キスがしたいラプラス本部——深夜。
人気のない研究室は、まるで眠りに落ちた獣のように静まり返っていた。窓の外には鈍く光るネオンがちらつき、日中の喧騒は遠く、まるで別世界の出来事のようだった。
アドラー・ホフマンは、薄暗いデスクランプの光の下で深いため息をついた。
「……今日はこれで終わりだろ」
疲れ切った声が室内に静かに響いた。
黒いロングコートの襟元を少しだけ緩め、白いタートルネックの生地を指で引っ張る。乱雑にまとめられたウルフヘアーの隙間から、うなじに微かな汗が浮かんでいる。
「待ちたまえ、アドラー。」
その声が響いた瞬間、空気が変わった。
ウルリッヒだった。
白いぴったりとしたツナギに、銀色の短い上着——無駄のない義体の動きと共に、彼の頭上で静かに漂う磁性流体がわずかに波打った。それは感情の反映であり、ウルリッヒの心の揺らぎを視覚化するものだった。
「……なんだよ、今度は、」
アドラーは疲れた目でウルリッヒを見上げた。
「少しだけ、キミの時間をくれないか?」
磁性流体は柔らかく揺らぎ、まるで何かを迷っているようだった。
「時間?……今さら何を企んでんだ、ウルリッヒ。」
「キミにどうしても試してみたいことがあるんだ。」
ウルリッヒの声は、いつになく柔らかかった。
その一言で、アドラーの眉が微かに動いた。
「……嫌な予感しかしねぇな。」
皮肉交じりの言葉だったが、アドラーは立ち上がる気力もなく、椅子に身を沈めたまま不機嫌そうに目を細めた。
「目を閉じたまえ、アドラー。」
ウルリッヒは一歩、彼に近づいた。
「……は?」
「目を閉じるんだ、キミの理屈っぽい脳は、少し休ませるといい。」
「何だよそれ……」
眉間に皺を寄せながらも、アドラーはわずかにため息をついて目を閉じた。
ウルリッヒは静かに、深く息を吐いた。
その瞬間、磁性流体がわずかに震えた。
冷たい金属の粒子が感情を揺らす。
——キスをしたい。
その思いが、ウルリッヒの核心に静かに響いていた。
けれど、自分には唇がない。
磁性流体は形を変えられても、柔らかさや温もりまでは再現できない。義体の冷たい金属と、革手袋の感触——それではアドラーにとって、ただの機械的な接触でしかないだろう。
それが、ウルリッヒには耐えがたかった。
だから、ウルリッヒは準備をしていた。
さりげなくデスクの隅に置かれた、小さなカップ——
湯煎された温水だった。
ほんの少し、義体の指先をその中に沈め、わずかに温度を上げておいたのだ。
このためだけに。
アドラーに触れる、その一瞬のためだけに——
「……キミは、ボクを信用してないのかい?」
目を閉じたアドラーの唇は、微かに動いたが返事はなかった。
「は、今更だろ……」
囁くような返答だった。
ウルリッヒは、ゆっくりと右手を持ち上げた。
黒革の手袋越しに温められた指先——
人差し指と中指を軽く揃え、その第1関節から第2関節の間。
——そこは、人の唇に最も似た感触を持つ部分だった。
ゆっくりと、アドラーの唇に近づける。
空気が張り詰める。
心なしか、ウルリッヒの磁性流体はかすかに揺れ続けていた。
そして——
そっと、温もりを宿した指先を、アドラーの唇に触れさせた。
その瞬間、アドラーの体が微かに震えた。
「……んっ……?」
わずかに唇が開き、微かな吐息が漏れた。
温かかった。
指先は柔らかく、まるで本物の唇のように感じた。
冷たくない——それどころか、驚くほど自然な温もりだった。
アドラーは完全に勘違いした。
——キスされた、と。
その感触に、アドラーの心臓がわずかに跳ねた。
「……っ、ウルリッヒ……?」
かすれた声が漏れる。
ウルリッヒはそっと指先を押し当て、ほんの一瞬だけ軽く動かした。まるで唇を触れるように、優しく、慎重に。
錯覚であっても、これでいい。
ウルリッヒの磁性流体はわずかに波打ちながら、感情の揺らぎを隠しきれなかった。
アドラーは、まだ目を閉じたままだった。
「……なんだよ、これ……」
微かに震える声。
ウルリッヒは指先をゆっくりと離した。
「……キミに、キスをしたかったんだ。」
囁くように言った言葉は、驚くほど静かだった。
アドラーの目が、ゆっくりと開いた。
そこには、義体の無機質な顔。
唇など存在しない、ただ滑らかな表面だけがあった。
「……あんた……今の……?」
アドラーのヘーゼルアイが困惑に揺れる。
「どうだったかね、アドラー?」
ウルリッヒの声は、あくまで静かだった。しかし、磁性流体は彼の内心を隠せない。
わずかに波打ち、切なさと期待が滲んでいた。
アドラーは何も言わず、指で自分の唇を軽く触れた。
そこにはまだ、温もりが残っていた。
「……ずいぶん、ぬるいキスだな……」
皮肉めいた口調の中に、微かな本音が滲んでいた。
ウルリッヒの磁性流体は、ほんの少しだけ柔らかく波打った。
「……ボクなりに努力したんだ。キミのためにね。」
「努力ね……」
アドラーは、小さく笑った。
「次は、ちゃんとしたキスを期待してるぜ……ウルリッヒ」
冗談交じりの言葉だったが、その声音はどこか優しかった。
——次こそは。
ウルリッヒの磁性流体は、まるで何かを誓うように、静かに波打ち続けていた。
2人の間の静寂には、温もりの余韻が残っていた。
本物でなくとも、触れたいと願った温もりだけが——そこにあった。