数値の歩き方ラプラス本部——
その中枢に位置する中央データタワーの通路では、朝の気配がまだ定着しきらぬうちから、すでに何かが動き始めていた。
重々しい扉の開閉音が、まるで呼吸のように繰り返される。床を踏み鳴らす革靴と樹脂ソールの音が交錯し、空中に浮かぶホログラムが、一定間隔で淡く点滅しては消える。
そこにあるすべてが、冷たい合理性の上に構築されていた。まるで、巨大な脳髄の中を歩いているかのような錯覚を呼ぶ。
その流れに、ひとつだけ明らかに調和しない気配があった。
少女が歩いていた。
歩くというより、思考の波に運ばれて漂っているように見えた。
青く長い髪が、かすかな風もないはずの空調の中で、波を描いて揺れている。
彼女の目はどこにも焦点を合わせておらず、その視線は空中の、誰にも見えない数式を追っていた。
「……この関数、∫₀^∞e^(−x²)dxがなぜ√πになるのか……ううん、ちがう、それはガウス積分の話で、わたしが考えてたのは……分布の母体と標準偏差の、あ、あれ……」
37——アペイロン教団から来た、数学に愛された少女。
この無機質な空間にあって、彼女の存在はまるで乱数のようだった。規則性の中に放り込まれた、一点の不確定性。
彼女は、足元に目を落とさない。
というより、視線の中に物理的な床という概念が存在していなかった。
着ている服も妙だった。
明らかにここラプラスの制服では無いキトン風の、古代ギリシアの衣服を模したローブのようなもの。布地は柔らかく光を弾き、だが丈は微妙に長すぎた。
とりわけ袖が問題だった。足元まで垂れたその布は、彼女の歩調にたびたび引っかかり、微かに躓くたびに小さな音を立てていた。
それでも本人は、まるで気にする様子もなかった。
むしろ彼女の脳内は、別の次元で繁忙を極めていた。
一方、反対側から足音が近づく。
規則的だが鋭い、底の硬い革靴の音。
歩くというより、切り込むように直線を選ぶ者の足取りだ。
アドラー・ホフマン。
長身で、鋭い目をした男。
彼はタブレットを見ながら、疲れた顔で書類の承認を進めていた。首元のゆるいタートルネックはいつもの通り、少しよれたまま。
顔立ちは悪くないがどこか陰気でカビ臭い。いや——むしろ、完璧を捨てた合理主義者の顔。
今朝はもう三件目だ。
押印、承認、リダイレクト。
リズムだけで指は動くが、脳は半分眠っていた。
通路の先に気配はあったが、目では捉えていなかった。
それが”人”であると気づくのは、ぶつかってからのことだった。
「……つまり∂²ψ/∂x²=−k²ψだから、波動関数の一般解は……あれ、でも初期条件が——ッわあっ!」
その瞬間、通路の奥から近づいていた足音が、彼女の迷走軌道と衝突した。
バサッと、軽い布が舞う音。
衝突の音が、通路の冷たい無音を破った。
それはまるで、無限に続く数列の中に紛れ込んだ、ただひとつのノイズのようだった。
少女の体はふわりと宙に浮いたかと思うと、次の瞬間、重力加速度に従って床へと落ちた。
ぺたん、と座り込んだ音は想像よりも柔らかく、痛みよりも先に、きょとんとした空気が辺りに満ちた。
「……いてて……」
青い髪が床に散らばっている。
彼女の声は、驚きと、かすかな納得を孕んでいた。まるで自分の計算が、唐突な現実によって更新されたことを、今ようやく知ったかのように。
アドラー・ホフマンは数歩後ろに下がりながら、反射的に手元のタブレットをかばっていた。
画面にはまだ、未処理の承認タスクが点滅している。その点滅のテンポは、今の出来事を揶揄するかのように不規則に変化していた。
「……何してんだ、あんた……」
アドラーはそう呟いて、ゆっくりと視線を落とした。
そこには、彼のコートの裾に見事に絡まった布——それは少女の長すぎる袖だった。
正確には、キトン風の服の足元まで垂れたその左袖が、コートに絡みつき、軽く結ばれたような状態になっていた。
そして、その袖の先から、床に座ったままの少女が、彼をまっすぐに見上げていた。
「う、うーん……違うの。これは、わたしが悪いんじゃなくて、床が急に位置関数を間違えてて……っ」
まったく悪びれる様子もなく、彼女はつらつらと不可解な言葉を並べた。
それは謝罪ではなかった。言い訳でもなかった。ただただ、彼女にとっての現実を、整然と口にしただけのこと。
「床が関数間違えるってなんだよ……っていうか、どこから湧いた。」
アドラーの声には苛立ちというより、困惑の色が濃かった。
彼の一日はまだ始まってすらいない。にもかかわらず、この数分で既に処理しきれない不定方程式のような相手にぶつかったのだ。
少女は、にこりともせず、むしろ神妙な顔で言った。
「わたし? ずっといたけど。ψは存在確率だから、見えないからって存在してないとは限らないでしょ?」
彼女の瞳には、からかいも、悪意もなかった。
その言葉の意味を、彼女自身が本気で信じているという、ひやりとした確信だけがあった。
アドラーはゆっくりと眉間を押さえた。
頭の奥に、重たい疲労がじわじわと浸透してくる。
「……朝から脳が焼けそうだ……」
タブレットの通知がひとつ消え、またひとつ現れる。その光が、彼の頬を照らしていた。
一方の少女は、ようやく袖の絡まりに気づき、自分のキトンを引っ張りながら立ち上がった。
彼女の動きは妙に滑らかで、まるで別の次元の重力のもとで生きているかのようだった。
「でもね、この接触はたぶん意味があるよ。今わたし、無限級数の収束速度について考えてて——あっ、この衝突が初期値問題になるなら、貴方がdt、私がdx……」
「いーから、今後は前を見て歩け。いや、まずその服なんとかしろ。袖が戦犯だろ!」
その言葉には、ほんのわずかだけ、優しさの成分が混ざっていた。
アドラーの口調はぶっきらぼうだが、少女が倒れたままになっていたなら、彼はきっと真っ先に手を差し伸べていただろう。
「えっ、違うよ! この袖の設計は完璧なの。悪いのは、設計が悪いこの通路の……床!」
彼女は床を指差し、つま先でタイルを小さく蹴った。
まるでそこに本当に計算ミスがあるかのように、真剣な顔で。
アドラーはもう何も言わなかった。
ただ、しばし彼女の背中を目で追っていた。
青い髪が揺れながら、細い肩が通路の先へと遠ざかっていく。
歩くたびに袖が揺れ、その布の端が空気を切る。彼女はすぐにまた思考の海に沈み、足元の世界を忘れていく。
彼はひとつ、深いため息をついた。
「また変なのが増えたな……」
そう言って、視線をタブレットに戻す。
その画面には、次の会議の議題が浮かび上がっていた。
「人員配置の最適化と、数理モデルによる新人特性の解析」
という、やたらタイムリーなタイトルが点滅していた。