ある日の話 その日、デュースの母は人生でも上位に入るくらいビックリすることがあった。
年の瀬も近く少し忙しい頃だった。夫に先立たれ慣れない子育てをする日々、仕事漬けの中でたった一人の息子には寂しい思いをさせている自覚があった。だから疲れていても毎日コミュニケーションは欠かさなかったし、休みの日には買い出しを兼ねたお出掛けや遠出もした。
その日の朝、デュースの母はちょっとお寝坊だった。前日は仕事の終わりに息子を連れてマーケットまで買い物に行った。帰ってきてからも遊び足りないデュースの相手をして、夜は食事にお風呂に慌ただしく時間は過ぎた。ようやく自分の時間がとれるのは夜も更けた頃で、ついつい寝るタイミングを逃してしまい目が覚めたのはすっかり日も登りきっていた。
休みで良かったわ、とまだすやすや眠るデュースを横目にゆっくり布団を抜け出し、朝食の準備を始めようと髪を結んだ瞬間。
ピンポーン、と、玄関のチャイムが来訪者の存在を告げた。デュースの母は一瞬ぽかんとしてしまった。玄関を見て、次に時計を見た。カチカチと音を鳴らす時計は短針がもうすぐ9に差し掛かるところだ。お寝坊ではあるけれど、人が訪ねて来るには少し早い時間帯である。
起き抜けに着替えてはいるので、次のチャイムが鳴る前にデュースの母はパタパタと玄関へと向かった。自分の母────デュースの祖母にあたる人物は、家も近く連絡もなく来ることもあった。きっと今日もそうなのだろう、あまり考えずに玄関の鍵を外し扉を開けて、そしてドアノブに手を掛けて開け放したポーズのまま固まった。
「……はじめまして、デュース・スペードくんのお母様でお間違いないですか」
身なりの良い青年が1人立っていた。二十歳くらいだろうか、恐ろしく顔の造りがいい。白と黒の少し奇抜なツートンカラーの髪に、少し冷やかなアイスグレーの瞳はしっかりとしたアイラインとシャドウで囲われていた。やだ、私より肌綺麗じゃない。なんてデュースの母は内心ちょっぴり思う。そしてその青年は冬の寒い朝の空気からその細身のシルエットを隠すようにボリュームのある毛皮のコートを羽織っていた。こんな町外れの小さなアパートに来るように見える人間ではない。
はじめまして、と開口一番に言われたように、デュースの母はその青年に見覚えはなかった。これだけ目立つ容姿(と服装)なら記憶に残るはずだ。フリーズするデュースの母だったが、青年から差し出されて来たものを思わず受け取ってしまう。小さく四角いカード、名刺だった。それとパスポートのようなもの。名刺には有名ブランドのロゴとデザイナーの肩書き。パスポートのようなものを開くとNIGHT RAVEN COLLEGEと学生証という文字列、そして目の前の青年の顔写真。どちらにも同じ名前が記載されている。
「デイヴィス・クルーウェルと申します。他に身分証が必要でしたら公的機関の書類もお見せしますが…」
「いえ、その…、…必要ありません」
学生証の名前と学年の横に、アルファとあった。わざわざこんなに若いアルファの青年が、身分を明かして朝早くに来る心当たりなんてない。
「少々長いお話をさせていただきたく、もし宜しければお邪魔させていただいても……いや、初対面の相手を家に入れる不安もあるでしょう。外でお会いすることは可能ですか?」
ただ、その青年のことを何故か信頼しても大丈夫だという予感があった。昔から勘だけは良かった。ここぞという危険だけは根拠のない勘で全て回避してきた。散らかってますけど、と頭に一言添えてデュースの母はその青年を狭いアパートの一室へと迎え入れた。
青年は実に礼儀正しかった。開示できる自分の情報は全て教えてくれた。本人含めて親兄弟親類含めて錚々(そうそう)たる職種や経歴が並び、それもどこぞの立派なカタログに載った名前と写真つきで何人も説明されれば疑うこともできなかった。青年もアルファであるし、恐らくはアルファ性が強く発現する家系なのだろう。ベータ性のデュースの母には接点のない世界の人種だ。飲み物をと用意した安物のティーバッグのお茶が申し訳ない。どうして彼がここへ来たのか、一層不思議に思った。
「………本題といいますか、その」
それまでスラスラと饒舌なまでに言葉を紡いでいた青年は、急に歯切れが悪くなった。そわそわと落ち着かない様子で、何度か唇を濡らすように噛み、そして紅茶の入ったらマグカップに口をつける。
「…………貴女の息子さんである、デュースくんですが…」
そこから先は、なんだかおとぎ話のような言葉をデュースの母は聞いた。彼いわく、まだ3歳の息子は彼の運命のつがいなんだとか。これは言葉では説明ができないが、間違いないのだと青年は言った。運命のつがい、という言葉くらいデュースの母も知っている。アルファとオメガの結びつきの中でも、出会った瞬間に『この相手だ』と確信するほど相性のいい相手のことだ。アルファもオメガもよっぽど遺伝子的に相性が悪くなければ惹かれ合うものだが、運命のつがいは世界中探してもいるかどうかというレベルの相手のことで、むしろ出会わずに生涯を終えることが殆どだという。
目の前の青年は19歳だと言うから、デュースとはなんと16歳も年の差がある。いきなりそんなことを言われても戸惑ってしまう。いや、そもそも。
「……デュースはオメガ、なんですね」
扉一枚隔てた隣の部屋で未だ気持ちよく眠っているであろう息子へとつい視線を送る。デュースの母はベータ、亡くなった夫もベータだった。だから子供であるデュースもベータ、きっとそうだと勝手に思っていた。
「間違いなく…。もし信用に足りなければ検査費用はこちらで持ちますので病院へお連れしますが」
「いえ、アルファの貴方が言うならそうなんでしょうね。でも検査は一度くらい受けさせたほうがいいわよね…。…それで、貴方の目的を教えていただけるかしら」
青年の申し出はかなり姿勢の低いものだった。
いつか番うことができればと思うが、まだ幼いデュースを囲うようなことはしたくない。デュースが自分の意志で相手を選ぶことができる歳までは待ちたい、その為の援助をしたいという。
「生活費などの保証もします。弁護士や会計士などを入れて法的にも問題のない範囲で金銭的支援もさせていただきたい」
「そんな、そこまでさせていただくのは…」
「もし無償でということに抵抗があるのでしたら、こちらの親類の経営している会社へ貴女に転職していただくことも可能です。専属の保育士のついた保育施設も併設されていますし、社宅もあります。貴女は以前服飾関係の専門職に就いていたようですが、その時のスキルを活かせる場所です。時短勤務も可能、福利厚生では近辺エリアのどの会社よりも手厚い自信があります」
その一切に見返りは求めない、ただデュースが成長するのを見守らせてほしい、のだと言う。そして可能であればデュースが適齢期になる前に、ヒートを遅らせるためのホルモン剤の服用をお願いしたい、これは無理強いはしないが提案のひとつとして考えておいてほしい。
他にも様々な提案を受けた。正直デュースの母も困惑している。つい先程初めて会った相手のことを、一切不安なく受け入れられるかと言われれば厳しい。ただ青年の言うことは魅力的な提案であるし、地位のあるアルファが番う候補のオメガに対して生活の面倒をみる行為は、一般世間でもたまに話を聞いたりすることだ。ただここまで歳が離れた相手に、長期間に及ぶであろう支援の約束をするのは珍しい。
「……もし、息子が将来薬を飲まなくても、貴方を選ばなかったとしても、私達には返せるものがないんです」
「それは承知の上です。アルファもオメガも運命で結ばれるほうが稀…、その時は息子さんの選択を尊重します。でも、もし私を選んでいただけたのなら、必ず幸せにすると約束します」
「貴方はずっと待つことになるのよ?」
「10年でも、20年でも」
「………貴方くらい将来のある人が、そこまでうちの息子に拘らなくても」
「それは」
「おかぁさん」
と、小さな声がした。二人は同じ方向へと顔を向ける。横開きの扉に目元を擦りながらまだ眠たげな男の子が立っていた。どうやら一緒に寝ていた母親が居なくなっていたことに不安になって起きてきたようだった。強めの抑制剤を飲んでいても仄かにわかる甘い香りがデイヴィスの鼻腔をくすぐる。
「あら、起きてきちゃったのね」
そう言ってデュースの母親が時計を見ると、アレコレと話し込んでいるうちに時計の長針はぐるりと一周してしまっていた。デュースに駆け寄りヨイショと抱き上げると、デュースは嬉しそうにニコニコと笑う。
「いいにおいがする。このにおい、ぼくすきだな」
ふふ、と幸せそうに笑うデュースに、母は張っていた気が抜けてしまった。結局親がどうこう言うことではないのだ。きっといつか大きくなった時、息子はこのデイヴィスという青年を選ぶ。これも根拠のない勘だ。そして自分が信頼している勘でもある。
振り返ると青年はなんだか泣きそうに顔を歪めていた。どんな思いがそこにあるのか、デュースの母には分からない。
「さて、ごはんにしましょうか。まだ準備できてないからすぐ作るわね」
「オムライスたべたい!…おかあさん、この人は?」
「この人はね、」
「ああ、説明は大丈夫です、関わるには早すぎる。仕事についての書類と、弁護士も含めたやり取りもしたいので後日改めてご連絡させていただきます」
そう言って青年はテーブルに置き去りにされた名刺に個人的な電話番号を付け足すと、テーブルの上に伏せて立ち上がる。それでは失礼します、と角度のあるお辞儀をひとつしてさっさと帰ってしまった。
「おかあさん、いまのだあれ?」
「………今は誰でもないのよ」
「なにそれ、だれなの?」
「うーんとね、お母さんの、お友達かな」
ぷうと頬を膨らませるデュースの、柔らかい輪郭を擽りながら母は優しく笑いかける。彼は貴方の運命の人よ、なんて言ってもきっとまだ分からない。
息子の運命になるために頑張ろうとしている青年を思うとなんだかぼんやりしてしまい、デュースの母はいつもより大きくなってしまったオムライスに苦笑するのであった。
End.