風呂上がり「……ん。」
アドラーはタオルで髪を拭きながら、無意識に前髪を指でかき上げた。
シャワーを浴びたばかりの肌は火照っていて、白いタートルネックの下に着たTシャツが少しだけ湿っている。
まだ完全に乾ききっていない髪は、いつもの無造作なウェーブとは違って、驚くほど “素直” にサラサラと肩まで真っ直ぐに落ちていた。
(……ストレート、か。)
アドラーは手櫛で軽く髪を整えながら、鏡に映った自分の姿を見て小さく息をついた。
湿気のせいで一時的に癖が抜けているだけだが、この状態の自分を見ることは滅多にない。
「……ま、どうせすぐ戻る。」
そう呟きながら、アドラーは廊下に出た。
フロアは静かで、誰の気配もない。
(まだみんな、食堂か?)
シャワーを浴びる前、みんなが集まっていた食堂の賑わいを思い出す。
ドーキンスとヴィクターはくだらないジョークで盛り上がり、マシューはなにやら動画を見てニヤニヤしていた。
(……あいつら、まだやってんのかもな。)
少し遅れて部屋を出た自分がここにいるのは、ただの気分転換だった。
気怠い夜の空気に触れたくて、アドラーは濡れた髪のまま静かな廊下を歩いていた。
——と、そこで。
「……?」
廊下の向こう側から、微かに金属が擦れるような音が聞こえてきた。
(誰か戻ってきたか……?)
アドラーは何気なく視線を向けた。
薄暗い廊下の先から、ゆっくりと現れたのは――
ウルリッヒだった。
外勤用の黒いロングコートを羽織り、機械的な無音の足音を響かせながら、静かにこちらに近づいてくる。流体の表面が揺らめくように微細な振動を繰り返していた。
(……外勤帰りか?)
アドラーはそう思いながら、ウルリッヒが近づいてくるのを無言で待った。
だが——
「……?」
ウルリッヒの動きが、ふと止まった。
「……?」
アドラーは眉をひそめた。
(……なんだ?)
ウルリッヒの磁性流体は、普段と同じように滑らかな形状を保っているはずだった。
だが、今はわずかに “微細な波紋” がその表面に浮かんでいた。
——まるで、何か想定外の対象を目にしたときのように。
「……誰だ?」
ウルリッヒの声は、明らかに “警戒モード” に入っていた。
「……は?」
ウルリッヒの声が、静かな廊下に響いた。
無機質で、冷たく、まるでアドラーが “知らない相手” であるかのような、淡々とした口調だった。
アドラーの動きが止まった。
タオルで軽く髪を拭きながら、濡れた前髪を払う仕草をしたまま、彼はウルリッヒを見つめた。
——でも、ウルリッヒは微動だにせず、じっと “監視するような目” でこちらを見ていた。
(……冗談、だよな?)
アドラーの心臓が、ほんの僅かに早くなった。
——だが、その期待は裏切られる。
「用がないなら、そこをどきたまえ。」
ウルリッヒの声は、さらに冷たく、硬質な響きを帯びていた。
アドラーの胸に、ズキリと鋭い痛みが走る。
「……おい、ウルリッヒ。」
笑おうとしたが、声はどこか乾いていた。
「……冗談だろ?」
ほんの少し、語尾が震えていたことに自分でも気づいた。
だが、ウルリッヒは変わらなかった。
彼の磁性流体は、まるで鉄の仮面のように無表情で——
その表面に、アドラーが知っている “親しみ” や “信頼” の欠片すらなかった。
「……邪魔だ。」
——突き放すような、一言。
それだけで、アドラーの心は凍りついた。
(なんで……?)
アドラーの喉が、乾いた。
これまで何度も任務を共にし、背中を預け合い、時には言葉を交わさずとも意思疎通ができた相手——
ウルリッヒは“そんな相手”だったはずだ。
なのに、今——
まるで、見知らぬ “敵” に対するような態度
「なんだよ、ウルリッヒ。俺だろ。」
しかし、ウルリッヒは微動だにせず、じっとアドラーを分析するように立ち尽くしていた。
「……ボクのデータベースには、この対象の記録は——」
「おい、ふざけんな。」
アドラーは呆れたように笑いながら、タオルでまだ少し湿った髪を軽く払い落とした。
「髪型が変わったくらいで、忘れるなよ。」
だが——
ウルリッヒは反応しなかった。
むしろ、さらに慎重なモードへと切り替わったかのように、わずかに “磁性流体の表面” が波打った。
「……冗談じゃねぇぞ……」
アドラーの笑みが、次第に消えていく。
——ウルリッヒは “認識していない”。
目の前にいるのが “アドラー” だということを。
(……まさか、本気で……?)
アドラーの心臓が、不安に一拍、強く脈打った。
その瞬間——
「……アドラー?」
ウルリッヒの声が、ようやく僅かにトーンを変えた。
アドラーは眉を上げ、内心 (やっとかよ……。) と思った矢先——
「——キミか」
その問いかけには、ほんの僅かに戸惑いが滲んでいた。
(……え?)
アドラーは思わず息を呑んだ。
——ウルリッヒの磁性流体の表情が、ほんの少し“柔らかく”なったように見えたのだ。
明らかに“身内にだけ見せる態度”に近いものだった。
だが、ウルリッヒがこうした反応を見せるのは——
“極めて限られた相手”にだけだ。
(……なんで、俺に……?)
戸惑うアドラーの前で、ウルリッヒはもう一度、静かに口を開いた。
「……キミだと、気づくのが遅れた。」
普段よりも“穏やかな声”だった。
それが、逆にアドラーの心を揺さぶった。
「……あんた、どうしたんだよ?」
アドラーは思わず問いかけていた。
「……なんか、変だぞ。」
だが、ウルリッヒは返事をしなかった。
その磁性流体の表情は、わずかに困惑したように揺らぎ——
次の瞬間、再び“いつもの冷徹なモード”に戻った。
「……問題ない。」
冷たく、切り捨てるような声。
いつものウルリッヒだ。
だが——
(……今のは……?)
アドラーは、胸の奥で何かが引っかかるのを感じていた。
——ウルリッヒが見せた″一瞬の柔らかさ”。
あれは、なんだったのか?
「……気のせいか?」
そう自分に言い聞かせながらも、アドラーの心は落ち着かなかった。
そして——
「……ま、いいか。」
無理やり考えを振り払うように、アドラーは軽く髪を払った。
だが、ウルリッヒの背中を見送るその瞳には、まだ“ほんの少しの疑問”が残っていた。