secret sign 昼休み、一般教養棟の学生食堂で落ち合って昼食を食べていると、桑名が思い出したように言った。
「松井、こないだうちに文庫本忘れて帰ったでしょ。谷崎潤一郎の」
「ああ、あれもう読み終わったから、今度行くときまで置いといてよ。良かったらそれまでに桑名も読んで」
僕がそう答えると、桑名はちょっと困った顔をした。
「えぇー、僕そういうのあんまり読まんのやけど…」
本当は、彼があまり小説の類を読まないことは知っていた。桑名は読書家だけれど、読んでいる本は専門書か、学術系の新書が多い。翻訳ものの幻想文学やクラシックな推理小説が好きな僕の読書傾向とは正反対と言ってもいいくらいだ。でも、それを承知で僕は強引に続ける。
「たまには普段読まないようなの読むのもいいだろ? そうだ、僕も桑名のおすすめ読みたいな。一緒に本屋に行って選んでよ」
桑名は、また松井の気まぐれが始まった、と言いたげな顔で頷いた。
「いいけど…じゃあ購買行く?」
「僕、今日はバイトが休みだから、放課後丸善に付き合ってよ。大きい本屋に行きたい気分なんだ」
こんな風に頼むと、桑名は滅多に断らない。僕は五限の後に再度待ち合わせて繁華街の本屋に行く約束を取り付けた。市内の中心地からは、僕の学生マンションの方が近いから、今日はうちに泊まって行くかな。普段は僕が桑名のアパートに入り浸っていることが多いから、僕の部屋で過ごすとしたら結構久しぶりだ。僕達の日常はほとんど大学とバイトとお互いの部屋だけで完結してしまうから、自転車ならすぐの本屋に行くだけでもデートのようで少し浮かれた気持ちになる。
僕がにっこりと微笑むと、桑名もよくわかっていない顔のままでほわほわと笑い返してきた。
初めて桑名の部屋に入ったとき、物の少なさに驚いたものだ。
大学が多く、学生の町と言われるこの辺りにはまだ意外に残っている、下宿屋と言ったほうがイメージしやすいような、古い和室のアパート。
小さなキッチンとあと一部屋だけという間取りは僕の部屋と同じなのに、ずいぶんがらんと広く見えた。
部屋の真ん中に卓袱台がひとつと、部屋の隅に畳まれた布団。カラーボックス一つに教科書や辞書が収まっていて、過去や趣味を感じさせるような本はほとんどない。桑名はしょっちゅう本を読んでいるのに、どうしてだろうと思って後で聞いたら、「古本屋で買って、読んだらまた同じ店に持ってくことが多いのと、読みたい本はほとんど大学の図書館にあるからねぇ」とのんびりと答えた。それに、あんなに植物が好きなのに、ベランダで紫蘇や葱のような実用的な薬味野菜を育てている他は、観葉植物のひとつもない。「花は、地にあるほうがいいと思うから」だそうだ。
あとは、ノートパソコンと、ソファ代わりの大きなクッションがひとつ。テレビさえないのだ。
この殺風景な部屋に、こんなに通うことになるなんて、思わなかったな。何故か妙に落ち着くのだ。暇なときは持参した本を読むか、たわいない話をしているか、さもなければ昼寝をするくらいしか、することのない部屋なのに。
そして、落ち着くのに相反して、少し怖くなる。
この部屋が、桑名の執着のなさを表しているみたいで。まるである日突然全部捨てて、いつでもどこにでも行けるって思っているみたいで。
もしもいつかその日が来たら、桑名は僕のために踏みとどまってはくれないんじゃないだろうか。そんな切ない予感を打ち消すように、僕はこの部屋に自分の存在を示すものを置いて帰ってしまうのだ。マグカップだの紅茶だの除光液だの、桑名をここに繋ぎ止めるためのおまじないみたいに。
「読んだよ、『刺青』」
週末、いつものようにバイト帰りに、デリの残り物を持参して桑名のアパートを訪ねると、風呂上がりらしく裸の上半身にタオルを掛けた桑名に開口一番に言われた。
「そう、感想は?」
勝手に冷蔵庫を開けて、茄子のラザニアときのこのピクルスを詰めた使い捨てのプラスチック容器をしまいながら振り返らずに尋ねると、桑名が僕の背後に立った。
「松井、ああいうふうにされたいのかな、って思った」
「なっ…」
予想もしなかった言葉に驚いて反射的に振り向くと、肩を掠めるように桑名の手が伸びて、冷蔵庫の扉をぱたんと閉めた。そのまま覗き込まれる。顔が、近い。
「ちがうの?」
くすり、と口元を笑みの形に引き上げて、桑名が耳元で囁く。
「…本、わざと忘れていったんでしょ」
ちがう、と咄嗟に言おうとした喉がひく、と引き攣って、声にならなかった吐息が飲み込まれた。まだ濡れている長い前髪が、僕の前髪に触れそうなくらいの距離で見下ろされて、いつもの桑名のシャンプーの匂いがした。この部屋に泊まって同じものを使っても、不思議と同じにならない髪の匂い。
「…………そう、だよ?」
蜘蛛の巣にかかった哀れな羽虫みたいに、僕は早々に陥落して、冷蔵庫に背を向けて桑名の首に腕を回した。