シュガーレスコーヒーアドラー・ホフマンは薄暗いラボの隅で、黒いロングコートの襟を無造作に掴みながら、カップから立ち上る湯気をぼんやりと眺めていた。

「……また、苦ぇのを淹れやがって……」

そうぼやきつつも、手元のマグを離さないあたり、文句を言いつつも味自体は気に入っているのが見え見えだった。カップの縁に唇を寄せ、ひと口だけ含むと、独特の深みと酸味が舌に広がる。

「はぁ……相変わらず、濃すぎるんだよ……」

アドラーは眉をひそめたが、口元にはかすかに満足げな表情が浮かんでいた。

「そんなにボクの淹れたコーヒーが気に入ったのかい？ アドラー。」

不意に、柔らかく響く声が背後から降ってきた。

「チッ……いつの間に……」

アドラーは視線だけで振り向き、そこには銀色の短いジャケットを羽織ったウルリッヒが立っていた。義体の細身のラインは無駄がなく、白いツナギが彼の身体にぴったりと張り付いている。だが、目を引くのはその頭上――形を絶えず変える磁性流体が、揺らめきながら感情を映し出していた。

今は、ふわりと柔らかく波打ちながら、まるで悪戯を企む子供のようにわずかに跳ねている。

「別に、好みじゃねぇよ……」

アドラーはそっぽを向いたが、コーヒーをもうひと口含んだ瞬間、その沈黙がすべてを物語っていた。

「ふふ……素直じゃないね、キミは。」

ウルリッヒは目を細め、磁性流体がゆるく波紋を広げた。

「……あんたこそ、何で俺に淹れてんだよ。どうせ皮肉のひとつでも混ぜてんだろ」
「皮肉？　とんでもない。ボクはただ、キミのために美味しいコーヒーを淹れたまでさ。」

ウルリッヒは余裕の笑みを浮かべながら、自分もカップを手に取った。アドラーが淹れたものより、やや香ばしく柔らかな香りが立ち昇る。

「……ったく、こっちは苦ぇのばっかで、よく飲めるよな……」
「キミの淹れるコーヒーは、ボクの好みなんだよ。少し苦味が強くて、でも奥に甘みが隠れている……ね？」

アドラーは一瞬、目を細めた。その言葉が妙に心臓を掴むように響いたのが、気に入らなかった。

「は……っ、何だよ、急に。」
「さぁ、なんだろうね。」

ウルリッヒの声は相変わらず落ち着いていたが、磁性流体がゆるやかに円を描くように動き、どこか気持ちよさそうに揺れている。

「ま、どうせまた変なこと考えてんだろ……」

アドラーはため息をつきつつ、視線を戻した。

だが、そのとき——

「……それとも、こっちの声の方が好みだったかい？」

突然、耳元に高めの、甘い囁きが落ちてきた。

「――っ……！」

アドラーの指がカップを掴んだまま硬直した。

ウルリッヒの声が、まるで別人のように深く、艶のある音色に変わっていた。普段のやや低めの声ではなく、——ぐっと抑えられた甘やかな音が、耳の奥に染み込むように響く。

「おい……ッ、待て……その声、マジで……」

アドラーは咄嗟に顔を背けたが、耳まで真っ赤になっているのがバレバレだった。

「どうしたんだい、アドラー？　まさか……気に入ったのかい？」

ウルリッヒは磁性流体をゆったりと波打たせ、悪戯っぽい光を湛えたまま、アドラーの耳元へとさらに顔を近づける。

「ち、違ぇよ……っ、あんた、マジで……そういうの、やめろって……！」

アドラーは焦ったように言葉を噛んだが、声がわずかに震えている。

「やめろ？　本当に……？」

ウルリッヒの声はさらに甘く、低く、余裕たっぷりだった。

「……っ、くそ……ほんっとに、性格悪ぃな……」

アドラーは顔を背けたまま、コーヒーを無理やり口に運んだ。だが、熱い液体が喉を通る頃には、耳まで熱くなった自分を誤魔化せるわけもなかった。

「キミが淹れたコーヒー、美味しいよ……ほら、もっと素直になっていいんじゃないかい？」
「……っ、うるせぇよ……」

アドラーは目を逸らしながら小さく呟いたが、ウルリッヒの前ではそれすら意味をなさなかった。

「ボクの声、気に入ったなら……今夜も、こっちで話してあげようか？」
「……マジで、やめろって……！」

完全に顔を真っ赤にしながら、アドラーは声を荒げた。しかし、ウルリッヒはただ穏やかに微笑んで、コーヒーをひと口飲んだ。

「キミは本当に、素直じゃないねぇ……アドラー」

磁性流体が、ふわりと優雅に波打った。

「……っ、くそ……俺に淹れたコーヒー、飲み干したら……あんたの分、次は苦ぇのにしてやるからな。」

アドラーはぶっきらぼうに言い捨てたが、耳元に残る甘ったるい声の余韻は、まだ消えそうにない。

「ふふ……楽しみにしているよ、アドラー。」

ウルリッヒは満足げに微笑みながら、磁性流体を軽く揺らした。その穏やかな波紋が、まるでアドラーを弄ぶ余裕そのもののように見えた——

「……ったく、あんたは……」

アドラーはぶっきらぼうに呟きながら、カップをテーブルに置いた。その指先がわずかに震えているのを、ウルリッヒは見逃さなかった。

「どうしたんだい？　そんなに熱かったのかい？」

ウルリッヒは微笑みながら、わずかに首を傾げる。その声はまだ柔らかく、甘い音色を保ったまま。普段のトーンとはまるで別人のように、耳元に優しく絡みつく。

「……うるせぇよ……」

アドラーは少しむくれたように顔を逸らしたが、その頬はまだ熱を帯びて赤く染まっていた。

ウルリッヒはその様子に満足したように、口元にうっすらと微笑みを浮かべながら、アドラーの視線を捉えた。

「ねぇ、アドラー」

ゆっくりとした動作で、ウルリッヒは右手を持ち上げた。

「……っ？」

アドラーが訝しげに眉をひそめた瞬間、ウルリッヒの人差し指と中指が、柔らかく折り曲げられた。その形は、まるで唇を模したように——

「……ッ、何……？」

アドラーが言葉を詰まらせたときだった。

ふわり——

その指が、驚くほど優しく、アドラーの唇に触れた。

「……ん……」

アドラーの瞳がわずかに見開かれる。

人差し指と中指の第1関節と第2関節の間——ほんのわずかに曲げられたその部分が、柔らかく、押し当てられる。指の腹の感触は驚くほど温かく、微かに熱を宿していた。

「……何、して……っ」

唇に触れるものがウルリッヒの指だと気づいた瞬間、アドラーは息を呑んだ。

だが——

「……ん、ぁ……っ！」

次の瞬間、そこに微かに走ったのは——

ピリッ

小さな電流だった。

「っ……！？」

アドラーの身体が一瞬びくりと震え、喉の奥から短い息が漏れた。

「……はぁ……っ、な、何だよ……これ……！」

その感覚はまるで、極細の針が触れたような、ごく微弱な電流。痛みではなく、むしろ甘く痺れるような感覚が、唇から神経を伝ってじんわりと広がっていく。

「ふふ……どうだい？」

ウルリッヒは指をそっと離しながら、口元に満足げな笑みを浮かべた。

「……っ、ふざけ……んなよ……」

アドラーは震える唇を舌でぬぐうように撫でたが、そこに残るのは微かな痺れと、まだ拭えぬ余韻。

「そんなに嫌だったのかい？」

ウルリッヒの声は相変わらず低く、艶やかだった。

「……誰が……っ」

アドラーの唇がまだ余韻に震えているのを見て、ウルリッヒの指先が再び動いた。

今度は、そっとアドラーの頬に触れ、親指でゆっくりと輪郭をなぞる。

「大丈夫……怖がらなくてもいいんだよ」
「……は、っ、怖がってねぇよ……」

アドラーは反射的に首を振ったが、耳まで赤くなっているのは隠しきれない。

「キミの反応があまりにも可愛いから……ついね」
「可愛くなんか……っ、誰が……！」

アドラーはぶっきらぼうに口を開いたが、その声は明らかに弱々しかった。

「でも、アドラー……」

ウルリッヒは指先を唇に戻し、再びそっと押し当てた。

今度は、先ほどよりもゆっくりと、優しく——

「……っ……ん……」

アドラーの肩がわずかに震えた。

「ボクの“キス”、気に入ったかな？」
「……っ、バカか……」

アドラーの目は逸らされ、声はかすれていた。

「ふふ……でも、キミの唇……とても柔らかかったよ」

甘い囁きが耳元に落ち、磁性流体が穏やかな波紋を描きながら、ウルリッヒの感情の満足感を映し出していた。

「……っ、もう……黙れよ……」

アドラーは俯いたまま、耳まで真っ赤になって唇を噛み締めていた。

「黙ってほしい？　それとも……」

ウルリッヒの声はさらに甘く低く、そのまま耳元をかすめた。

「……もっと、キミを感じさせてほしいかい？」
「っ……」

アドラーの手が、震えながらもウルリッヒの胸元を掴む。その指先には微かな力が込められていたが――

「……黙ってろって、言ってんだろ……」

小さく呟いたその声は、拒絶よりも、むしろ戸惑いと甘えが滲んでいた。

「……あぁ、仕方ないね……」

ウルリッヒはそっと微笑むと、もう一度、指先を唇に触れさせた。

今度は、余韻だけを残して——甘さだけを残して——

アドラーの心の奥深くまで、静かに溶け込むように——。