Widmung【坂視点坂伴ss】少し昔話をしよう。
これは私がまだ少尉に上がりたての頃。季節は夏、上官に連れて行かれた迎賓館での夜会での話だ。
***
上流階級の社交場とは退屈なものである。華やかなドレスや着物に身を包んだ淑女達、仕立ての良い正礼装姿の紳士達が一つどころに集まっては噂話に花を咲かせ、上辺だけの微笑に、言葉尻にじわりと欲を潜ませて。何とも居心地の悪い場所であった。
おまけに黒を纏った男達の中で第二種軍装の白は目立つのか。至る所から無数の視線を向けられているのが痛い程分かった。頭のてっぺんから爪先までを這う、ねっとりとした視線。粗はないかと誰も彼もが己に点数をつけているようで堪らなく不愉快だった。
己の成功の為に飾り立てた連中から勧められるがまま上機嫌で杯を煽る上官を横目に、青二才であった私はこのくだらない集まりが早くお開きになることをただ願っていた。
そんな中、舶来物の高い酒に酔いが回った上官がお世辞にも小さな声とは呼べない声で唐突にこう言ったのだ。ーー“なぁ、坂ノ上少尉。そろそろ余興が見たいじゃないか。貴様、何が出来る? あぁいうのは弾けないのか”ーーと。
上官が指し示した方向を見やれば、サロンの中央に置かれた演奏会仕様の立派な洋琴(グランドピアノ)があった。談笑や酒を酌み交わしていた紳士淑女達の視線が一斉にこちらに向けられる。
「洋琴……ですか」
「ははっ、洋琴は押せばちゃんと音が鳴る楽器だ。喇叭よりかは幾分簡単だろう?」
「……」
きっとこの時、上官は私を笑い者にでもしたかったのだろう。家柄に恵まれ、何不自由なく与えられた道を脇目も振らず歩んできた私を妬んでいたのだろう。
前々からこの上官に好かれていないことは知っていた。だが、このような場でこのような事でしか日々の発散が出来ないとは。帝国海軍軍人としても、一人の人間としても嘆かわしい話である。この時、沸々と腹の底から湧き上がってきた言葉はーー“舐めやがって”ーーこの一言しか出てこなかった。
「で、私と皆様の為に弾いてくれるのか? 嫌なら裸踊りでも「お望みとあらば」
私は上官の言葉に己の言葉を上から被せた。
「僭越ながら、この坂ノ上庚二少尉。余興に一曲弾かせていただきます」
ゆるりと口端を持ち上げ、笑みを浮かべると呆気に取られた上官の何とも間抜けな顔と目が合う。みるみる茹蛸のように真っ赤になる様が愉快極まりなかった。
「わ、私に恥をかかせるなよ!」
「はっ、最善を尽くします」
ーーコツ、コツ。
私は洋琴のそばへ歩み寄った。見覚えのある独逸語が視界の端に入り込む。
(墺太利製か……懐かしいな。家にあったのと同じだ。丁度このくらいの大きさだったな)
閉じられていた屋根を持ち上げ、突き上げ棒を立てた。最大まで開き、鍵盤蓋を上げてぐるりと側板の曲線をなぞりながら遠回りして椅子を引いた。深く腰掛ける。ダンパーペダルの上に軽く右足を置き、白手袋に指をかけながら周りの声が、物音が聞こえなくなるのを感じた。少しずつ頭に回った熱が下がってくる。
(…………とはいえ、洋琴はそう何曲も弾ける曲があるわけじゃない)
両手を覆っていた白手袋を左、右と脱ぎながら、ふと頭の中を懐かしい顔が過った。陽だまりの中で笑うぼやけたその顔に私は目を細めた。
(いや……あの曲があった)
その時、緊張に逸る胸にじわりとあたたかいものが広がるのを確かに感じた。脱ぎ終えた手袋を弦にかからぬフレームの隅に置いて、目を閉じる。
(変イ長調……ホ長調に転調して、また変イ長調に戻る。強弱は、“少し強く”)
私は目を開け、両手を鍵盤の上に静かに置いた。深く息を吸い、記憶の片隅で埃をかぶっていた譜面を思い起こす。経験とは、肉の記憶とは恐ろしいもので。長らく縁のなかったこの木の感触を私の指は今も覚えていたのだ。
(拍子は二分の三拍子。最初の音は……下から、変イ、変ホ……ハ音)
記憶を辿るように最初の一音である三つの音を両手で弾いてみた。調律はされているようで、小さく響いた三つの小さな波が一つに重なり合う。
(あぁ、この響きだ)
私は一度両手を膝の上に置き、深呼吸してからまた鍵盤に両手を置いた。そして鼻から静かに息を吸い、始まりの一小節、短い前奏部を弾き始めたのだ。
『庚二さん』
頭の中で走馬灯のように過去の記憶が流れ出すと、あとは音の流れに身を委ねるだけだった。そこから先のことはあまりよく覚えていない。ただ覚えているのは、懐かしいその人ーー母との記憶だった。一小節、また一小節と進み始めた曲と共にあの柔らかな微笑が蘇ってくる。こちらの意思と関係なく。
(……貴女はいつか私にこう仰いましたね。“芸は身を助く”と)
女学生時代、西洋音楽を学ぶ為に海を渡った母。
事業に失敗し、没落した家の為に己の夢を諦めて帰国後に坂ノ上の家に嫁いだ母。
厳しい舅と姑であった祖父母、家に殆どいない海軍軍人である父。口下手で人と接することが苦手だった母には周りに頼れる人もおらず、胸の内を話す友人もおらず。心の拠り所は音楽、そして私と兄だと母はいつも口癖のように言っていた。
(今がまさにその時だと心から私は思います)
父や祖父が留守の間、暇を見つけては嫁入り道具として持ってきた洋琴を弾いていた母。
様々な作曲家の楽譜を広げ、五線譜に並んだ音符や休符を丁寧になぞる姿は真剣そのもので、でもどこか楽しげで。まるで夢を見ている子供のような母の横顔を盗み見るのが私は好きだった。母の嫋やかな指が奏でる美しい音の羅列が好きだった。覗いていた私を見つけると恥ずかしげに微笑み、『庚二さん、いらっしゃい』と手招きした母が座る椅子に並んで座り、美しい異国の曲や作曲家や歴史について教わり弾くのが好きだった。あの穏やかに流れていく優しい時間が日々の中で何よりも心地よかった。
『庚二さんは頭がいいだけでなく、耳もとっても良いのですね。直ぐにこの曲も弾けるようになりますよ』
『本当ですか?』
『えぇ、何事も努力を重ねれば自ずと結果もついてきます。たとえそれが結びつかずとも、努力したという事実は自分の支えになるものですよ』
しかし、ある日私が母と洋琴を弾いていたところを祖父に見られてしまったことで突然終わりを迎えてしまった。私は『この軟弱者! 坂ノ上家の男が女々しいことをするな』と怒鳴られ、張り飛ばされた。雪降る夜、庭に裸足で何時間も立たされることとなった。挙句風邪を拗らせ数日寝込むことになり、生死の境を彷徨った。そんな私の看病をしたのはばあやではなく、母だった。
同じくして頬を、瞼を赤く腫らした母は献身的に私の看病をしながら、枕元で子守唄のようにこの曲を口ずさんだ。途切れながら聞こえてくる異国の言葉、聞き覚えのある旋律に乗せ歌う母のか細い声を聞きながら、私は頭の中で何度も母に謝った。“自分のせいで母はお祖父様に洋琴を捨てられてしまった”、“母は心の拠り所を一つ失ってしまった”、“私が男でありながら、女のように洋琴を弾いたせいで”、“ごめんなさい。ごめんなさい”。その謝罪は終ぞ言えず。
それからまもなくの話だ。
ーー母が突然、家を出て行ってしまったのは。
『庚二さん、貴方が大人になったらこの曲を愛する人の為に弾いてあげなさいね。この曲はそんな想いが込められて書かれたのだから』
母は祖父に破り捨てられたこの曲の譜面を丁寧に修繕し、それを置き手紙に私達から去ってしまったのだ。数枚の着物と宝石箱だけを持って。
それから家で母の名前、話が出たことは今の一度もない。他所で作った男と駆け落ちしたのか、冬の海に身を投げたのか。生きているのか死んでいるのかさえ未だに分からない。残された母の持ち物は着物から嫁入り箪笥に至るまで、お祖父様達が何もかも処分してしまったので何も残っていない。残ったのは母が愛したこの曲だけである。
(貴女はいつか私にこう仰いました。“愛する人の為にこの曲を弾きなさい”と。けれど私は軍人になりました。父上様やお祖父様と同じように、兄上様とと共にこの道を歩いています。もう泣き虫康二ではいられません。泣いても誰も助けてはくれないのですから)
(私は貴女のように愛に溢れた人間にもなれません。ましてや愛に生きることも今生叶わないでしょう。そもそも愛というものが分かりません。この道を選んだからには長生きもできないでしょうから、知らずとも良いのだと思います)
(なればこそ……この曲は貴女に捧げます)
(苛立ちに任せ、こうなってしまいましたが……。どうぞ、今この瞬間だけは貴女の為に弾かせてください)
(貴女の声をもう思い出すことは出来ません。あの優しげな眼差しも、手の温もりさえも思い出せません。それでも貴女は今でも私の母上様です)
提示部、展開部、そして再現部で曲の主題である旋律が戻ってくると、私は鼻の奥につんとした刺激を感じた。居ないはずの人が隣にいるようで、自分の名を呼んだようで。何とも言えぬ気持ちだった。
『ブラーブォ!』
祈りの旋律が曲の終わりを静かに終わりを締めくくり、私は置いていた両手をふわりと持ち上げた。膝に開いた頃にはサロンを埋め尽くさんばかりの拍手に溢れ、私は「終わったのだ」と思った。
立ち上がり、深く頭を下げても鳴り止まない拍手と称賛の声。
(さようなら、母上様)
白手袋を嵌めながら怒り心頭に達した上官の隣にまた戻り、長い間顔を真っ赤にしていた上官の寂しい後頭部を見下ろしていた。悪くない気分だった。だが帰りの車で上官からの叱責をいつまでも聞く羽目になったのは言うまでもない。
***
「で、その話のオチはなんですか」
「そんなものはない。あるとすれば……」
「?」
「男はいつまでも母親が人生最愛の人だという話だ」
「……けっ。じゃあ俺はなんだって言うんですかね」
「ははっ、そうだなぁ。……お前が俺を受け入れる覚悟が出来た時、幾らでも話してやらぁ」
(母上様、俗世から離れた今。ようやくあの曲を捧げたい相手に巡り会えました。しかし、この深い海の底には洋琴も楽譜もありません。ですが、私は今とても幸せです)
【おしまい】
《余談》
コージ母捏造設定→女学生時代に留学し、西洋音楽を学ぶ。才能溢れたピアニストとして将来を期待されていたが、父親の事業が失敗。傾いた家を立て直す為、海軍軍人であったコージ父と見合い結婚をする。二人の男の子を産んだことで、ようやく家の中で人権を与えられるも、ある日心の拠り所であったピアノを舅(コージ祖父)に捨てられたことで心が折れてしまう。そして、以前から自分に好意を寄せていたご用聞きの男と駆け落ちをする。別にその男のことは好きではない。ただ、こちらに向けられる好意を利用してどこか遠くへ行きたかっただけ。生きることに疲れただけ。
その後、どうなったかはご想像にお任せします。