アイスキャンデー「なんで、36度なんだよ……」
アドラー・ホフマンは虚空に呟いた。肩まで垂れたウルフヘアはもう湿気でまとわりつき、シャツの襟元も見るも無惨にぐっしょり濡れている。部屋の空気は重く、壁際に立てば息が詰まるほどの熱気が肌に張り付いた。そんな環境下で、彼の唯一の救いは——今、右手にある一本のミルク味アイスキャンデーだった。
「せめてこのぐらいは冷えててくれよな……」
そう願って唇に運んだ瞬間、滴る。
まだ一口しか齧ってないのに、信じられないほどの速度で溶け始めたアイスの白い汁が、手の甲を伝い、肘にかけてじっとりと落ちる。慌てて舐め取った時にはもう、第二の雫がシャツの裾を狙っていた。
「ちっ……あっつい、なんだこれ……!」
苛立ちのままに舌で汁をぬぐい、もう一度アイスにかぶりつく。だがどうしても追いつかない。食べ進める端から液状化が進み、下唇にまで冷たい甘さが流れ込んでくる。
横ではウルリッヒが涼しい顔をして、カップに注いだホットコーヒーを、義体のチャージポットへと静かに注いでいた。耳のアンテナが熱気でわずかに揺れるたび、あの磁性流体もふわりと浮遊し、まるで楽しげに空気を泳いでいるようだった。
「ん……今日の配合は、やや苦味が強いか。だが、この程度の熱で安定しているなら問題な。」
「コーヒーなんか入れてんじゃねぇ!!」
ついにアドラーは叫んだ。怒鳴り声すら汗に沈むような空気の中で、声が割れる。
「何でこんな灼熱地獄でホット飲んでんだよ!? てか人が溶けてんのに、お前だけ涼しい顔してんじゃねぇぞ!! あとアイスが! お前のせいで! 全然! 食えねぇ!!」
指を突き立てた先では、アイスの白い雫がストン、と床に落ちた。もはや棒を握っている意味があるのかさえ分からない。
ウルリッヒはきょとんとした顔を見せ……たような気がした。磁性流体の表情は常に曖昧で、柔らかく、そしてつかみどころがない。
「ボクの体温センサーによれば、この程度の熱は義体に最適だ。キミもいっそ皮膚を捨てたらどうかね? アイスに頼るよりは効率的だろう。」
「二度とコーヒー淹れさせねぇからな、マジで。」
アドラーはぶっきらぼうに言い捨てながら、またも溶けかけのアイスを舐め取った。ミルクの甘さが舌に広がり、熱気でぼやけた意識に一瞬の涼を与える。
だが、その背後では、またしてもウルリッヒがチャージポットにコーヒーを注ぎ足す音が静かに響いていた。止まらぬ熱と、止まらぬホット。
「……やめろって言ってんだろ!!!」
三度目の叫びは、もはや声というより怒鳴りというより、魂の悲鳴に近かった。
アドラーの白いタートルネックはとうに“湯だって”おり、アイスキャンデーは形を保てぬまま棒から溶け落ちそうだった。シャツの前には白い点々がいくつもこびりついているが、もはや拭う気力もない。
ウルリッヒはというと、その様子をじっと眺めていた。義体に取り付けられたセンサーが微かに明滅し、浮遊する磁性流体の頭部が、何とも言えないくるりとした動きで感情を表現する。
「そう怒るな、アドラー。」
低く、柔らかく、それでいてどこか芝居がかった声色。
ぴたり、と磁性流体が落ち着いた位置に収まると、ウルリッヒは一歩後ずさり、ドアに向かって歩き出した。
「少々、出てくる。」
「……は? なんでだよ、今さら涼みに行くのか? お前一人だけ逃げ……」
返事はない。
扉は無機質な電子音とともに閉まり、熱気の残る室内には、再びアドラーの荒い息と、解け落ちるアイスの雫の音だけが残された。
§
……そして約七分後。
再び開いた扉の向こうから、見慣れた白いツナギと、短すぎる銀色の上着、そして両腕いっぱいにビニール袋を提げたウルリッヒが現れた。
「……何やってんだよ。」
アドラーが呆れたように呟くと、ウルリッヒは無言で袋を差し出す。中から見えたのは、溶ける気配のない、ひんやりとした包装に包まれたアイスキャンデー——しかも、種類が豊富だ。ソーダ、チョコ、ストロベリー、そして……ミルク。さっき溶けて床に落ちたアレと同じ味も、ちゃんとあった。
「ボクのポケットマネーからだ。気にするな、ドーラ達にも渡せ。」
袋の中身を見ていたアドラーは、口元を一度だけ引きつらせた。まるで「それを言うなら最初から冷房を入れろ」と全身で抗議したい様子だが、それでも無言で袋を受け取る。
「……アイス買ってくるくらいなら、最初から部屋の温度下げろよ……!」
「それとこれとは話が別だ。」
珍しく丸の形を作る磁性流体。ウルリッヒは静かに、まるで何事もなかったかのようにチャージポットに手を伸ばし、再びコーヒーを注ぎ始めた。
アドラーは鼻を鳴らし、溜息をつきつつ、冷たくて完全体のままのミルク味を一本取り出す。
「……ま、今回は許す。」
包みを剥がし、かじったその瞬間——ミルクの柔らかな甘さが、舌にしみわたり、喉を冷やし、心の芯まで届いた。
暑さはまだ続いている。だが、今日だけは、許してやってもいい気がした。