1青い空、白い雲、見渡す限りは広大な高原。
…はて、私はなんでこんなところにいるのだろうか。
遠く、高い青空の中で鳶だか鷹だか(多分鷹)が悠々と泳いでるのをぼうっと眺めながら、なけなしの腹筋を使って上体を起こした。ぐるり、思案する。
確か…そう、私は所謂社畜というやつで、とても久しぶりに休みが取れたんだ。本来ならば家で忙殺されし日々の疲れを取るべく悠々自適に過ごしていたのだけど、何を思ったか、その日は外出した。洗剤やら食材やら、調達しないといけないものもたくさんあったから、買い物がてら気分転換ができればなって。
夕方だった。両手いっぱいに荷物を抱えて信号待ちをしていた。長く伸びる自分の影をぼうっと眺めていたら、そしたら急に近くから悲鳴が聞こえて、そっちを向こうと首を動かそうとしたらものすごい衝撃のあとに視界いっぱいに夕焼け空が広がって、それで…
「あー……」
確信があるわけじゃない。けど、今私がいるこの場所は、きっと私が日々汗水垂らして暮らしていたあの場所ではないのだろう。確信がないって思いながらも、どこか、心のどこかで多分そうなんだろうなって思ってる私がいる。
目を覚ましたら知らない世界でした、なんて、よくある異世界モノのテンプレを体験するなんて誰が思おうか。
思わず眉間を指で揉む。
つまりなんだ、あれか。
「死んだんか、私」
口をついて出た言葉は、存外すとんと胸に落ちた。今ここで目を覚ます前のあの状況を思い出してみれば多分そう。
ぼすり、さっきまで横たわっていた草っ原にもう一度背中をつける。
「死んだのか…」
もう一度、ぽつり、こぼす。
未練が全くないわけではない。納得だって完全にしてるわけじゃない。だけどもう、死んでしまった以上どうしようもない。
鷹が飛んできた。今度は二羽に増えていた。
抜けるような、目が覚めるような鮮やかな青い空だった。あまりにも底抜けに明るいから、なんだかほんの少し、少しだけ、無性に腹が立った。
「ちくしょうめ」
まぁ、いつまでも寝そべってるわけにはいかないわけですよ。
いつまでもぐだぐだ考えるのは私の性にあわないわけで。ここが私の知らない場所であるならば、やるべきことは決まっている。状況確認はさっきやった。次はそう、周辺把握。今私がいるこの場所がどんなところなのか、把握する必要があるってワケ。でもってずっとこの高原にいるけにはいかないから、あわよくば街でも村でも…とにかく人がいる場所に行きたい。…なんだけど…
「うーん、中々どうして、起き上がれない」
時折優しく吹く風が、とても気持ちがよかった。晴れ渡る空が憎らしいことには変わりないけど、それはそうとして、こうやって自然の中でのんびり日向ぼっこをする暇なんてそうそうなかったから、完全に背中に根っこが生えてしまった。
朝も昼も夜もパソコンと活字と上司の顔色伺いをする日々…はん…思い出しただけで腹たってきたな。
今思えば、なんたって私はあの上司にこき使われてたんだって話。散々っぱら人に仕事を押し付けるだけ押し付けて自分はさっさと退勤ですか。くそが。
さっきちょっとだけ残してきた仕事どうしようとか思ったけど、ぶっちゃけ私がいなくなったくらいで回らないような会社じゃもう無理だよな。ふん。長い長期休暇をもらったということで。
むくり、起き上がって肺いっぱいに息を吸い込む。
「くそたぬき親父ーーーー!!!!ボケナスーーーー!!!!!」
思いっきり叫んでやった。こんな高原に誰もいないであろう暴挙である。叫び散らかすだけじゃ鬱憤は晴れないけど、一瞬帰ってきてた苛立ちは多少どっか行った。はーすっきり。
「びっ……くりした…」
なんて、満足感に空を仰いでいたら私以外にいないと思っていた第三者の声が飛んできて「へ?」だなんて間抜けな声が出た。嘘だろ、絶対に私しかいないと思ってたのに。
どうか気のせいであれ、と念じながら首だけで振り返る。ふわり、ふわり、風に吹かれて揺れる髪は太陽の光を反射してきらきらと輝いていた。青空を閉じ込めたような透き通った目がぱちり、瞬いてとても綺麗だ。
左胸を押さえながら目を剥いて半身を引いた青年がそこにいた。
気のせいじゃなかったな。
「……こんにちは」
青年がどん引きしてるであろうなのは言わずもがなわかるのでとりあえず挨拶して誤魔化した。誤魔化せたかは不明。「こ、こんにちは…?」青年は律儀にも挨拶を返してくれた。いい子かよ。
「……」
「……」
お互い、何も言わない。言わないってか、なんて口火を切ればいいか考えあぐねている。いやだって、あの反応からするに私の全力の暴言をあの子に聞かせてしまったわけで。
ぶっちゃけ、気まずい。
そら、ビビるよな。こんな高原のど真ん中で急にボケナスー!なんて暴言聞こえたら。私だったら爆速で逃げる。怖いもん。
ごめんな…ごめんな…と心の中で全力謝罪をしていたら、目の前の青年は逃げるどころか、一歩近寄って来たではないか。猛者か?猛者なのか?
「あの…よかったです」
何が?
首を傾げる。いや、だって、何がよかったのかさっぱりわからん。あれか、人目も憚らず叫び散らかしたあの気概がいいってことだろうか。
「このあたり、魔物とかよくうろついてるから。少し前から様子見てたんですけど、ずっと横たわったまま動かなかったから死んでるのかと思って…」
「あぁ、そっち…」
「え?」
「いやごめんこっちの話」
どうやら私の気概を褒めたわけじゃなかったらしい。そらそうだ。
とんだ勘違いに悶絶しながら、表面上は至って平静を装って笑顔を作る。というか、少し前から見られていたんだ。へぇ。……へぇ…
「えと、心配してくれてありがとうね。この通りピンシャンしてるよ」
青年に元気であることを身振り手振りで伝える。「みたいですね」そう言って、心底安心したようにはにかむ彼は天から遣わされた人なのだろうか。こんな、いくら人がいないとはいえ全力で暴言を叫んだ女に対して微笑みかけるだなんて並大抵の人間はできない。でもって顔がいい。
寛大すぎる青年の心遣いとイケメンの笑顔の相乗効果で危うく私が消えるところだった。まだ私は人を保てているだろうか。思わず眉間を揉んだ私を青年は不思議そうな顔で見ていた。
ここで会ったのも何かの縁。改めてお互い自己紹介をした。
青年…もとい、リンクくん。彼からここで何をしていたのか、やら、どうしてここにいるのか、とか、色々聞かれたから、私のこと、隠してややこしくなるくらいならと元の世界で一度死んだこと以外包み隠さず答えた。
おそらく異世界から来たであろうこと。気付いたらここにいたこと。とりあえず人里に行こうとしてたこと。
そうしたら、リンクくんも自分のことをぽつり、ぽつりと教えてくれた。
リンクくん、なんと今まで100年ほどずっと回生の祠という場所で眠っていたらしく、目を覚ましたら自分のことはおろか、ありとあらゆる記憶が喪失していたらしい。
でもって、カカリコ村とやらで出会ったインパというおばあさんから100年前に起こった大厄災のこととか、今まさにお城でゼルダ姫がたった一人で厄災を抑えていることとか、自分の使命だとか色んなことを聞いて、今からハテノ村へ行こうとしている道中らしかった。
正直、彼から聞いた話の全部を理解したかと聞かれたら微妙なところではある。だって、体感ついさっきまでそんな摩訶不思議現象と無縁の世界にいたわけで。ぶっちゃけ実感がなくてちょっと他人事なところは少しある。
だけど、ははぁ、なるほど、さっきから遠目に見えるあの禍々しい建物がつまるところ今まさに厄災を封印してるゼルダがいるハイラル城ってわけね。
というかゼルダって…あれだよな、ゼルダの伝説のお姫様のことだよな。私は未プレイだけど。弟たちが遊んでたのを横目で見てたくらいだからゼルダって名前のお姫様とリンクって名前の男の子がいることしかわからんけども。
ここだけの話、ゲームのタイトルがゼルダの伝説だから、割と直近まであの主人公の男の子の名前がゼルダだと勘違いしていた私である。
そこまで考えて、ふと気付く。目の前のこの男の子、そういえばリンクって名前だよな。
つまるところあれか、今私がいるこの世界は、どのシリーズか知らんがゼルダの伝説の世界ってことか。
これが噂の異世界トリップってことね…ははぁん…。
なら、リンクくんはこれから先あのお城にいるラスボスを倒して、ゼルダを助けに行くのか。
いつの時代、どの作品でも主人公ってのは過酷な運命を背負ってるもんなんだな、なんて、他人事のように思ってしまった。
…だとしても。
「…あのさ、お節介かとは思うんだけど、リンクくん」
「うん?」
「その…大丈夫?」
ぽすり、頭に手を乗せる。稲穂色の髪は多少のきしみはあるけれど、ふわり、ふわりと手に触れる感触は柔らかかった。
髪越しに感じるリンクくんの体温。きょとりと私を見つめる青空を写したような目。息遣い。体温。柔らかく吹き抜ける風が前髪を揺らす。
ゲームの世界、だなんて、もう一言で片付けられない。片付けちゃいけない。なぜなら彼は、彼らは、今ここでちゃんと生きている。私も、この世界で生きていかなければいけない。
なぁ、リンクくん、気付いてないだろ。私に自分のことを話している時の顔。おおよそ君みたいな年齢の子がするような顔じゃない。
100年の眠りから覚めて、自分のことも、今まで生きてきたことも何もかも覚えてなくて、それなのに急に使命だとかハイラルの命運とかを背負ったリンクくん。きっと彼は元の世界にいる私の末弟とそう歳は変わらない。だからこれは、そう、弟を持つ姉の、ただの歳上のお節介なのだ。
大丈夫、の意味を察したらしいリンクくんは、ほんのり苦笑いになる。
「俺は大丈夫」
「本当に?」
「……本音を言うと、よくわからない、です…。勇者とか、英傑とか、急に言われても、正直実感がない」
リンクくんの頭を撫でる私の手をすこしかさついた手が触れる。きゅ、と握る手は、少し、弱々しい。
「わからないんだ。人から自分のことをそうだったって聞かされても、それは100年前のことで、俺はそれを覚えていないし、今の俺のことじゃない。なんで俺なんだろうって、思わなくもない。知らない100年前の俺に、俺が塗りつぶされそうで、少し、不安」
「…」
「けど、だとしても、これは俺にしかできないことなんだろうなって、漠然と思ってます。俺がこうして100年からの眠りから覚めたのって、きっとそういうことだから」
「…そっか」
さっきとは打って変わって、空色の目は力強さを灯す。なんだ、本当にお節介だったな。
ふ、と息を吐いてリンクくんの頭に乗せた手を引っ込めようとすると、未だに私の手を握っていたらしいリンクくんの手に力が込められ、両手で握り直された。
「でも、何もかもわからないことだらけで不安だったのは事実ですよ。今こうやって、ツバキさんがいてくれてよかった」
「ん、私も知らない場所で一人だったから、リンクくんが物怖じせずに声掛けてくれて嬉しかったよ」
「…へへ」
はにかむ美人再び。あまりにも眩しすぎて目が溶けるかと思った。
「それでさ、もしツバキさんさえよければなんですけど、ハテノ村まで一緒に行きませんか…?」
私の両手を握って、申し訳なさそうな、少し不安そうな顔で見つめてくるリンクくん。だからさ、あかんって。そんな、子犬みたいにうりゅうりゅした目で見つめないでほしい。というか、手、確信犯か?天然さんか?どっちにしろタチが悪い。
…まぁ、それはそうとして、リンクくんからの申し出はまさに願ってもないこと。ぶっちゃけ、未知の大地を一人で人里探しをするのめちゃくちゃ不安だったし、どっちに行けばいいかわかんなかったからリンクくんがいてくれるのならすごく助かる。「いいの!?ぜひお願い!」間髪入れずに飛びつくと、リンクくんは驚いたように目をまるくしたあと、ふふ、と心底おかしそうに笑った。
「じゃあ、これからよろしくお願いします、ツバキさん」
「こちらこそ、よろしくね、リンクくん」
旅慣れしてない私がどれだけリンクくんと歩幅を併せられるかはわからないけど、せっかくのお誘いなのだ。ありがたく受け入れさせてもらおうと思う。