疲労で全員の頭がイカれてる——補給から340時間経過。
ウルリッヒの身体は明らかに限界に近づいていた。義体とはいえ、補給なしで動き続けるのには当然リスクがある。エネルギーが切れかけている今、彼の思考はまるで霧に包まれたように鈍重で、視界もところどころ霞んでいた。
それでも、なんとか意識を保つためにウルリッヒは机の上のコーヒーカップをじっと見つめた。
(……そろそろ補充しないとマズいな)
カフェインが切れるとさらに判断力が落ちる。ウルリッヒはそれを本能的に理解していた。
コーヒーを入れ直す、それだけのことを考え、力なく立ち上がる——
その動作が、思いもよらぬ事故を引き起こすとは知らずに。
ゴンッ!!!
鋭い衝撃音が、室内に響き渡った。
次の瞬間、アドラーの脳内が一気に真っ白になる。
「——ッ!?」
何が起こったのか、まるで理解できなかった。ただ、激痛とともに意識が一瞬飛びそうになり、全身が硬直する。
鼻の奥で鈍い衝撃が炸裂し、骨の軋む感触と共にバキッという不吉な音が響いた。
熱い。
鼻の奥に広がる硝煙の匂い。
そして——
止めどなく流れ出すものがある。
「あ……」
アドラーはゆっくりと手を顔に添えた。自分の鼻の奥がじんじんと痺れるように痛い。 そのまま鼻を押さえると、どろっとした感触が指先に伝わる。
「……え?」
手をゆっくりと目の前に持ち上げる。
そこには真っ赤な血がべったりと広がっていた。
ウルリッヒはというと、まだぼんやりとしていた。
(ん? 何か……変な音がしたような……)
視界の端で、何かが赤く染まっていくのが見えた気がする。だが、疲労で思考がまともに働かない彼は、すぐにその違和感を理解できなかった。
ただ、目の前のアドラーの様子が明らかにおかしい。
「……アドラー?」
ウルリッヒはまばたき(?)をした。
アドラーは、呆然としたまま鼻血を垂れ流しながら立ち尽くしている。鼻の下どころか、口の端、顎の先まで赤い筋が伝い、滴となってポタポタと床に落ちていく。
「……え、お前、今何した?」
アドラーの声は、どこか遠くから聞こえるような響き方だった。
鼻の奥がひどく痛む。
骨がミシッと軋んだ感触がまだ残っているし、何より、熱を帯びた血が止まらない。
しかし――
アドラーの思考もまた、混乱でぐちゃぐちゃだった。
普段ならすぐに「ウルリッヒの頭がぶつかったせいだ」と判断できるはずなのに、今の彼の頭は明らかにおかしかった。
ウルリッヒのぼんやりした表情を見ていると、なぜか自分もつられて思考が遅くなっていく。
「……あれ? 俺、なんで鼻血出てんだ?」
「……ボクが知りたい。」
ウルリッヒは疲労で磁性流体をしばたたかせながら、アドラーの顔を見つめた。アドラーもまた、ウルリッヒの顔をじっと見る。
二人とも、異常なまでに動きが遅い。
アドラーは鼻をすすろうとしたが、鼻の奥に違和感が走り、ズキッ!とした痛みが襲う。
「いって……!」
思わず顔をしかめる。
でも、痛いだけでなく、頭がぼんやりしているせいで変に楽しくなってきた。
鼻血を流しながら、アドラーはふと、目の前のウルリッヒの妙な耳に目をとめた。
(こいつの耳……なんでこんなとこにあるんだっけ……?)
普段なら当たり前すぎてスルーするはずのギアが、今のアドラーには新発見のように感じられる。
「なぁ……」
アドラーは、ウルリッヒの耳にそっと手を伸ばし――
「……?アドラー何を——」
ぴとっ。
「……」
「……」
ウルリッヒの耳に、アドラーの血まみれの指が触れた。
「…………」
「…………」
……何してんだ?
ウルリッヒが疲労で思考停止しているのと同じように、アドラーも頭がぼんやりしていた。
だから、血まみれの指で相手の耳を触ることの意味を、一瞬考えなかったのだ。
「あっ……」
ようやく状況を理解した瞬間、
「……オエエエエ!!!」
アドラーは衝撃で変な声を上げ、全力で後ずさった。
「な、なんで俺、お前の耳触った!? え、きもっ! 俺、きもっ!!!」
一人で大混乱し、鼻血をさらに床に撒き散らすアドラー。
ウルリッヒは、まだ″???″と磁性流体を変形させていたが、
「……あー……」
鼻血のついた耳を見つめ、
「……これ、ちゃんと消毒しないとダメか?」
と、実にどうでもよさそうな声で言った。
§
「……え?」
その場の異様な空気を打ち破ったのは、唐突な第三者の声だった。
「え……何これ……殺人現場?」
振り向くと、ドアの向こうで、Xがドン引きした顔をしていた。
「……いや、ミスター・ウルリッヒ、なんで耳血まみれなの?」
「いや、ボクが知りたい……」
「というか、ミスター・エニグマ、なんで鼻血ダラダラ流してるの?」
「それも俺が知りたい……」
「……えっと…喧嘩でもした?」
Xの質問に、二人は沈黙する。
そして、アドラーは改めてウルリッヒの義体の硬い頭と変な耳の位置を思い出し、
「……やっぱ、お前の頭おかしくねぇ?」
と、呆然と呟いた。