ゼロ 沼の底から引き上げられるように意識が急浮上して目を覚ますと、脇腹のあたりに寄り添うように、戦闘装束のままの松井が身を縮めて眠っていた。
何時間意識を失っていたのだろう。肩口からざっくりと袈裟懸けに斬られた傷口は、もうほとんど塞がって血も止まっていた。
松井の居る側と逆の手をそっと動かして、手のひらをぐっ、ぱっ、と握ったり開いたりしてみる。冷たく感覚を失っていた指も思い通りに動く。手入れは終わりかけているようだ。
先の出陣では、松井も軽傷だったはず。松井の傷を確認しようと思い至ったとき、丸まっていた緑のコートがもぞもぞと動いて、松井が上体を起こした。
こちらをそっと伺う気配。次に、僕の呼吸を確かめるように、顔の前に手がかざされる。その手を取って、手のひらに口付けた。驚いてびくりと身体を弾ませたあと、松井はほう、と息を吐いて、「…起きていたのか」と小さな声で言った。
「すまない、僕が起こしてしまった?」
いつもは艶やかで真っ直ぐな松井の黒髪がごわごわと乱れているのを、指で梳きながら答える。
「…自分の手入れしないなら、せめて部屋に戻ってなよ。って言っても、聞かないんだろうねぇ」
僕が中傷以上の傷を負うと、松井は決まってこうやって手入れ部屋に忍び込んで、触れるか触れないかの位置でそっと丸くなっている。
顕現したばかりの頃は、手入れさえすれば時間はかかっても全て元通りになるのだということに半信半疑で、どんなに大丈夫だと言っても聞き入れずに強引についてきたのだけれど、今は、手入れという機能が信じられないという訳ではないらしい。
「どんなに酷く損なわれても、ちゃんと戻るって、もう解ってるんでしょ?」
「…それはそう、だけれど」
小さく絞られた薄暗い灯りの下で、松井の晴れた海の青のような瞳は夜の色をしていた。
「でも、いつかは折れることだって、定めだろう? 僕達は、刀で、モノなのだから」
そんなことはないよ、と返しかけて、では僕達は永遠に在り続けるのだろうか、と考える。確かに、それは人にもモノにも出来ないことだ。付喪神たる僕達は、今はヒトでもモノでもないのだろうけれど、神にだって最期は訪れるかもしれない。
「もし万一のことがあったとして、僕がここに居たって何もできないってことは解っているんだ。でも、僕達にも終わりがあるのならば、そのときは一緒にいたい」
松井は笑うでも泣くでもない、ただただ切実な表情のまま、僕の手を壊れ物のようにそうっと握った。
「だってもう、桑名がいないと上手く息ができないんだ」
僕は身体を起こして、松井の、黒に見える目を真っ直ぐに見て言った。
「折れないよ。約束する」
松井は静かに首を横に振った。
「約束、しないで」
「どうして?」
「信じきってしまうから…」
松井は哀しげに眉を下げて微笑んで、繋がれた手と反対の手で、僕の目にかかる前髪をよけた。
「約束しなくていい、名前を呼んでくれ」
泥濘に足を取られるように、何かに縛られたまま、それでも真摯に不器用に生きる松井を、僕は美しいと思った。
「松井」
「うん」
「松井…」
「…うん……」
抱きしめる腕があって、抱き合える温かい身体があって、良かったと思う。でも、熱して溶けて一つになってしまえる身体でないことが不自由だとも思う。
松井が僕の胸に走る傷に白い指を滑らせる。ぱっくりと肉を見せていたそこは、もう新しい皮膚に覆われて、一筋の線になっていた。松井は何度もそこを指でなぞった。その度に、飛行機雲が風に散らされて消えるように傷が薄くなってゆく。そして、最後には、すうっと見えなくなった。
そのとき、部屋に満ちていた張り詰めた霊力の気配がふつりと緩んで、天井に、薄闇に慣れた目には眩しく感じるほどの明かりが点灯した。手入れが終わったのだ。
うーん、と思いっきり伸びをする。
「うん、全快」
僕は松井に向かってにっこりと笑った。
「じゃあ、僕の番だね」
松井が首を傾げる。
「松井の手入れの間。松井が居てくれたみたいに、僕もここに居るよ」
「いいよ、僕は。軽傷なんだし」
「そうだねぇ、だから、二振りきりでいられるのは、ほんの数時間のことだよ。ねぇ、どうして欲しい?」
「…じゃあ、隣に居て、手を繋いでいて」
「わかった」
僕は、一度部屋を出ると、使用済みの札を、新しい手入れ札と掛け替えた。
部屋の明かりが再び絞られて、小さな灯火になる。
僕は横たわる松井の隣に座って、その手を握った。松井がうっすらと微笑んで、目蓋を閉じる。深い呼吸の微かな音。僕はその薄い目蓋に唇を落として、次に松井が目を開けたときに見られるはずの、晴れた空を映す南の海の色のことを想った。