ミルトン部長とガキラプラス本部、大ホール。
天井高く広がるドーム型の会議ホールには、白く輝く無数のホログラムパネルが浮かび、ラプラスの全体会議が進行していた。最前列にはラプラスの幹部や高官たちが座し、背後には数百人に及ぶ職員が列をなしている。ホールの空気はどこか張り詰め、だが、期待と敬意の入り混じった熱気が満ちていた。
その中央に立つのは、アドラー・ホフマンいや、エニグマ。
これまでラプラスの裏方で研究に没頭してきた彼が、初めて公の場でスピーチを行うという歴史的瞬間だった。
「——ストームの免疫術式に関する研究の成果を、ここで皆さんに報告できることを光栄に思います。」
エニグマの声は静かで落ち着いていたが、彼の言葉はホール全体に響き渡った。緊張しているかと思いきや、彼の表情には自信と誇りが宿っていた。褐色色の瞳越しにホールを見渡しながら、一言一言を丁寧に紡ぐその姿は、研究者というよりも、長年この未知の脅威と戦ってきた戦士のようにすら見えた。
「我々は7年間、ストームの謎と向き合い続けてきました。かつて、その異常気象と未知時代病によって科学の未来は閉ざされたと、多くの者が信じました。だが——」
その瞬間、エニグマの視線がわずかに動き、最前列に座るミルトンに向けられた。
「——科学は死んでなどいなかった。」
ミルトンはその瞬間、エニグマの顔を見た。
8年前、1度目のストームが訪れた時、エニグマは絶望の淵で吐き捨てるようにそう言った。あの時のエニグマは、科学そのものに見切りをつけ、自暴自棄になりながらも、心の奥底ではその死を信じきれていなかったのかもしれない。
だが今、エニグマの表情は違った。
皮肉屋の仮面は相変わらずだが、その目は静かに、しかし確かな誇りと感慨を湛えていた。
「我々は新たな免疫術式の構築に成功しました。」
エニグマは話を続ける。
「この術式は、ストームが引き起こす変異を抑制し、免疫系の自己破壊を防ぐことができます。今後、この術式はさらに最適化され、広範囲への適用が可能になるでしょう。」
ホールの空気が一瞬張り詰め、次の言葉を待つ。
「そして、この成果は——意識覚醒者である、ミス・ルーシーやウルリッヒの多大なる貢献なしには成し遂げられなかった。」
ミス・ルーシーの名前が呼ばれた瞬間、拍手がホール全体に広がった。
ミルトンはその光景を見つめながら、静かに目を細めた。8年前、ルーシーもまたストームの影響を受け、その身を危険に晒しながらも研究を続けていた。
「彼らの粘り強い研究と、免疫学への洞察が、今回の術式開発の基盤となりました。」
エニグマの声は感謝と尊敬に満ちていた。彼は一度深く頭を下げ、ミス・ルーシーに敬意を表した。
だが、ミルトンの視線は再びエニグマへと戻った。
拍手の中、エニグマはただ静かにそこに佇んで。表情は変えずに前を見据えていた。だが、ミルトンには分かっていた。
——誇りだ、と。
この8年間、エニグマは決して変わったわけではない。彼の皮肉屋の性格も、冷笑的な態度も、あの頃のままだ。だが、その皮肉の奥に、確かに何かが変わった。
人と関わることを避けてきたエニグマが、今は人を信じ、共に未来を切り開いている。
それを象徴するかのように、エニグマは最後にこう締めくくった。
「この研究の成果は、ラプラスだけでなく——この世界の未来のためのものです。我々は、科学の名の下に歩み続けます。」
再びホールが拍手に包まれる。
エニグマは一礼し、静かに演壇から降りた。
§
「スピーチはどうだった?ミスター・アドラー」
軽く肘をつついて尋ねると、アドラーはわずかに目を細めて言った。
「……まぁ、悪くはねぇな。」
悪くはない。
その言葉の裏に隠された感情を、ミルトンは確かに感じ取っていた。
「はは……7年前のお前さんなら、『くだらん』で済ませていたはずだがな。」
「皮肉を言わなきゃ、俺じゃねぇって?」
アドラーはそう言って微かに微笑んだ。だが、その目は——7年前には決して見せなかった誇りと、希望を確かに宿していた。
ミルトンは心の中で静かに頷いた。
「変わったな、アドラー。」
そう、7年という時の中で、彼は人と関わることで少しずつ変わっていた。
科学は死んでいなかった。
そして、アドラー自身もまた——死んでいなかったのだ。
§
ラプラス本部、中央棟・研究管理フロア——
ミルトンは足早に廊下を進んでいた。普段は穏やかで、どこか悠然とした彼の歩みには、明らかに焦燥の色が滲んでいた。
「……なんてこった……ミス・ルーシーが去る?」
その言葉が耳に入った瞬間、ミルトンの心は乱れた。信じがたいニュースだった。ミス・ルーシー、ラプラスの最高責任者であり、今回の免疫術式研究の中心人物、ストームの免疫メカニズム解明に貢献した彼女が、この組織を去るという。
理由は——免疫実験の責任を取って、だという。
「……バカを言うな。」
ミルトンは低く呟いた。彼女の研究がなければ、ストームの免疫術式はここまで進歩していなかった。犠牲もあっただろうが、ミス・ルーシーの知見と努力がなければ、今もストームの影響で数えきれない命が危機に晒されていたはずだ。
だというのに——
「責任を取る、ねぇ……」
ミルトンの表情は険しかった。
彼は胸ポケットから、いつも持ち歩いている食品衛生部のIDタグを無意識に握り締める。ラプラスでの長年の経験が彼に教えてきたこと——組織というものは、功績よりも失敗に厳しい。どれほど貢献してきた人物でも、ひとたび責任問題が浮上すれば、あっさりと切り捨てられることがある。
——突如、フロアの天井近くから響き渡る声。
「——ああ、わかったよ!」
その声にミルトンは一瞬、眉をひそめた。
アドラーだ。
パスコードの専門家—— あの皮肉屋が、こんな場所で声を荒げるのは珍しい。
「アドラー?」
ミルトンが思わず名を呼ぶ。だが、エニグマの顔は硬直していた。彼の目は、ミス・ルーシーではなく、廊下の向こうにある吹き抜けの廊下の上——そこに立つアドラーを見つめていた。
「あんたが望んだとおりに、あの就任要請に応じるよ!」
エニグマの声はいつもより低く、しかし確かな決意が込められていた。
「あのうざったい議員たちにそう伝える——」
その声はフロア全体に響き渡り、瞬く間に静寂が訪れた。
扉の縁に掴まり、他人の視線など気にもせず、エニグマは叫んでいた。
彼の髪は少し乱れ、頬には疲れの跡が浮かんでいる。だが、その瞳はかつての皮肉屋ではなく、確固たる信念を宿した男のものだった。
「だが、この決断は、高所から俺たちを見下すお偉いさんのためじゃねぇ———!」
ミルトンの眉がピクリと動いた。
「……おい、あいつ……」
「外からこの建物を憧憬の眼差しで見上げる奴らのためだ!」
——その言葉が放たれた瞬間、フロアの空気が変わった。
一瞬、ミルトンは言葉を失った。8年前、ストームの惨劇の後、科学の敗北を嘆き、皮肉と絶望の中で自暴自棄になっていた男——あの頃のエニグマの姿が脳裏をよぎった。
「……成長したな。」
ミルトンは、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「あれが……あの皮肉屋だったエニグマ…いや、アドラーだと?」
まるで信じられない光景だった。
「ミス・ルーシーへ!」
突然、どこからともなく響いたのは——
ウルリッヒの声だった。
「敬礼!!」
その一言が、フロア全体に反響した。
一瞬の静寂。
そして——
ミルトンは無言で、手にしていた計算用紙を握りしめた。
「……ったく、洒落たことしやがって。」
だが、その口元は微かに緩んでいた。
次の瞬間——ミルトンは、計算用紙の束を宙へと投げ上げた。
——パラパラと、白い紙片が舞う。
まるでライスシャワーのように、光を浴びて紙がひらひらと落ちていく。
研究員たちの言語の違った感謝の声が響く中、ミルトンは動じなかった。
「ルーシーに敬意を払うなら、これくらいはしてやらねぇとな。」
ミルトンは腕を組み、静かに紙片が舞い落ちる光景を見守った。
その光景の中で、エニグマは沈黙していた。
だが、彼の瞳には——
アドラーの決意と、ルーシーへの想いが、確かに映っていた。
「……ミス・ルーシーのため、か。」
ミルトンは静かに呟きながら、舞い落ちる計算用紙の中に、彼女の未来への希望を感じていた。
そして、その想いは、フロア全体へと広がっていった。
ルーシーへ、敬礼——。
彼女の名を胸に、ラプラスの未来は今、動き出そうとしていた。
§
ラプラス本部・中央会議室——
巨大な円卓の周囲には、各部門の主任たちが静かに座していた。
その場には、重厚な空気が漂っていた。
天井のライティングは絞られ、壁際のモニターには「責任者交代に伴う緊急会議」の文字が浮かんでいる。
ミルトン部長はテーブルの端で腕を組み、視線を落としていた。その横顔は険しく、いつもの穏やかな態度とは裏腹に、眉間には深い皺が刻まれている。
「……ミス・ルーシーの意向で、アドラー・ホフマンとウルリッヒに推薦状が出ています。」
会議室の中央に立つシモーネが、静かにその報告を読み上げた。
「この件についての審議を、今から開始します。」
沈黙。
円卓の周囲に座る者たちは、誰もが視線を交わさず、ただ静かにその場の空気を読み取っていた。
アドラー・ホフマン——
ラプラスのパスコードの専門家として、この8年間様々な部署を支え続けてきた男。
ウルリッヒ——
解読部門の実質的な参謀であり、ミス・ルーシーの右腕とも言える存在。
だが——
「ウルリッヒは、推薦を辞退しました。現在委員会前でハンガーストライキを起こしています。」
その言葉が告げられると、会議室の空気がわずかに揺らいだ。
「単語拒否……か。」
ミルトンが低く呟いた。
彼は片手で顎を撫でながら、どこか納得しているようだった。
「アイツらしいな。」
そして——
「アドラー・ホフマンは、それを受け入れる意向を示しました。」
シモーネがそう言葉を続けた瞬間、ミルトンの目が鋭く細められた。
「……受け入れた、か。」
ミルトンはゆっくりとテーブルに肘をつき、組んだ指越しにエニグマを見つめた。
エニグマは黙っていた。
皮肉屋の口元は、固く閉ざされ続けていた。
だが、その目は——
決して揺らいでいなかった。
「あぁ、俺が引き受ける。」
アドラーは重々しく口を開いた。
「皮肉なもんだな……8年前、科学が死んだと嘆いていた俺が……今度はラプラスを引っ張る立場に立つとはな。」
その声は皮肉に満ちているようでいて、どこか寂しげだった。
「あんたにその覚悟はあるのか?」
不意に低い声が響いた。
技術班の主任だった。
右目の義眼が冷たく光を反射していた。
「……アドラー、お前がこの8年で変わったことはわかる。」
「だが、ラプラスは今、転換期にある。」
義眼がエニグマの動きを一瞬も逃さず捉え、鋭い視線を突き刺す。
「ウルリッヒが拒否した今、お前がその重圧を一手に背負うことになるんだぞ。」
「——だがそれは、やらねばならない義務でもある。」
エニグマは一言だけ、そう答えた。
「その覚悟で、この世界の『ストーム』に対抗できると思っているのか?」
再び技術班主任が問いかける。
だが、その時——
「黙れ、技術班。」
ミルトンが低く、だが重く響く声で口を開いた。
「エニグマは……覚悟を持っている。」
「それが、ミス・ルーシーの意向だ。」
ミルトンの視線は、ウルリッヒの不在の席へと向けられていた。
「あの皮肉屋が、ここまで来たんだ。」
「だったら、あとは俺たちが支える番だろう。」
ミルトンの言葉には、7年間アドラーを見続けてきた者だけが持つ信頼が滲んでいた。
「……フン、まぁそうだな。」
主任は渋々と頷き、義眼を細めた。
「なら、俺も文句はねぇよ。」
「——メディスンポケットは?」
ミルトンが目線を送ると、生物学者である・メディスンポケットが荒々しく立ち上がった。
「どうでもいいな。オレに十分な研究室と実験費用をくれりゃ誰でもいい。」
語尾の伸びた口調で気だるげに彼はそう話す。
「異論はない。」
メディスンポケットがそう言い切った瞬間——
「では——」
シモーネは、ゆっくりと立ち上がった。
「エニグマ、基アドラー・ホフマンを、正式にラプラスの新たな責任者代理とします。」
「皆様、異論はありませんね。」
会議室に響く沈黙。
そして——
「異論なし。」
「異議なし。」
次々と主任たちの声が上がった。
ミルトンの目が再びエニグマを見つめた。
「これで決まりだ、エニグマ。」
「あとは……お前次第だ。」
エニグマはゆっくりと息を吐き、
「……皮肉な話だが、まぁ——」
「ラプラスの未来は明るい事を願っているよ。」
会議室の空気が、静かに変わった瞬間だった。
§
会議終了後——
ラプラス本部・中央会議室の扉が開かれると、主任たちは次々と席を立ち、無言で去っていった。
技術班が義眼を光らせながら最後にちらりとアドラーに視線を投げたが、特に言葉は交わさず、そのまま去っていった。
「……やれやれ。」
アドラー・ホフマンは、誰もいなくなった会議室の中央で、疲れたように椅子の背に深くもたれかかった。
「ひねくれ学者俺がラプラスの責任者か……。」
天井を仰ぎ見ながら呟いた言葉には、まだ信じきれない皮肉と、わずかな諦めが滲んでいた。
「……まぁ、どうにかなるか。」
しかし、そう自分に言い聞かせるように呟いた瞬間——
「……お前さん、相変わらず皮肉ばっかりだな。」
その声が、すぐ背後から響いた。
——ミルトン。
アドラーの全身が一瞬、硬直した。
「……っ!」
反射的に背筋が伸び、ゆっくりと振り返った彼の顔には、見事なまでに引きつった表情が貼り付いていた。
「ミ……ミルトン……」
口元が微妙に歪み、皮肉混じりの苦笑すら忘れたその顔は、まるで悪夢を思い出したかのようだった。
「なんだ、その顔は。」
ミルトンは少し眉を上げ、穏やかだが相変わらず威圧感のある口調で問いかけた。
「……いや、その……えぇっと……」
アドラーの目の端には、まるで過去の恐怖がフラッシュバックするかのような光景が浮かんでいた。
——7年前のあの日。
『新型栄養補助食品の実験』
『ストーム環境下でも耐えられるように改良された、完全栄養食。』
ミルトン部長の熱意に押され、アドラーは「上級顧問の責任」という名の名目で、試作品のテイスティングを強制的に引き受けさせられた。
その結果——
——3日間、胃が悲鳴を上げ、悪夢のような消化不良に苦しむことになった。
「……はは……まさか、あの『地獄の食品実験』の悪夢がよみがえるとはな……」
アドラーは青ざめた顔で、遠い目をしながら苦々しく呟いた。
「おい、なんだその顔。」
ミルトンはさらに眉をひそめ、じっとアドラーを見つめた。
「まさか、まだ根に持ってるのか? あれは必要な実験だったんだぞ。」
「必要……?」
アドラーの口元がぴくりと震えた。
「俺が3日間寝込んだ上に、胃腸薬が手放せなくなったアレが、必要な実験だったって?」
「お前さん、そのおかげで今でもストーム環境下での消化機能データが取れてるんだぞ。」
ミルトンはまったく悪びれた様子もなく、いつものように冷静な調子で言った。
「お前さんの胃腸は、ラプラスの未来に貢献したんだ。」
「胃腸に感謝されてる覚えはないけどな。」
アドラーは皮肉混じりに吐き捨てたが、同時に背筋がひやりとした。
「で、今日は……なんの用だ?」
できるだけ冷静を装いつつ、アドラーは話題を変えようと試みた。
「……お前さんに話があってな。」
「……また、食品実験か?」
アドラーの表情が一瞬で引きつった。
「いや、違う。」
ミルトンは軽く苦笑しながら首を振った。
「今日は、その件じゃない。」
「……じゃあ?」
アドラーは不信感を隠さぬまま、身を乗り出した。
ミルトンはゆっくりと息をつき、
「お前さん……この7年で、ずいぶん変わったな。」
そう言った。
「……え?」
意外な言葉に、アドラーの眉がぴくりと動いた。
「8年前、お前さんはストームのせいで科学が死んだと嘆き、ひたすら皮肉を吐き散らしていた。」
ミルトンの言葉には、少しだけ懐かしむような響きがあった。
「……まぁ、その皮肉屋は今も変わっちゃいないが……。」
「……そこは勘弁してくれ。」
アドラーは少しだけ目を伏せた。
「でもな。」
ミルトンは、ゆっくりとアドラーの肩に手を置いた。
「お前さん、今じゃ人の前で堂々と責任を背負おうとしてる。」
「皮肉だけじゃなく、あの若者たちに未来を見せようとしている。」
アドラーは一瞬、何も言えなかった。
「……俺が?」
「ああ。」
ミルトンは頷き、
「だから……これからは、皮肉だけでなく、その未来のために、もう一歩踏み出してくれ。」
その言葉に、アドラーはしばらく沈黙した後——
「……あんたに、そんな真面目なこと言われると、余計に落ち着かねぇんだが?」
そう言って、ようやく皮肉屋らしい笑みを浮かべた。
「まぁ、相変わらずだな。」
ミルトンは肩をすくめ、
「でも、今回は俺も信じてるぞ、アドラー。」
そう言い残して、会議室を後にした。
「……はぁ。」
残されたアドラーは、再び椅子に深く座り直し、
「どうやら、俺は……また胃腸薬のお世話になる羽目になりそうだな。」
遠い目をしながら、そう呟いたのだった。
§
翌日——
ラプラス本部・東棟第3廊下。
長く静寂に満ちた白い廊下に、遠くから低く不穏な声が響き渡っていた。
「……キミ——今なんと?」
その声はウルリッヒのものだった。
「言った通りだが?」
対峙するのは、相変わらずの皮肉屋——アドラー・ホフマン。
「あーあ、また始まったよ……」
遠巻きに様子をうかがっていた若手研究員たちが、次々と廊下の隅に身を寄せ、「またあの2人か」という呆れた目線を交わしていた。
「アドラー」
ウルリッヒの声は、もう完全に臨界寸前だった。
「キミ、今なんて言ったか、もう一度言ってみたまえ。」
「言わせるのか?」
アドラーはあくまで冷静な態度のまま、口元に皮肉な笑みを浮かべ、わざとらしく肩をすくめた。
「いや〜、まさかウルリッヒのバブルヘッドのあんな微妙な磁性流体の乱れが出てるなんて、思わなかったなぁ。」
「……アドラー……」
その言葉に、ウルリッヒのバブルヘッドの中で浮遊している黒い磁性流体が、明らかに異常な挙動を見せ始めた。
ドクン、ドクン——
まるで怒りを反映するかのように、黒い液体が脈打つように揺れ、細かい突起を立てながらうねり、不穏な模様を描いていた。
「見てみろよ、ウルリッヒ。磁性流体ってのは、ストレスを受けるとあんな風に不安定になるんだな。」
アドラーはまるで研究資料でも眺めているかのように、意地の悪い微笑みを浮かべていた。
「理論的には、あと3秒で磁性流体が気化し始めるかもしれないな……。」
「……いい加減にしたまえ。」
ウルリッヒの声が低く、危険な響きを帯びる。
「それ以上喋ると——」
「どうなる?」
アドラーは挑発的な笑みを崩さず、一歩前に出た。
「殴るのか?ラプラス本部のど真ん中で?俺を?」
その瞬間、バブルヘッドの中の磁性流体が激しく揺れ動き、黒い棘状の突起がヘルメットの内側にびっしりと浮かび上がった。
「お、おい……やめろって……!」
遠巻きに見ていた若手研究員たちは、ついに慌て始めた。
「またウルリッヒの磁性流体が暴れ始めたぞ!」
「あれ、前回みたいに制御失敗したら、廊下がまためちゃくちゃになる……!」
「やべぇ、退避した方がよくねぇか?」
——だが、肝心の2人はまったく止まる気配がなかった。
「アドラー……キミ、覚悟できてんだろうな……?」
ウルリッヒの右拳が、ゆっくりと握り締められ、義体が不気味に軋む音さえ聞こえそうだった。
「はは、殴るなら早くしろよ。今なら俺の胃腸もストレスでマヒしてるから、多少殴られたって気づかねぇかもな。」
アドラーの言葉は、さらにウルリッヒの癇に障る。
「……言ったな?」
その瞬間——
「ちょっと待てぇぇぇい!!!」
廊下に響き渡る怒声。
「はい、ストップ!! ストップ!!!」
その場に飛び込んできたのは、ミルトン部長だった。
「ったく、またかよ……!」
「……あ、あんた……」
アドラーの顔が一瞬引きつる。
ミルトンは両手を広げて2人の間に割って入り、あきれたように深いため息をついた。
「お前さんたち、ラプラスの中で殴り合いでもする気か?」
「いや、これは……」
ウルリッヒは拳を握り締めたまま、怒りを収めきれずに言葉を濁した。
「お前さんたちは、科学の最先端を担ってる自覚はあるのか?」
ミルトンの声には、いつになく鋭い叱責が混じっていた。
「アドラー、お前さんは腐っても責任者代理だろ? もう少し落ち着け。」
「……はぁ。」
アドラーは肩をすくめ、皮肉屋の笑みを消して、少しだけ反省したように息を吐いた。
「ウルリッヒ」
ミルトンは振り返り、まだ拳を握り締めているウルリッヒに向けて、
「その拳を、彼じゃなくて仕事に使え。」
と、静かに諭した。
「……失礼。」
ウルリッヒはを下を向き、渦巻いていた磁性流体を徐々に落ち着かせ、ようやく拳を下ろした。
「まったく……。」
ミルトンは眉間にしわを寄せながら、2人を交互に睨みつけた。
「次、またこんな騒ぎを起こしたら、お前さんたちの胃腸に『改良版一日の食事』を試してもらうことになるぞ。」
「——ッ!!」
アドラーの顔が青ざめ、ウルリッヒですら微妙に磁性流体を引きつらせた。
「……それだけは勘弁してくれ。」
アドラーは小声で呟きながら、ようやく一歩後ろに下がった。
「わかったなら、とっとと解散だ。」
ミルトンは腕を組み、最後に2人を見つめて念を押した。
「……」
ウルリッヒは無言で背を向け、歩き去る。
「……まったく、朝から胃が痛ぇな。」
アドラーは額を押さえながら、ようやくその場を後にした。
——そして廊下に再び静寂が戻った時、遠巻きに見ていた若手研究員たちが、心底ほっとしたように息をついた。
「……あの2人、なんで毎回あんなにしょうもないことで喧嘩するんだよ……」
「もう、日課みたいなもんだろ……」
「でも、次はバブルヘッド爆発とか起きなきゃいいけどな……。」
研究員たちのそんな呟きが、廊下に静かに消えていった。
§
それから——
「……だからさ、俺のデータ整理方法の方が合理的だって言ってんだろ!」
「は? アドラー、キミののやり方じゃ、ファイルが重複して無駄な容量喰うという事を分からないのか!」
「無駄だぁ? ウルリッヒ、冗談キツいぞ。あんたのやり方じゃ検索に時間がかかりすぎるんだよ。もっと論理的に——」
「論理に頼りすぎて感覚が鈍ってるんだな。キミは!最終確認は人の目でやるべきだと決まっているのだ!」
——まただ。
「……はぁ」
ミルトン部長は、廊下の角で立ち止まり、額に指を当てて深いため息をついた。
目の前では、またしてもアドラー・ホフマンとウルリッヒが壮大な口論を繰り広げていた。
「……今度は何だ?」
ミルトンは呆れながら2人に歩み寄る。
「またデータ整理の方法か?」
「あ、ミルトン。」
「部長さん、聞いてくださいよ。こいつ、俺の整理方法が非効率だとか言い出して——」
「ボクではなく、アドラーが勝手に余計なスクリプト組み込んでるのです。」
2人は口々に自分の言い分を訴え、ミルトンの前に立ちはだかった。
「……お前さんたち。」
ミルトンはじっと2人の顔を見つめた。
「俺は今、非常に忙しいんだ。」
「知っている。」
「存じ上げております。」
2人は一応の敬意を込めて頷いた。
「で?」
「……え?」
「どっちが正しいかって? ……んなもん、どっちでもいいだろ。」
「「えぇ?」」
2人は同時に不満げな声を漏らした。
「ミルトン聞けって。」
「いや、ボクの言い分を——」
「待て、待て、待て。」
ミルトンは手を挙げて2人を制した。
「いいか、お前さんたち。」
ミルトンは腕を組み、少し考え込みながらゆっくりと語り始めた。
「エニグマや、お前さんのスクリプトは確かに効率的だ。が、ウルリッヒの確認方法もミスを防ぐには必要だ。」
「……はぁ?」
「だから、こうしろ。」
ミルトンは細かい計算用紙を丸めたボールを手に取り、2人の前で器用にバウンドさせながら言った。
「エニグマがコンソールでデータ整理して、最終チェックはウルリッヒが目視確認する。2段階確認だ。これで両方の利点を活かせる。」
「……はぁ。」
アドラーは少し考え込み、不承不承といった様子で頷いた。
「まあ……それなら、納得できなくもない。」
「……ボクも異論はありません。」
ウルリッヒも、ようやく拳を緩めてうなずいた。
——だが、それも束の間だった。
「じゃあ、その確認方法のプロトコル、誰が決める?」
「は?俺に決まってるだろ。」
「アドラー、ここはボクが。」
「いや、責任者は俺だぞ?」
「でも実務担当はボクだ!」
「またかよ……。」
ミルトンは顔を覆った。
「……ったく。」
そして、今度は小声で呟いた。
「まるで喧嘩ばかりするガキどもだな……。」
——そして数分後、再び廊下に響き渡る怒声と口論の応酬。
「だから、アドラー何度言えば——!」
「ウルリッヒ、お前がさっさと——!」
「おい!そこまでだ!!!」
「——!!!」
——またミルトン部長が割って入る。
まるで兄弟喧嘩を仲裁する父親のような構図が、再び繰り広げられた。
「お前さんたち、俺を何回この廊下まで呼び戻せば気が済むんだ?」
ミルトンは額に手を当て、心底疲れた顔で2人を睨んだ。
「……3回目」
アドラーがぼそっと呟く。
「4回目です。」
ウルリッヒが訂正する。
「4回目か。」
ミルトンは冷ややかな目で2人を交互に見つめた。
「次、もう1回でもくだらねぇ喧嘩したら、2人とも『改良版 一日の食事 もちろん意識覚醒者も補給可』のテスト被験者にするぞ?」
「……それは……」
アドラーの顔が青ざめ、ウルリッヒの表情も明らかに硬直した。
「あれ……まだ『消化不良を起こす確率50%』って言われてたやつで、義体にも対応はしていますがメインポンプが詰まる可能性がありますよね。」
ウルリッヒが震える声で呟く。
「……マジかよ。」
アドラーは額に手を当て、明らかに後悔している表情を浮かべた。
「それが嫌なら、次は静かに仕事をしろ。」
ミルトンはそれだけ言い残し、背を向けて去っていった。
——だが、彼が廊下を曲がった直後。
「……なぁアドラー」
「……なんだよ。」
「今の、どっちのせいだったと思う?」
「……あんたのせいだろ。」
「はぁ?ボクのせいだと?!」
——また始まった。
遠くで再び低い怒声が聞こえ、ミルトンは足を止めて、深いため息をついた。
「……はぁ。」
「ほんと、ガキの面倒を見るのは大変だな……。」
ミルトンは再び廊下を引き返していった。
——そして、ラプラス本部の日常は今日も続く。