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    夢小説を投げるところ

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    rkrn/天鬼夢
    微映画沿い

    幼女と軍師「天鬼さま。食べ終えた器は部屋の隅に追いやるのではなくここに置いてくださいとあれほどおっしゃったではありませんか。なんのために盆を置いていると思っているのですか」

    「天鬼さま。脱いだものはこの籠に入れてくださいとあれほど。しわになるではありませんか」

    「天鬼さま。出した本はきちんと元の場所に戻してくださいませ。紙が痛みますし、次に誰かが読む時にどこにあるのかわからなくなるでしょう」

    何かと小言をこぼしながらも、あっちへこっちへ忙しなく動き回る小さな背中を眺める天鬼。そんな彼の視線に気付いた…齢十にも満たない小さな少女は、天鬼が片手に持つ本を見止め、ぷくっとかわいらしく頬を膨らませる。

    「天鬼さま。夜も遅いのにまだ本を読むおつもりですか?ダメですよ、早くお休みになってくださいませ」
    「…私は幼子ではないのだがな」
    「ならばわたしにそう思われないようまずは日々の生活を頑張ってくださいませ」

    ぴしゃり、言い放つ少女は厳しく苦言を申してるつもりではあるが、食い物をいっぱいに詰め込んだリスのように頬を膨らませているものだからいまいち怖くない。ちょいちょい、手招きをすれば顔を顰めつつものこのこ近付いてくる少女。歳に似合わず口うるさい姑のようだが、こういう素直なところは年相応なのだ。
    目の前に来てなお頬を膨らませている少女の両頬を摘めば、ふしゅ、とまぬけな音を立てて空気が抜ける。「ふぃいへほはへはふは、ふぇんふぃふぁふぁ」全くもって何を言っているのかわからないが、言いたいことはわかる。が、存外この頬はやわく触り心地がいいので、もちもちとこねくり回すのをやめないまま、天鬼はぽつり、こぼした。

    「お前は小さいのによく働くな」
    「働かざるものなんとやら、ですから」
    「そうか…」
    「…どうして天鬼さまがそんな顔をするのですか」
    「そんな顔とは」
    「今にも泣いてしまいそうです」

    思わず、目線を下げる。実際泣いているわけじゃないし、泣き出したいとは思っていない天鬼だが、子供というのは、時に人の感情に機微である。天鬼は無愛想鉄仮面を地で行くため、大半の人間からはあまり表情を読み取られることはないけれど、目の前の少女には自分でも気付かない深層を感じ取られたのかもしれない、なんて。
    こんな幼い子供がこんなところで働かねば生きていけない世の中なんて。泰平の世を夢見る天鬼は思う。自分のような天涯孤独の子供を増やさないためにも。いつか子供が、少女のような子供がただ安心して笑って暮らせる世の中になれば。
    だがしかし、現実とは皮肉なものだ。平和な世を手に入れるために戦をする、だなんて。あぁ、ままならない。
    は、と短く息を吐く。「天鬼さま?」自分の顔を覗き込んできた少女をくるり、回転させ、自分の胡座の上に乗せる。そのままなでりなでりと頭を撫で始めれば、特に抵抗もしない少女はやれやれ、と言いたげに天鬼の胸に背中を預けるのだった。





    人間、許容が超えると一周まわって何も言えなくなるというのは本当らしい。
    昨晩少しばかり飲みすぎて見事寝坊を決めた私は、慌てふためきながら文字通り家を飛び出した。
    そう、家を飛び出したのだ。私が借りている部屋のあるマンションは都心ほど栄えてはいないけれど、そこそこ人の往来で賑わう都会にある。だから、ドアを開ければそれなりに背の高いビルが遠目に見えるはずなのに、目の前には木、木、木。当たり前だけど私の家の付近に山なんてない。
    混乱を通り越して冷静になった私はとりあえず遅刻確定であろう会社に電話を入れようと通勤鞄に手を入れ…ようとして気付く。鞄がない。それどころか、なんだ、このちっさいもちもちの手は。
    両手を目の前にかざす。表を向けて、裏を向けて。握って、開いて。自分が思う通りに動くこの手はもしや私の手なのだろうか。心無しなんだか目線も低くなっているような気もしなくはない。え??
    慌てて自分の姿を検め、今度こそ絶句した。見た目は子供頭脳は大人をストレートに体験するだなんて誰が思おうか。というか、なぜに子供?どういう原理?そもそもここはどこよ!!
    しばらくその場で放心していたら、たまたまそこを通りがかったらしい赤い装束(忍者みたいな格好してる…)の人に保護されたのだけれど、それはそれはいたく心配された。
    やれどこから来たのか、どうしてあんなところにいたのかとか、戦で村を追われたのかとか。最後めっちゃ物騒だ
    ったけど、それよりもこんな山の中で人に会えたことが嬉しすぎた私は普通にスルーした。
    連れてこられた先は歴史の教科書で見たことあるようなめちゃくちゃ立派な城だった。今の令和に城の跡地はあれどこんなにもちゃんとした城は存在しないわけで。男に手を引かれ歩きながら思う。私、もしかして過去にタイムスリップ的なものをしてしまったのでは。
    だからとて、今の私には現在進行形で手を引いてくれるこの男以外に頼れる人間なんていないわけで。中身は成人ではあるがどういう訳か子供になってしまった今、素直について行くほかないのだ。

    城へと男と共に足を踏み入れた私は、一際立派な部屋に通されると私を連れてきた男によって上座に座る明らか殿様と思わしき人とすんごい頭がでかい人に紹介された。恐らく身寄りがないこと、山の中をさ迷っていたこと、そして私は一つだけ、彼らに嘘をついた。
    それは、あの山にいるまでの記憶がないということ。実際どうしてあそこにいたのかわかんないし、理由を聞かれたとて答えられないことの方が多いのだ。ならばいっそ、自分の名前以外の記憶がないと言ってしまった方が都合がいい。
    何も分からないと言った時、私を連れてきた男が心底気の毒そうな顔で私を見ていた。なんなら、この城に留まれるよう殿様に打診してくれて、それを殿様が許可したのだから、私はただ深く、頭を下げることしかできなかった。
    嘘をついた罪悪感がせり上ってくる。子供とはいえ見るからに怪しい私をこの城に置いてくれる恩義は、きっと何があろうとこの先忘れることはないのだろう。

    かくして、衣食住を無事に獲得することができた私が次にとった行動は、仕事探しである。
    私をここに連れてきた男…風鬼さんや八方斎さまは子供なのだからと私が働くことにいい顔をしなかったが、見た目は子供だが中身はれっきとした成人なので何もせずに子供らしく、というのが些か苦痛なのである。
    それに、立派な社畜精神のもと社会人生活をしていたせいで働かざるもの食うべからずが全身に染み込んでいるのだ。こんな私を城に留め置いてくれることへの恩も返したい。だから頼みに頼み込んで、渋々折れた八方斎さまがこの城の女中として働くことを許してくれた。
    働くにあたって、八方斎さまは私に新しく「ゆ鬼」という名前を付けてくださった。曰く、ドクタケで働く以上自衛も兼ねて本名を名乗るのはやめておいた方がいいとのこと。どこまでも心が広い八方斎さまに感謝の念が絶えない。
    仕事さえもらえればあとはこっちのもんだ。誰よりも率先して女中頭から仕事をもらい、暇さえあればどこかしらでお手伝いをし、毎日せっせとほぼ休むことなく働いていれば、比較的関わることが多い女中たちならともかく、風鬼さん以外接したことがないであろうドクタケ忍者隊のみなさんからもすれ違うと名前を呼ばれたり、働き者だねとお菓子をもらったりするようになってしまった。さながらドクタケのマスコットのようだ。悪い気はしない。

    このドクタケ、世間では所謂戦好きの悪い城と専らの評判だけれど、ドクタケ忍者隊のみんなも、八方斎さまも、女中たちも、噂に似合わずみんな優しいのだ。多分、根は悪い人たちではないのだと思う。現に八方斎さまなんて、結構悪どい顔をしているけれど、実は中々に私に甘い。ことあるごとに様子を見に来てくれたり、お茶に誘ってくれたり。何かにつけて気にかけてくれるのだ。だからこの前、それとなく風鬼さんに尋ねてみたら、八方斎さまはドクたまと呼ばれる、今の私より少しばかり歳が上の子供たちを教育する学校の校長なのだと教えてもらった。そして風鬼さんにもそこに通う息子さんがいるようで、八方斎さまに口添えしてくれたのか、ドクたま教室へ連れて行ってもらったことがある。
    ドクたまの子たちは自分より幼い私が珍しいのか、まるで妹分ができたように遊び相手になってくれた。
    八方斎さまも、普段仕事ばかりしている私を時々ではあるがドクたま教室に連れ出してくれるようになり、やまぶ鬼ちゃんに至っては自分と同性というのもあり、私が遊びに行く度に甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるから本当にお姉さんができたような気にさえなってくる。
    そして、すごく今更ではあるけれど今まで自分の今の年齢が不明だったので、私は何歳くらいなのかとドクたまの子たちに聞いてみたら、多分7、8歳くらいだと思うとのこと。どうりで物珍しく構われるわけだ。
    そんな子供たちに八方斎さまはとても慕われているようで。私が八方斎さまとドクたま教室に足を運ぶようになってから知ったのだが、彼はドクたまたちのためにイベントを催したり、ピアノを弾いてお歌を歌ったりとまるで保父のような八方斎さまに、なるほど、子供たちに慕われるわけだ、と納得したのはまだ新しい記憶である。
    ドクたま教室が休みの日には風鬼さんが息子のふぶ鬼くんと一緒に私をピクニックに連れて行ってくれたり、川に釣りをしに行ったり、何度か二人のお休みにお邪魔させてもらってたらいつしかふぶ鬼くんが兄貴風を吹かせるようになってなんだかとても微笑ましい気持ちになるなどしている。まぁ、精神年齢はともかく見てくれはふぶ鬼くんより年下だからね。それに、ドクタケに来てから幼子扱いしかされないから、あれほど苦痛に感じてた子供らしくがいつの間にか自然とまろび出ているのだから悲しいところである。今となっては全力で子供アピールしてるのだけれど。

    そういえば、何回目かのお休みの日に一度だけ風鬼さんに「おとうさんがいたらこんな感じですかね」って何気なく言って泣かれたことがある。あの時は急に泣き出した大の大人に心底たまげたけれど、そういえば私記憶喪失で天涯孤独の設定だったな…とふと思い至り、逆にとんでもない罪悪感が襲い来て私の方が泣きたくなった。「その気があればいつでもうちの子になってもいいからな」そういう風鬼さんの隣で首が取れそうなくらい縦に振っていたふぶ鬼くんがいたりいなかったり。

    ぶっちゃけ、この時点ですでに元の時代に帰れる可能性を捨て去っていたりする。帰ることを諦めたわけじゃないし、帰らないととは思う。けれど、例えもし帰れなくとも、戦好きと言う点を除けば普通にいい人たちなドクタケなので、これからもここで女中として働いていくのも悪くないなと思い始めている私がいる。単純に、絆されてしまったのだ。

    ある満月の日。その日の満月は、どこか不気味な気配がしていた。いつもの様に仕事に励んでいると、八方斎さまが水練中に大きな拾い物を持って帰ってきた話をどこぞで聞いた。なんだ拾い物って。
    そこはかとなく気になりはしたけれど、一介の女中である私には預かり知らぬこと。拾い物がなんであれ、私が何か関与することはきっとないんだろうな。

    …なーーーんて、そんな他人事のように思ってた時期が私にもありました。

    「ゆ鬼はいるか?」

    休憩中、忍者隊の方からもらったお菓子を他の女中たちと部屋で頬張っていたら、突然八方斎さまがいらっしゃった。今まで女中の部屋がある長屋に八方斎さまが来るなんてまずなかったので私たちは大いに慌てたし、姐さん方なんてびっくりしすぎて饅頭を畳に落としてしまう始末。そんな姐さんたちを気にもとめず、八方斎さまは私の姿を見止めると話があるとちょいちょいと手招きをした。何か怒られるようなことをしてしまっただろうか。ほんのちょっぴり不安を胸に抱えて、姐さん方に席を外す旨を伝えてから八方斎さまに駆け寄る。

    「ここじゃなんだ、歩きながら話そう」
    「はい」

    とてとて、八方斎さまの後ろをついていく。私の歩幅に合わせてくれてるのか、八方斎さまの歩みは私のそれと変わらないことに嬉しくなり、にぱっと笑いながら「八方斎さま、ご用はなんですか?」と問いかけた。

    「実はお前に頼みがあってな」
    「頼み?」
    「先日からこのドクタケで軍師を雇った話は聞いているか?」

    軍師、と聞いて思いつくのは、一週間ほど前くらいだろうか、女中たちがえらく面のいい軍師がドクタケにやってきたと騒いでいるのをちょこっと耳にした。いつの時代も女は面のいい男に色めき立つんだなぁ、なんて他人事のように思っていたけれど…

    「男前が来て目の保養だと姐さん方が言ってましたが、その方でしょうか?」
    「…まぁ、そうなんだがな…その話は置いといて…ゆ鬼よ、お前にその軍師の世話係を頼みたい」
    「………へ?」

    せわがかり。世話係!?誰の!?巷で噂の軍師の!?
    軍師といえば、戦略を練ったり敵陣を落とすために頭を使う、言わば城の要といっても過言ではない。ただの女中で、しかもどこぞから来たかもわからないような子供が顔を合わせられるような立場のお人ではないことは私でもわかるのに、八方斎さまは世話をしろと言った。意味がわかりません。

    「あの、八方斎さま…」
    「どうした?」
    「お声をかけてくださりとても光栄なのですが、どうしてわたしなのですか?その…自分で言うのもあれですが、身元もわからない私のような子供を世話係にするには、その…」
    「お前はもう身元不明の子供ではないだろう。ドクタケの立派な一員で、女中頭からもお前はよく働いてくれているあと報告を受けている」
    「八方斎さま…!」
    「それに…」
    「それに?」
    「……何度か世話係を募集したのだが、皆すぐにやめてしまってな…あと残っているのがお前しかいないのだ」
    「…………」

    もにょもにょと珍しく言葉を濁しまくる八方斎さまに、私は思わず半目になる。軍師の世話係の募集があったことは知ってる。軍師という立場の人間の世話係につけば超絶出世なのは間違いないけれど、先程も言った通り、私は子供で、そんなえらい人の世話係に子供がなれるほど世の中甘くないと思っている。だから私は見送ったのだ。せいぜいいつも通りそれとなくかわいがられながら仕事をしている方が性に合っている。
    …だがしかし、あれほど色めき立っていた女中たちがこぞって世話係をやめたということは、よほどその軍師とやらが人遣いの荒いお人なのか、顔の良さで賄いきれないほど人として終わっている性格なのか…
    もし仮に、軍師がそんなカスみたいな性格の人間だったとして、その世話係に子供の私を指名するなんて八方斎さまってば鬼畜なのだろうか。
    正直言って普通に嫌だ。
    …けど。

    「すまないが、引き受けてくれないか?」

    八方斎さまが困っている。悪どい顔も、きりっとつり上がった眉も今はなりを潜めて、へちょり、と垂れ下がっているのだから、普段何かと気にかけてもらってる私としては無下にできないわけで。
    私をドクタケに受け入れてくれたご恩、ここで返さずいつ返すというのか。
    とん、と薄い胸を張って拳を軽く打ち付けた。

    「おまかせください。未熟なわたしですが、精一杯おつとめさせていただきます」
    「おぉ、引き受けてくれるか!感謝するぞ、ゆ鬼」

    どれ、おやつをあげよう。私の頭をなでりながら金平糖が入った袋を持たせてくれた八方斎さまの顔は、完全に孫を愛でるそれであった。

    軍師の世話係の仕事はさっそく今日から行うらしい。部屋を出たそのままの足で女中頭のところへ行き、私のこれからの業務について八方斎さまが伝える。女中頭はびっくりしたように目を丸くしたけど、すぐにゆるりと目尻を下げ私を見ながら「頑張っておいで」と言ってくれた。

    「天鬼、入るぞ」

    軍師に宛てがわれた部屋まで八方斎さまと共に向かう。一言かければ部屋の中から了承の声が聞こえたので、八方斎さまは襖を開けるが、中を見た瞬間硬直し、はぁ、と困ったようにため息を吐いた。なんだろう、今のため息…何を見たんだ八方斎さま…。
    無礼を承知で八方斎さまの脇からひょっこり部屋の中を覗き込む。すぐに顔を引っ込めた。

    「天鬼…お前なぁ…せめて出した本くらい元の場所に戻しなさい…」
    「…申し訳ございません」

    覗いた一瞬えらい男前が見えた気がするが、そんなのどうでもよく思えるくらいとんでもないものが見えた気がした。今までの女中が立て続けにすぐやめていった理由がわかってしまったような、わかりたくないような。思わず顔をしわくちゃにした。
    軍師の部屋は、筆舌に尽くし難いくらい、汚かった。散らかってるってレベルじゃない、これはもう、世間で言う汚部屋というやつ。
    ほんの少し覗いた範囲だけでも脱ぎっぱなしにされた上衣や、そこら中に散らばる本、机の上には食べ終えたであろう食器が見えたのだから、全体像はもっとすごいのかもしれない。…考えただけで恐ろしい。

    「それより、今日からお前に新しい世話係をつけることにした。ゆ鬼、挨拶しなさい」
    「は…」

    早くも八方斎さまからの頼まれごとを引き受けたことを後悔している私がいる。あまりの部屋の汚さに放心してたら八方斎さまに声をかけられたので、慌てて隣に並び、頭を下げた。

    「ゆ鬼と申します。本日より軍師さまの身の回りのことをさせていただきますので、なんなりと申し付けください」
    「…こんな子供を、ですか」
    「ゆ鬼は子供だが、大人に負けないくらい働き者でよく気が利く子でな。仲良くするんだぞ」
    「…八方斎様がそう仰るのでしたら」
    「ではゆ鬼、あとは頼んだぞ」

    そう言い残して、去っていく八方斎さまを見送る。…さて、と。
    改めて部屋を見渡して、半目になる。よくもまぁこんなに散らかせたものだな。というか、この人今までこんなきったない部屋で過ごしてたってこと?私が言うのもなんだが、ドクタケの女中はわりとシゴデキ女が揃っている。たとえ軍師の顔面に釣られようが自分に与えられた仕事を放棄するような人たちではない。そんな彼女たちがだ、こぞって投げ出したのだぞ、この男の世話係を。
    もうすでにげんなりしてる私がいるが、だからとて私まで投げ出してしまったらこの先ずっとこの男はこんな…こんなくっっっっっそ汚ぇ部屋で過ごすことになる。衛生面的にも普通に害悪だし、部屋が常にとっ散らかったままでは頭が休まることはないのだ。

    「…軍師さま」
    「…なんだ」

    じっとり、睨め付けるように見遣れば、気のせいかもしれないがほんの少しだけ軍師がたじろいだ気配がした。
    懐から紐を取り出し、手早くたすき掛けにする。「失礼いたします」ずんずん軍師の元に足を踏み鳴らしながら近付き、胡座をかく軍師を見下ろした。

    「失礼を承知でお願いもうしあげます。いったん、部屋から出ていってくださいませ」
    「…………………」
    「早く」
    「……………まだこれを読んでいる」
    「読んでていいですから外に行ってください!いいですか、わたしがいいよって言うまで!ぜっっったいに!入っちゃダメですからね!」
    「……承知した」

    念に念を込めれば渋々、といった軍師を半ば放り出すように部屋から追い出すことに成功した私。改めて部屋を見渡して…あぁ、汚い…汚すぎる…
    よーっし、このくそ汚い部屋、片付けるぞ!


    それからというものの、私は軍師…もとい、天鬼さまの世話を焼いた。それはもう甲斐甲斐しく。
    まずこの男、面はこの城の女たちが色めき立つほど整い、尚且つ軍師をしてるくらいなのだから非常に頭がいい。現に天鬼さまが来てからドクタケの動きは以前に増して秀逸だ。ただ、それと引き換えにどこぞへと落としてきたのかと問いただしたいくらい生活力がカスであった。
    初めてこの人の邂逅した時もそうだったけど、食ったものはそのまま、脱いだものも放りっぱなし、出した本もそのへんの床に置いてすぐに違うものに手をつけ始めるから、部屋を片付けても少し目を離した隙に天鬼さまの周囲に本が積み上がっているのだ。綺麗にしたその後秒で散らかされた私は人生で初めて漫画のように膝から崩れ落ちたのは記憶に新しい。それはもう顔をしわくちゃにした。
    なので、応急措置として、部屋の入り口付近に脱いだ着物を入れる籠と食べた後の食器を置く用の盆を設置したのだ。
    くれぐれも、必ず、洗濯物はそのへんに置かないように。籠の中に入れるように。食べ終えた食器は盆の上に置くように。私が下げます。まるで子供に言い聞かせるが如く再三しつこく言い続けた甲斐があり、三回に一回はちゃんと指定の場所に洗濯物と食器を置いてくれるようになった。進歩である。あまりに感動しすぎてこの前うっかり天鬼さまを幼子にするみたく「天鬼さまえらい!」って頭なでなでしてしまった時には不敬で斬り捨てられるかと震えたが、私の予想に反して天鬼さまがなんかこう、初めこそなでられてびっくりはしていたけれど、特に嫌がりもせず大人しくしているから、調子に乗った私はことある事に「天鬼さまえらいですね」つってなでなでするようになった。本人嫌がってないからいいよな。
    そんなことが度々あったからか、天鬼さまはなぜか妙に私に心を開いたというか、懐いたというか…なんか、私がどこに行くにしても後ろをカルガモよろしくついてまわるようになったのだ。大の大人が8歳の子供のあとをついて歩く姿が微笑ましいのだろう、廊下ですれ違う人すれ違う人全員になんだか暖かい顔で見られていたたまれない。
    でもって挙句の果てにだ。

    「ん」

    地面に片膝を立て、私に向かって両手を広げる天鬼さまを半目で見つめる。
    部屋に引きこもりがちな彼を食後の散歩と称してほぼ毎日連れ出していたら、そのうちなぜだか私のことを抱っこしたがるようになったのだ。ほんとなんでだよ。

    「…天鬼さま、いつも言いますが、女中を抱っこしたがる軍師がどこにいるのですか」
    「ここにいるが。それに、お前は女中とはいえ子供だろう。なんの問題もない」
    「問題しかありませんけど!?おてて繋ぐので我慢してください」
    「昨日はいいと言っただろう」
    「聞き間違いでは」
    「…どうしても、ダメなのか?」
    「う…」

    こてん、と小首を傾げるこの男のなんてあざといこと。ダメか?じゃないのよ。見た目は子供だけど中身はがっつり成人してるしなんならあなたより年上なので普通に恥ずかしいし普通に苦行。顔がいいからってなんでも許されると思うなよ。
    ちなみに、このやり取りは今日が初めてではない。さっきも言ったように、初めは手を繋いで(天鬼さまの逃走防止で捕まえてたらいつの間にか恒例になってた)歩いてたのに、何をどうしてそうなったのか。なぜ急に私を抱っこしたがるようになったのか。意味がわからない。「あらあら、ゆ鬼ちゃんったら恥ずかしがらずに抱っこさせてあげたらいいじゃない」通りがかりの女中が言う。こういう人目のつくところでするから確実に外堀から埋めにかかってきている。伊達に軍師ではない。いやそうじゃなくて。天鬼さまもあぁ言ってるんだから、みたいな顔すんのやめろってば。

    「とにかく!軍師さまが女中を抱っこするなんてごんごどーだんですから!」

    とにかく、これ以上は抱っこするしないの問答をするつもりはない。そう言葉の端に滲ませてくるりと勢いよく踵を返……そうとして、なんと、自分の足にもつれて顔面からすっ転んだ。

    「…………」
    「…………」

    背後からの沈黙が痛すぎて泣いた。言語道断!とか言って早々転んでるのもはや新手のギャグでしかない。全然面白くないです閣下。
    あぁ、恥ずかしすぎて地べたに突っ伏したまま微塵も動けない。頼む軍師よ、私のことは捨ておいて部屋に帰ってくれ…

    「う、わッ…!」

    なんて、恥ずかしさに打ちひしがれていると、不意に脇に何かが差し込まれ、そのまま持ち上げられる。びっくりして咄嗟に目の前にあるものにしがみついてしまったが、よくよく見てみればそれは天鬼さまの首だった。というか、すぐ目の前に天鬼さまのご尊顔があるのだがこれいかに。
    サッと血の気が引く音がした気がした。

    「も、もうしわけありません…!目の前でぶざまにすっ転んだあげく、天鬼さまの手をわずらわせてしまうなんて…!」
    「気にするな。それより、怪我は」
    「あ、えと…はい、大丈夫です」
    「ならいい」

    さっと自分の体を見下ろして怪我がないことを確認する。結構盛大にすっ転んだわりに些細な擦り傷しかないのだから、我ながら頑丈である。いやそうじゃなくて。

    「あの、天鬼さま」
    「なんだ」
    「いえ、その…」

    降ろしていただけると。そういう前に天鬼さまが急に歩き出したものだから、私はおっかなびっくり目の前の首にしがみつく他ない。
    何を隠そう、この男、この時代にしては高身長なので、こうして抱っこされると必然的に私の目線がぐんと上がるわけで。つまるところ高くてちょっぴり怖いのだ。落ちないよう天鬼さまの首に腕を巻き付かせて、ぴっとりくっつけば、彼はどこか満足そうに歩を進める。わぁ、しゅごい、私男前に抱っこしてもらってる…。

    天鬼さまは目立つ。それに加え私を抱っこして歩いてるのだから注目度はさることながら。あら、と目を瞬かせる者もいれば、天鬼さまを見てげ、という顔をする者。物珍しそうにまじまじ見てくるもの。千差万別である。
    げ、とこぼした人に関しては、まぁ、天鬼さまって意外と規則とか決まり事にうるさいから、専らそれの餌食になった人たちであろう。真面目というかなんというか…真面目だよなぁ…

    「どうした」

    なんて思いながら天鬼さまの顔面を拝んでいたら、それに気付いたらしい本人がゆらゆらと左右に体を揺らし始めた。あの、別にぐずってるわけじゃないし構ってほしくて見つめてたわけじゃないのでのであやさないでもらえますか。

    「いえ…天鬼さまって……」

    優しいですよね。言おうとして、やめた。

    「…なんでもないです」
    「そうか」

    口をまごつかせる私を急かすわけでもなく、続きを聞き出そうとするわけでもなく、一瞥。単純に興味がなかっただけなのかもしれないが、だとしても、この男のそんな距離感が心地いいと思う私がいることもまた事実。
    なんだかんだこの男、中々どうして厳しいが、それと同じくらい優しい。きっと根っこの部分は善人なのだと思う。いつだったか、あまりにも夜更かしをする天鬼さまを布団に押し込めようとして、ならば湯たんぽになれと一度だけ布団を共にしたことがある。天鬼さまの名誉のために言うがやましい事なんで何一つとしてなかった。当たり前だ、あってたまるか。
    話が逸れた。とにかく、その時にほろり、と天鬼さまがこぼしたのだ。昔、子供の頃に戦に巻き込まれ、家も家族も失い天涯孤独になったのだと。自分のような子供を増やさないためにも、私のような子供が働かなくてもいいような、泰平の世を目指したいのだと。
    土台、無理な話だ。私にとってのドクタケはいい人たちではないがめちゃくちゃ悪い人たちでもない。だけど世間から見るドクタケはそうじゃない。戦好きで、天鬼さまの部屋に吊るされてるような世界平和のスローガンとは真逆に突っ走る悪名高い城である。
    ゆえに、そんなドクタケにいる限りこの男が夢見る泰平の世の中なんて来るはずがないし、本当に平和な世の中にしたいのならさっさとドクタケから去るべきだ。
    …そうは思うが、そういえば私は、この男がここへやって来た経緯も理由も知らない。ここに来る前はどこにいて、何をしていたのか。どうしてドクタケで軍師をやることになったのか、何も知らない。八方斎さまに聞いたとしても、きっと何も教えてはくれないのだろう。

    「ままならないものですね」

    天鬼さまは何も言わなかった。

    結局、あのまま天鬼さまに抱えられながら天鬼さまの自室へと戻ってきた私たち。床に降ろされ、久方ぶりの足裏の感覚に咽び泣く。おかえり床。

    「………ゆ鬼」
    「はい?お茶ですか?それとも昨晩読んでた書物の続刊を取ってきましょうか?」
    「いや…私は少し出る」
    「えッ?」

    い、今さっき散歩から帰ってきたばかりなのにどこへ行こうというのだ…いや本人の自由なのだからいいんだけども。もしかして歩き足りなかったのだろうか、と困惑気味に天鬼さまを見上げれば、なぜだかひどく優しい手つきで頭をなでりされた。なぜ。

    「安心しろ、すぐに戻る」
    「あ、はい…いってらっしゃいませ…?」
    「いってくる」

    そう言って私を部屋に残し、再び出て行った天鬼さま見送る。…刀、持ってたな…。

    「侵入者かなぁ…」

    ぽつり、こぼすが私の疑問に答えてくれる声なんて当たり前だけどいない。それに、部屋の主がいないからとて、仕事がないわけではないのだ。
    机周りに散らばる(また夜更かししたなあの男…)本を巻ごとに棚にしまい、最近は割と毎日ちゃんと籠に入っている洗濯物を洗い場に持っていく。うんうん、来た時より幾分か、ほんと、わずかーーーーにでも、生活力あがったのでは。良い良い。この調子で頑張ってほしい。
    天鬼さまの服は山伏の装束みたく白いから、うどんの汁が少しはねただけでも結構目立つんだよな。だからこそ、曲がりなりにも生活力を説く者として彼にシミのついた着物なんて着せられないわけで。

    「あ、あった」

    上衣を広げてシミ探しをしていれば、あまり目立ちはしないが併せのところに点々と。さくっと染み抜きをしてしまってから洗濯板でごっしごっし。軽く水洗いして、確認。よしよし、とれてるとれてる。
    袴も同じように裾あたりについた汚れを落として、物干し竿に引っ掛ける。まだほんの少しだけ高い位置にある太陽を真っ白が反射して眩しくて、思わず目を細める。こんなにも服は眩しいのに、纏う本人はひっそりと仄暗い。まるで…

    「満月みたいな人だよなぁ」
    「何がだ」
    「うわぁ!」

    尻尾を踏んずけられた猫よろしく飛び上がり、ばくばくと早鐘を打つ心臓をおさえながら振り返ると、叫ばれたことが心底意味がわからないと言うように眉をしかめた天鬼さまが私を見下ろしていた。そ、そんな顔したって気配もなく背後に立たれたら誰だって叫ぶわ!

    「もぉ!びっくりしたじゃないですか!」
    「ちゃんと声をかけた」
    「それはッ…そう…!」

    本人に悪気がないのはわかってはいるけど、やっぱり音もなく背後に立たれるのは心臓に悪い。かといってこれ以上問答を続けるつもりはないので、大人しくこちらが口を噤む。

    「よくここがわかりましたね」
    「籠がなかったのでな」
    「あぁ…でも、わざわざどうしてここへ?これが終わったらお茶をお持ちしようと思ってたので、部屋でくつろいでいただいてもよかったのですよ」
    「……」
    「…?」

    今度は天鬼さまが口を噤んでしまった。俯く天鬼さまのお顔は背の低い私からよく見える。なんというか、薄ぼんやりしてるというか、心ここに在らずというか、明らかにさっき部屋で別れた時とは違うなんとも形容しがたい表情をしている。「どうか、しましたか?」にっぱり、笑う。ぶらんと下がる天鬼さまのおててを引いて、近くの縁側へ腰をおろした。

    「……」

    僅かばかり口を開いて、閉じる。珍しく言おうか言わまいか迷ってる。普段の天鬼さまならずけずけと物を言うのに、こうも躊躇させるだなんてこの数刻の間にこの人に何があったのか。
    だけど私は急かさない。さっき天鬼さまが私にしたように、言い出してくれるのを待つ。そうしたら、短くふ、と息をついた天鬼さまの目が私を捉えた。

    「お前は、土井半助という名に聞き覚えはあるか」
    「どい、はんすけ…」

    はて、そんな名前の知り合いいただろうか。くるり、思考を回すけれど、どれだけ記憶をほじくり返そうがそんな名前の知りあいはいない。そりゃそうだ、なぜなら私はここへ来てそう日が経っていないうえに、そもそもドクタケ以外で顔見知りなんていないのだから。

    「いえ、ぞんじませんが…」
    「…ならいい」
    「?」

    天鬼さまが何を言いたいのか全くわからないし、どうしてその名前を私に問いかけてきたのかもわからない。天鬼さまが何も言わないから、私は天鬼さまが思い悩むそれを汲み取り、一緒に頭を悩ますこともできない。
    …いや、一緒に思い悩むだなんて、一介の女中がしていい範疇じゃないし、これ以上は私が踏み込むことではない。
    未だに私を見下ろし続ける真っ暗な目を見つめ返す。そうしたら、天鬼さまは一度ぐ、と目を閉じて、開いた。変わらず何も写さない、真っ暗な瞳だった。

    「今夜、私はここを離れることになった」
    「そうですか…」

    ドクタケが戦をする話は少なからず聞いている。だからいつもより場内が騒がしくて、女中たちもばたばたと忙しそうにしていたことも知っている。
    軍師である天鬼さまが動くということは、これから始まるであろう戦が本格化するということだ。縁側から立ち上がり、天鬼さまの正面に移動する。

    「では、わたしのおやくめはここまでですね。ご武運をおいのりしております」

    深く、頭を下げる。軍師である天鬼さまが移動する先となれば、おそらく戦の最前線になるだろう。ならば、ただの女中で、子供である私はそこへはいけない。戦が終わり、天鬼さまがドクタケに帰ってくるその時までお別れだ。
    …けど、多分、多分だけど、私たちが再びこのドクタケ城で顔を合わせることはきっともうない。なんとなく。ただの勘。それなのに、どこか確信している。
    顔を上げれば、くしゃり、と、綺麗な顔を歪めた天鬼さまに思わず苦笑いをした。

    「なんてお顔をしているのですか。それともなんです?わたしがいなくて寂しい〜!だなんて言わないでください
    な」
    「…だとしたら、どうする」
    「ごじょうだんを。たかが小娘一人が消えたところであなたさまに何か影響があるとは思えません」
    「お前がそう思っていても、私がそう思っていないかもしれない」
    「だとしても、あなたはわたしごときに気を取られてはいけないのです」
    「…はぁ。気のせいか、時々お前が幼子に見えない時がある」
    「気のせいですよ。同年代よりほんの少しだけ早くに荒波に飲まれた、ただの子供です」

    なんだそれ、と言いたげに天鬼さまが笑う。私も同じように、へらっと笑った。やっぱり、この男は優しいんだ。

    その夜、天鬼さまはドクタケ忍者隊と共に戦の最前線へと向かわれてしまった。





    「ゆ鬼ちゃん、そこの掃除終わったらもうあがっていいから、晩ご飯食べといで」

    雑巾を水の張った桶に浸しながら、声をかけてくれた女中に振り向きざまに「はーい!」と返事をした。
    天鬼さまがドクタケから最前線に身を移してから数週間が経った。詳しくは知らないが、始まると思っていた戦は始まらず、軍師によって立ち上げられた計略もご破算となり、結局いつものように国境を挟んでの睨み合い続いているらしい。
    そして、最前線へと向かった軍師が、実は忍術学園に所属する先生で、満月の日に行った水練中になんの因果か八方斎さまの石頭とぶつかり、記憶をぶっ飛ばしていたが、ついこの前記憶を取り戻し、忍術学園に帰って行ったらしいことを風鬼さんから教えてもらった。あの時言っていた拾いものがまさか人だとは思わないし、悩ましげに土井半助の名前に聞き覚えはあるかって聞いてきた天鬼さま、自分の名前だったんじゃん。よかったね、思い出せて。というか、そんな機密に近いことをべらべらと私に喋ってええんかって思ったけど、風鬼さんなもう全部終わったことだから問題ない、なんて言っているがこれいかに。

    …でもまぁ、何はともあれ天鬼さま…もとい、土井さんにはちゃんと帰りを待ってくれている人たちがいたのだ。なら、いいじゃないか。

    襖を開け、足を踏み入れる。ここは、以前天鬼さまが使っていたお部屋だ。今となっては半分物置のようになっていてほとんど人は寄り付かなくなっているが、私はこうして、時々一人になりたい時にこの部屋にやってくる。
    寂しくない、と言えば嘘になる。たった数日。されど数日。あまりにも生活力がなくて、片付けた先から散らかしていくあの男のことはどちらかと言えば好きじゃなかった。なのに、いなかったらいなかったで寂しいと思うくらいには、いつの間にかあの男に心を砕いていた私が知らないうちにいた。
    壁にもたれて、この部屋には窓がないからぼんやりと天井を眺める。
    あの人は今、ちゃんと笑えているだろうか。泰平の世を作るために何かを犠牲にしていないだろうか。…今、何をして、どんなものを見ているのだろうか。

    なーんて。

    「まぁ、わたしにはもう関係のない話か」

    さて、食いっぱぐれる前に晩ご飯もらってこよう。そう思い、立ち上がった瞬間、かたん、と静かな部屋に何かが外れる音が響いた。

    「な、なに…?」

    おっかなびっくり、部屋を見渡す。が、当たり前だけどこの部屋には私しかいないし、もし何かいたとしてもそれは人じゃない…

    「幽霊って、コト…!?」
    「誰が幽霊なんだ?」
    「ひょあッ!!」

    いつぞやのように尻尾を踏んずけられた猫よろしく飛び上がる。この前より数センチ高く飛んだ気がしたが気のせいではない。
    ばっくんばっくんと今にも口からまろび出そうな心臓をおさえながら恐る恐る振り返ると、薄暗い部屋の中に黒い人影がいた。初めこそ何がいるのかわからなくて発狂しそうだったけど、少しずつ目が暗がりに慣れてくるとぼんやりとではあるが顔が見えるようになってきた。
    この時代には珍しい高身長と、優しく弧を描く眦、そして、以前とは打って変わって真っ黒の装束を着た天鬼さまに似た誰か…もとい、土井半助が佇んでいた。

    「土井、半助さん」
    「…知っていたのかい?天鬼じゃない私のことを」
    「風鬼さんに、あなたのことを少しだけおしえてもらいました。それと、天鬼さまがいなくなってからの現状をちょっとだけ」
    「なるほど」

    苦笑いをした土井さん。さっき聞こえた音は、この人が部屋に侵入した時のものだったんだろう。本当なら音なんて立てずに私の背後をとるくらい造作もないはずなのに、わざわざ音を立てたということは、私が前に音もなく背後に立たないでほしいと言ったことを覚えててくれたからなのだろうか。今となっては彼はもう天鬼ではないので私の勝手な憶測あるいは願望でしかないけれど。…まぁ、だとしても猫よろしく飛び上がってしまったことに変わりはない。

    「それはそうとして、何かご用ですか?ごらんの通り、このお部屋は物置で、金目のものはありませんよ」
    「え!?ち、違う違う!私は泥棒しに来たわけじゃないよ!」
    「じゃあどんなご用事で?」
    「それは…」

    く、と口を引き結んだ土井さんがゆっくりと私に向かって歩を進める。私は、特に逃げるでも後ずさるでもなくぽけっとその場で土井さんを見上げていたら、目の前で立ち止まった土井さんは困ったような、呆れたような、なんとも言えないそんな顔をしながら私と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。

    「君なぁ、ちょっとは警戒するとかしないとダメだろう」
    「相手があなたでなければそれなりに警戒しますけど、あなただしまぁいいかなと」
    「その私への信頼はどこから来るんだ?もし私が君に何かするかも、とか、考えないのかい?」
    「何かするんですか?」
    「いやしないけど…」
    「じゃあいいじゃありませんか」

    ふむ、我ながらくそかわいくない返事だ。けれど、実際に土井さんからはそんな素振りも気配も何もないのだから仕方ない。上手いこと隠してる、と言われればそれまでだけど、だとしても、彼が私に何かしてこようだなんて思えないのだ。
    じ、と暗がりの土井さんの丸い目を見つめ続けていると、今度こそ彼は困り果てたように笑いながら、私の頭に大きな手を乗せた。

    「君は一体、本当は何歳なんだろうね」
    「少しばかり早く社会の荒波にもまれた、ただの8歳ですよ」
    「そういうことにしとく」

    ゆったりと左右に動く手を甘受する。多分だけど、この人は私の見た目と精神のちぐはぐさに気付いている。なのに、あえてそれを深く追及してこないのだから、つくづく優しい人だと思う。「ゆ鬼ちゃん」土井さんに頭をなでられるのがくすぐったくて目を閉じていると、心無し真剣味を帯びた土井さんの声が私を呼んだ。天鬼さまと同じ声でちゃん付けされるのは、些か変な感じだ。

    「なんでしょう」
    「君さえよければなんだけど、私と一緒に忍術学園に来ないか?」
    「どうして?」
    「…君のような子供が過ごすには、あまりにもここは…」

    もにょり、土井さんは言葉を濁した。まぁ、言いたいことはわかる。ドクタケは戦好きで、八方斎さまは悪どいし、ドクタケ忍者隊も悪巧みして周りの城に茶々入れしてることも知らないわけではない。
    …だけど。

    「…ありがたいお言葉ですが、遠慮しときます」
    「どうして?八方斎に遠慮してるんなら気にしなくてもいいんだぞ?」
    「遠慮とか、そんなんじゃないんです」

    他ならぬ彼らがここにいてもいいんだと私に帰る場所をくれたのだ。まるで我が子のように気にかけてけれる風鬼さんや、孫のようにかわいがってくれる八方斎さま、何かと構ってくれる女中たちや忍者隊のみんな。世間からはあまりいい目で見られていない彼らだけど、私にとっては大切で、大好きで、どうしようもなく私が帰りたい場所なのだ。

    「わたしは、八方斎さまたちがいるドクタケがいいのです」

    それを伝えると、土井さんは僅かに目を見開いて、そうしてすぐに穏やかに笑った。

    「…わかった。君がそうと決めたなら無理強いはしない。…だけど、何か困ったことがあったら、いつでも私のところに頼りにおいで」
    「はい!」
    「もちろん、何もなくても時々忍術学園に遊びに来てもいいからな」
    「それ、仮にもドクタケにいるわたしに忍術学園の先生がそんなこと言っていいんですか?」
    「いいんだよ」

    いいんだ。
    なんだかおかしくなって思わず吹き出すと、土井さんも同じように、けれど息を潜めて笑っていた。

    そうして土井さんは、来た時と同じように(おそらく)天井から帰っていき、部屋には再び静寂が降りる。
    さて、と。

    「ゆ鬼〜!どこにいるんだゆ鬼〜!」

    何やら慌てたような八方斎さまの声が聞こえる。そういえば晩ご飯を食べに行く途中だった。まだ私が食堂に来てないことを八方斎さまが聞きつけたのか、探しに来てくれたらしい。

    「はーい!八方斎さま、ゆ鬼はここにおりますよ!」

    たっ、と駆け出し、少しだけ振り返ってから部屋を出る。
    また、変わらない日々がやってくる。寝て、起きて、しっかりご飯を食べて、時々お菓子をもらって、忙しなく働く。一人分の白い影を視界の端に捉えることはもうないけれど、これでいいのだ。
    再び巡る日常を、今日も私は生きていく。

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