアドラーの顔を見つめる。
目を閉じた彼は、まるでただ眠っているかのようだった。
けれど、それは「眠り」ではない。
——彼は、もう二度と目を覚まさない。
ウルリッヒは、口を開きかけたが——何も言わずに、ただ目を伏せた。
そして、ただ一言だけ、静かに呟く。
「……お疲れ様でした。」
それは、誰に向けた言葉だったのか。
アドラーへ?
それとも——生き残ってしまった、自分たちへ?
ウルリッヒ自身にも、それは分からなかった。
ただ、重い沈黙だけが部屋に残る。
——そして、二人は再び「生き続ける」。
この先、何十年、何百年——
何の答えも見つからぬまま、ただ。
§
「……ウルリッヒ?」
「あ、あぁいやミスすみません。……ただ、どうやらボクにも彼の軟弱な思考が写ってしまったようです。」
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