空腹ジュースロンドン近郊の海を荒らし、政府の回線をジャックしてロックを流しまくるAPPLe号の船長、レグルス。しかし、海賊稼業もそう楽ではない。特にこの数週間、補給が途絶え、まともに飯を食えていないのだ。
潮の香りが鼻を刺す。
レグルスは船の縁にもたれ、ぐったりと海を見下ろしていた。彼女の金髪は潮風に乱され、額に張りついている。舌で唇を舐めると、塩辛さだけが残った。
「……おなか、すいた……」
どれほどの時間が経ったのか。
APPLe号の食料庫はとうの昔に空っぽになり、船内の隅々まで探したが、もはやパン屑一つすら見つからなかった。
レグルスは普段、陽気で豪快な性格だ。多少の飢えや困難なら、ロックを流して笑い飛ばしてしまう。しかし、今回は違った。
胃はすでに空っぽを通り越し、痛みすら感じなくなっている。頭がぼんやりとして、足元が頼りない。視界の端が揺らぎ、意識が遠のくような感覚に襲われる。
「……やばい、マジで……これ……」
指先に力が入らない。
ふと、目の前の海が、やけに美しく見えた。
キラキラと輝く青い波。ゆったりと揺れる透明な水面。レグルスはふらりと膝をつき、船の縁から身を乗り出した。
「なぁ、海水って……飲めるんだっけ……?」
かすれた声で、誰に言うともなく呟く。
思考がまともに働かない。乾ききった喉が、目の前の水を求めている。
手を伸ばせば、指先が水面に届きそうだ。
「……ちょっとだけなら、いけるかも……」
レグルスはゆっくりと手を伸ばした——その瞬間。
「それはいけませんぞ、船長。」
ふわり、と背後から腕が伸びたかと思うと、優しくしかし確実な力でレグルスの肩が引き戻された。
「うわっ!」
突然のことにバランスを崩し、レグルスはその場に尻もちをつく。
「……って、あんたかぁ……APPLe……」
見上げると、APPLeが静かに浮かびながらこちらを見下ろしていた。相変わらず整ったリボンタイを、微笑とも哀れみともつかない仕草で整えている。
「海水を飲むなど、正気の沙汰ではありませんぞ。」
「……でも、喉、乾いたし……」
「船長、塩水を飲めば余計に脱水症状が悪化し、さらに衰弱してしまいます。」
そう言いながら、APPLeはふわりと漂い、レグルスの前に降り立つ。
「私は船長が馬鹿げた行動に走る前に止める義務がありますのでな。」
「馬鹿げたって……じゃあ、この状況でどうしろってのよ……!」
レグルスは悔しげに舌打ちし、ぐしゃっと金髪を掻き乱した。
その様子を見ていたAPPLeは、ふわりと船内を浮遊しながら、静かに言葉を発した。
「どうやら船長は極限の飢餓状態にあるようですな。」
「だからそうだって言ってんじゃん……何か食べられるもの……ないの?」
レグルスは力なく船内を見回す。だが、当然のように何もない。
食べ物がない。飲み水も尽きかけている。
このままでは、本当に干からびてしまう。
APPLeはしばらく沈黙していたが、やがて静かに息をつくと、どこか決意を固めたような顔になった。
「……仕方ありませんな。」
その声には、どこか含みがあった。
レグルスは、疲れた目をAPPLeに向ける。
「……何?」
APPLeは微笑んだ。
「船長、お待ちください。すぐに、あなた様の飢えを満たして差し上げますぞ。」
「え?」
次の瞬間、APPLeは自らの白く滑らかな手を胸元へとかざした。そして、そっと指先を滑らせるように動かすと、彼の身体からじわりと透明な雫が滲み出し、それが次第に濃い黄金色へと変わっていった。
「え、何……?」
それは、どこまでも純粋なりんごジュースの香りだった。
「船長、これをお飲みください。」
APPLeは掌を傾け、滴るジュースを優雅な手付きで小さなグラスへと注ぐ。その動作はまるで高級なワインを扱うソムリエのようだった。
レグルスは目を瞬かせる。
「あ、あんた、どっから出したのそれ……?」
「無粋な詮索は不要ですぞ。さあ、どうぞ」
差し出されたグラスからは、ふんわりと甘酸っぱい香りが立ち昇る。
レグルスはゴクリと喉を鳴らし、疑問を抱きつつも、誘惑には抗えなかった。
「……ま、いっか! いただきまーす!」
そう言って、一気にグラスを傾ける。
口の中に広がるのは、濃密な果実の甘みと、ほんのりとした酸味。極限の空腹だったことも相まって、その味はとんでもなく美味だった。
「ん~~っ!! これ、めちゃくちゃウマい!!」
レグルスは感激しながら、グラスを両手で包み込むようにして味わった。
だが、その様子を見ていたAPPLeは、何とも言えない奇妙な感覚に襲われていた。
彼の身体から絞り出された液体が、レグルスの喉を通り、吸収されていく——
それは、どこか妙にぞわりとする感覚を伴っていた。
「……くすぐったいような、背筋が泡立つような……なんとも説明しがたい気持ちですな。」
自らのジュースがレグルスの体内へと取り込まれていく光景を目の当たりにしながら、APPLeは浮遊する姿勢を微かに崩した。
「……船長、それほど美味しいのですか?」
「めちゃくちゃ美味いって!! もっとないの!? おかわり!!」
無邪気な笑顔でグラスを差し出すレグルス。
APPLeは静かに微笑むと、再び指を滑らせるようにして、黄金色の液体を滴らせた——
その心の奥に、先ほどのぞわりとした感覚を残したまま。